第一幕:渡された物
あの人……母も、僕と同じ演劇部に所属していたのだから、あの話について知っていてもなんら不思議ではない。あの話というのは琴華中学校の七不思議の一つ、『旧校舎の演劇部稽古場に出る幽霊』のことだ。
旧校舎にある、かつて演劇部が使っていた稽古場。その一角に、神棚が祀られている。この神棚にグレープジュースを供えて稽古場の舞台で演技をすると、幽霊が出てきて演技を上手くしてくれる。……というどこの学校にもあるような話だ。
歴代の演劇部出身者で、有名になった役者の多くが、この幽霊に会って演技が上手くなったと噂されている。ちなみに、母もその一人だ。
そういえば、この話を初めて聞いた時に、何気なく母に聞いてみたことがあったっけ。その時ははぐらかされてしまったけど、知っているから神棚に供えてこいって言ったんだろう。
「……まさかなぁ……」
じっと、僕は母から渡された紙袋を見つめる。神棚に供えてこいなんて、まるで、本当に母も幽霊にあったことがあって、代わりにお礼参りに行けと言っているみたいだ。……馬鹿らしい。
そんな非現実的なこと、あるわけない。あそこには、幽霊なんか出ない。身をもって経験済みなのだから、間違いない。
そう。僕は身をもって経験している。入学式当日、式が終わるや否や、藁にもすがる思いで僕はこの幽霊に会いに行ったのだ。でも……結果はこの通り。
演目が悪いのかと思って、幾つも試した。時間帯がいけないのかと思って、色々な時間で試した。グレープジュースがいけないのかと思って、色々なメーカーのグレープジュースを供えた。でも、全部ダメだった。何をやっても、幽霊は僕の前に現れることはなかった。
だから、自信を持って言える。稽古場の幽霊なんていない。……でも、だからと言って頼まれたことをやらないのは違う気がする。
「仕方ない……」
明日、朝一行ってくるか。グッと、僕は寝ていた体を起こして伸びをする。
ぐるぐるぐるぐる、いろんなことを考えすぎて、疲れてしまった。こんな時は、好きなことに没頭するのが一番だ。今なら、大会に向けて集中できる気がする。
僕はベッドから降りると、カバンからロミオとジュリエットの台本を取り出して、机に広げて腰を下ろした。台本の中は、赤や黒であれこれ書き込んでいるので、だいぶヨレヨレだ。正直、別に開く必要はない。台本の内容は、隅から隅まで頭に入っているから。でも、僕はこの時間が大好きだ。台本を開くたび、新たな発見があるから。
「舞台は花の都、ヴェローナ……」
冒頭の序詞役のセリフから、ゆっくり目を通す。明日はうまくやろう。頭の片隅でそう思いながら。
***
「……おはよう」
そう言う僕の声に、返事はなかった。僕が寝ている間に母は家を出てしまったようで、玄関にあった真っ赤なピンヒールがない。代わりにダイニングテーブルには朝食の準備がされていて、一言『紙袋よろしくね』とだけ書かれたメモが置かれていた。最低限伝わればいいというのが、あの人らしい。
ふと、そのメモの横を見ると、そこにはどこかの大学のパンフレットが置かれていた。表紙に書かれていた学校名は、
「……私立ウィリアム学園大学……って……」
その大学の名前を、演劇好きで知らない人はいない。それは、超有名な演劇科がある大学だ。
「……何考えてんだよ」
僕がこんなところに行けるわけがないことを、あんたが一番よく知ってるだろ。乱暴にパンフレットをゴミ箱に捨てて、僕は冷めてしまったトーストにかぶりつく。急いで食べた朝食は、まったく味がしなかった。
「……行ってきます」
朝の支度を簡単に済ませて、足早に家を出る。寄りたくはないけれど、今日は旧校舎へ寄らないといけない。手に持った、紙袋が重い。
さっさとこんなもの、手放してしまおう。そう思いながら、僕はいつもの通学路を急いだ。
***
旧校舎は校内の北側に位置していて、演劇部の稽古場を含めた一部だけが残っている。現在は使われていなくて、立ち入り禁止だ。なので、普段はほとんど人が近寄らない。
そんな旧校舎に、僕はこっそり侵入する。何ヶ所か窓ガラスがないところがあるので、忍び込もうと思えば簡単なのだ。見つかると面倒なので、バレないようにそっと、演劇部の稽古場があった場所に向かう。窓から朝日が差し込んで、室内は思った以上に明るかった。でも、当然手入れはされていないので、廊下はギシギシと軋む。その音も気にせず突き当たりまで進むと、稽古場と書かれたプレートがいまにも落ちそうになっていた。扉には鍵がかかっていない。ずいぶん昔に壊れたようで、扉がしっかり締まらなくなっているのだ。僕はそっとその扉を開けると、埃っぽい室内へ足を進めた。
入って正面に簡易な舞台。その手前は広く場所がとられていて、普段の稽古に使われていたんだと思う。床には様々な傷がついていて、きっと過去の演劇部部員が練習でつけたものなんだろう。右手には粉々に割られてしまっているけれど、大きな鏡が備え付けられていたようで、いつでも自分の姿を確認できるようになっていたみたいだ。そして左手の扉の近くにあるのが、……例の神棚だ。
古びたそこには、木でできた板に白い紙が巻かれているお札のようなものが、中央に置かれている。紙には何か文字が書いてあるけれど、劣化していて読めない。そしてその両サイドには、何も挿さっていない白い花瓶が置かれていた。なんてことはない。普通の神棚だ。
「さっさと供えて部活行こ……」
荷物を置いて、僕は紙袋から中身を取り出す。思った通り、中身は瓶だった。何気なしにパッケージを見る。そこに書いてあったのは、
「ろま……んえ……こんてぃ……、ッ!?!?ロマネ…コンティ!?!?!?」
まさかの酒だった。




