第六話 狂気の老秀吉から逃げろ!爆走転封リクエスト
天正十八年(1590年)。
豊臣秀吉による「小田原征伐」が始まった。相模国・小田原城を拠点とする関東の覇者・北条氏を20万の大軍で包囲する、天下統一の総仕上げである。
この小田原征伐において、別所長治(32歳)率いる別所軍は、相変わらず「最前線には一切出ず、小田原を囲む陣地への巨大な配給所の構築と物流」に命を懸けていた。
「さあさあ! 本日の小田原包囲陣の夕食は、駿河湾で上がった新鮮な魚の刺身と、温かいにきり飯にございます!」
「別所殿……貴殿の陣地は評判どおりのようだな……」
小田原城を見下ろす石垣山一夜城で、徳川家康が感心したように長治に声をかけた。
長治はピンと背筋を伸ばし、完璧な四十五度のお辞儀を繰り出した。
「これなるは徳川内府(家康)様! 戦とは兵の胃袋を満たしてこそにございます! 内府様の陣にも特製の鰻の蒲焼きをお届けさせますぞ!」
「おお……鰻か! それは重宝する!」
(よし……! 未来の天下人・徳川家康へのファーストコンタクト、完璧!!)
長治は心の中でガッツポーズを決めた。
父祖の地・三木からの爆速引越し
小田原城が落城し、北条氏が滅亡すると、秀吉は事前の計画通り、徳川家康に対し「関東八州(江戸)」への国替えを命じた。
そして、家康が去った後の東海道の要衝・遠江国(静岡県西部)へ、別所長治の転封(国替え)が正式に発令されたのである。
【東播磨・三木20万石】から【遠江・掛川15万石】へ。
実質的に5万石の減封(減給)である。
三木城では、何も知らない家臣や領民たちが「殿が減封された!」「父祖の地を追い出された!」と大騒ぎになっていた。
「兄上! なぜでございますか!」
弟の友之と治定が、半泣きで長治の部屋に飛び込んできた。
「我らは織田の時代から殿下に忠義を尽くしてきたはず! それなのに5万石も減らされて東海道へ飛ばされるなど、あんまりです! 納得がいきませぬ!」
長治はサバの味噌煮をモグモグと噛み砕き、お茶をズズッと啜ると、呆れ顔で二人を見つめた。
「お前たち、何も分かってないなぁ。これは『大勝利』なんだよ」
「はぁ!? 減封が大勝利!?」
「いいか? これから大坂と京都は血の雨が降るぞ。殿下はな、これからどんどんおかしくなっていくんだ。関白の座を譲った甥の秀次様を殺し、千利休に腹を切らせ、朝鮮に無謀な兵を出して自滅していくんだよ!」
長治(歴史オタク・山本一郎)の超・具体策な未来予知に、友之と治定は息を飲んだ。
「大坂のすぐ近くに居座っていたら、ちょっとした言いがかりで一族全員首をはねられかねないんだよ! だが、掛川15万石に行けばどうだ? 大坂の狂気から遠く離れ、次の天下人である徳川家康様の真隣だ! 5万石の減給くらい、命代と思えば安いもんだろうが!」
「……な、なるほど……! 兄上はそこまで見据えてご自分で国替えを申し出られたのか……!」
二人納得したところで、影の功労者・淡河定範が渋い顔で入ってきた。
「殿、引っ越しの準備が整いました。しかし……三木の領民どもが『別所様を行かせるな!』と街道に押し寄せて泣き叫んでおります」
「えぇ……! めっちゃ愛されてるじゃん俺!」
史実では「飢え死にさせてごめんね」と切腹した長治であったが、今作では「適正な税制と平和な統治」により、領民から絶大な人気を得ていたのだ。
長治は三木城の門前に立ち、集まった大勢の領民たちに叫んだ。
「みんな! 今までありがとう! 俺は掛川へ行くが、お前達の事は忘れないぞ! 三木は豊臣家の直轄地になるが、みんなちゃんと飯を食って長生きしろよーーーッ!!」
「長治様ぁぁぁーーーッ!!」「お手を振ってくださったぞーーーッ!!」
アイドル並みの歓声と涙に見送られ、長治率いる別所一族は、爆速で駿河・遠江の地へと引っ越していった。
掛川城主・長治の「徳川家ストーカー作戦」
文禄元年(1592年)。
長治は新居である掛川城(静岡県掛川市)に入城した。
掛川は東海道の真ん中に位置し、京・大坂と関東(江戸)を結ぶ超・重要拠点である。そして少し東には、江戸城に入った徳川家康の領地が広がっていた。
秀吉は東海道沿いに豊臣恩顧の大名を配置し、徳川家を監視・牽制する役割を期待したが、秀吉死後それらは全くの期待外れとなる。
「よーし! ここからの作戦名は『徳川家康様の超・都合の良いご近所さん作戦』だ!!」
長治は掛川城に入るやいなや、徳川家への猛烈なアプローチを開始した。
まずは、史実の正室(波多野氏)と円満離婚していた長治は、家康の側近である本多忠勝や榊原康政を通じて、徳川一門の女性との再婚を申し出た。
「内府(家康)様! 我が別所家は、東海道の守りとして徳川様と固い絆で結ばれたいのです! どうか徳川一門から後妻を迎えさせてください!」
家康は江戸城で手紙を読み、苦笑した。
「別所長治か……小田原の折に鰻を届けてくれたな。秀吉子飼いの大名かと思っていたが、自ら願って掛川へ参り、ワシにこれほど接近してくるとは……」
側近・本多忠勝がヒゲをさすりながら言った。
「殿、別所家は東播磨20万石を誇った名門。しかも長治は兵糧輸送と陣地建設の天才でございます。西からの秀吉の動きを監視する上でも、味方に引き入れておいて損はございませぬ」
「うむ。よし、一門の娘をくれてやるか。長治を徳川の『準一門』のように扱ってやるのだ」
(よっしゃぁぁぁぁぁぁーーーッ!! 徳川親衛隊のポジションゲットォォォーーーッ!!)
報告を受けた長治は、掛川城で小踊りした。
朝鮮出兵の「完全怠慢回避・減点ゼロ」作戦
しかし、平和な時間も束の間、老いと狂気に取り憑かれた豊臣秀吉は、ついに無謀な「文禄・慶長の役(朝鮮出兵)」を強行する。
全国の大名に肥前・名護屋城(佐賀県)への集結と、朝鮮半島への出兵が命じられた。
多くの武将たちが異国の地で血を流し、補給線を絶たれて困弊する中、長治はどう乗り切ったか?
「名護屋城における、日本一の『後方・物流拠点』の経営」である。
「殿下! 我が別所家は、渡海する諸将のための兵糧米の船積み、および名護屋城下における傷病兵の医療体制の構築に全力を尽くします!」
「うむ、長治! 頼んだぞ!」
長治は朝鮮半島へ渡海するリスクを最小限に抑えつつ(一部の補給船団の指揮のみで前線での戦闘は回避)、名護屋城でひたすら「日本中から送られてくる米や武具を、無駄なく朝鮮へ送るロジスティクス」を完璧に回した。
石田三成や増田長盛ら奉行衆も、長治の完璧すぎる事務処理能力に舌を巻いた。
「別所殿の書類と荷の管理……一切の誤差がない。石高の偽りも、兵糧の横領もない。なんと恐ろしい事務能力……!」
過酷な朝鮮出兵において、多くの大名が財産を失い、秀吉への不満を募らせ、あるいは戦死していった。
しかし別所長治は、「戦死者ゼロ、過失ゼロ、出費も最小限、秀吉からの評価は高維持、家康との絆は激深」という、信じられない完璧な成績でこの地獄の6年間を走り抜けたのである。
そして――慶長三年(1598年)八月十八日。
太閤・豊臣秀吉、伏見城にて死去。
「……ついに、巨星が落ちたか」
掛川城の天守で、40歳となった別所長治は静かに目を閉じた。
「天正八年の『三木の飢殺し』を回避し……文禄慶長の地獄も生き残った。さあ……いよいよ最後の仕上げだ。天下分け目の関ヶ原へ行くぞ!!」




