第一話『孤立を蝕む魔蟲と出会い』
───五感が無くなり、思考もまとまらず、過ぎていく時間すら数えられない。
そんな状態が流れていたが………
突然にして思考が上手く行えるようになった。
輪郭になろうとした手前で霧散していく言葉たちが、僕の中で輪郭を、そして意味を持ち始めた。
思考とともに時間の経過を感じる。
それと同時に、徐々に感覚が目覚め始めた。
最初に感じたのは、肌を包み込む湿り気を帯びた空気の冷たさ。
ひんやりとしていて硬く無機質な匂いと、立ち枯れた草のように埃っぽくて淡い苦味のある匂いが鼻腔をくすぐる。
嗅ぎ慣れない匂いを前にしても不思議と違和感はない。それどころか、馴染みのある空気だ。
この肉体から感じ取れるものに対して、違和感はない。だが、肉体そのものに対しての違和感はあった。
「………ん? ちょ、待て」
感覚的には確認するまでもなかった事実を、それでも確認しようと目を開き、自身の体を見ようとした。
───その瞬間、僕の視界に初めて映ったこの世界。
立ち上がる瞬間、視界の端から端までを支配する一筋の柱が七つ。前後左右、途方もないほど遠くに位置する。
それぞれ独特な様相をした柱たちは圧巻だった。
さらに空は灰のような煙に覆われて、青い空などなかった。灰色の煙を貫通して白い光が差し込む。
そんな中で、七つの柱は灰のような煙すら貫き、最上が視界に収まらないほど天高く聳え立っていた。
周囲には冷え切った岩石や砂が広がり、数少なく自然と呼べるのは立ち枯れた草や乾燥した苔のみ。
驚きはあった。だがそれ以上にこの終末にしか見えないこの世界に畏怖していた。
「なんだよ、これ………現実? 日本じゃないよな?」
このまま寝ていては駄目だと、仰向けの体勢から立ち上がった。
しかしその瞬間、困惑が勝っていたために逃れられていた現実を身を持ってして感じた。
男だった僕にあるはずもなかった胸が、揺れた。
「なっっ!!?」
咄嗟に自身の胸と股を押さえた。
「あるべきところになくて、ないべきところにある…………!!」
あらゆる意味での絶望が全身を包み込み、背筋が震えた。
しかしそれと同時に、理解できてしまった現実に対して興奮が混じった。特に股の現実に。
女体化──いわゆるTS。僕は元々、幼稚園児の頃から性に目覚めていた悪い意味で将来有望な男だ。
それが何を意味するかなど、身を持たずして知っていた。まあ身を持って知るなど現世ではまずあり得ないのだが……
元来のTS作品と言えば、男が女になってか弱くなり、そこに漬け込まれてむふふな展開が付きものだ。
だがこの身長、豊満な胸、筋肉質な尻と足、引き締まった腕。
正直、前世のヒョロガリよりも数倍強そうに見える……いや、強さに胸は関係ないか。
そして外見。
薄緑色をした薄手の、袖が短いワンピース。身を覆い隠す黒いフード付きのマント。
首元の三日月の形に割られた原型のわからないネックレス。
青い髪、黄緑色のインナーカラー。
鏡など無い、顔も全体像もわからない。
だがこんなファッションが許されるのは、美女だけだろう(偏見)
必然的に、僕は巨乳の美女に転生したことになる。
この身体、終末にしか見えない世界、電撃のように僕の思考に突き刺さった“転生”の文字。
「………現実的に考えて、前世のままよりはマシだけど……見ただけでわかるこの終末世界に、女の体で耐えれるのか?」
そんな素朴な疑問が思わず声に出た。
次の瞬間だった。
目にも留まらぬ速度で地を這う赤黒い巨体がその場で硬直し、僕の視界に収まった。
───ゴキブリに似た、巨大な虫だ。
あんな虫、日本には愚か、地球にもいないだろう。 紛れもない、現実とは異なる生物……地形。前々からの“異世界転生”という確信を、さらに強める。
自らの肉体が、無意識に警戒体勢を取った。
その禍々しい巨体がゆっくりとこちらに向きを変えた。それに気が付いた瞬間、同時に骨が軋むような鈍い衝撃音。
重い面での衝突に、トラックで轢かれた時と同じような痛み、同じような衝撃を感じながら宙を舞った。
「あ、がぁぁぁああ!?!?」
理解が追いつかぬ間に、重力に従ったまま落下していき、二度目の重たい衝撃。喉の奥から何かが迫り上がってきて、不快な鉄の味が口内を支配した。
背中から落下し、数回転がってうつ伏せに落ち着いた。気が付けば自らの口から出てきたのだろう血溜まりが視界の全てを満たしていた。
───痛い。比喩の対象が見当たらない程に。
トラックに轢かれた時は感覚が麻痺していたのだろう。轢かれたあとには何も感じなくなっていたはずだが、今は明確に違う。
腹の底が潰れたのか、肉体の芯が折れたのか、明らかに同じ質の致命傷だというのにこの身体は麻痺してくれない。
痛みが思考を塗り替えて、行動に移せない。
助けを求めようとも、咳き込んだ末に喉から出たのは血塊のみ。
この世界のことも、この身体のことも、何もかもわからぬまま、また視界が閉ざされそうになった───
そんな視界の端に、小さな人影が映った。
淡く、透明感のある赤髪のボブ。
それが意識の最後に、唯一認識できた相手だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「え?」
確かに、今意識が途切れたはずだった。
体も、痛みに打ち震えていたはずだ。
だと言うのに、意識は既にハッキリしていて、自身の肉体にも傷は無い。
口から吐き出してしまい、服や地面を汚していたはずの血も、汚れ自体も見当たらない
まるで傷が付いたという事実ごとなくなったかのように。
理解が追いつかないまま、咄嗟に辺りを見渡した。あの巨大なゴキブリは少なくとも周囲にはいない。
安堵し、胸を撫で下ろした。
その時、前方から女の声がした。
「………何寝ぼけているの? 傷はもう無いんだから、自力で立てるでしょ。それとも何? このまま荒野に置いて行かれたいの?」
こちらに振り向き、一瞥。それだけして振り返ると、僕を置いて立ち去ろうとする。
他人を塵とでも思っているような声色で淡々と呟く。歩く速度を緩めもしない。薄情に見える一人の少女。
先ほどの意識からどれほどの時間が経ったのかは定かではないが。
ともかく、目の前にいる少女は先の意識で最後に認識できた相手だろう。赤い髪色にボブヘア、黒色のケープ、薄緑色をした長袖のシャツ。
こんな荒野を一人で旅している者の服装ではない。 少女は武器すら持っておらず、手ぶら。
「助けて、くれた……のか?」
目の前にいるのは前世の僕よりも小柄で、今の自分の身体と比べてしまえば、よりはっきりわかる程に小柄で華奢だ。
身長、胸含め、体つきも。
創作では付きものな華奢な少女が実は最強……というのも、こんな世界の現地民と言われれば納得はできる。
だが、僕の視界がそれを認めなかった。
「はぁ……理解力もないのね。救っちゃったけど、あらゆる意味で救えない。どうやってその知能でこの『国外荒野』を過ごしてきたのかしら」
「国、がい、コウヤ?」
知らない言葉だ。この世界だと常識なのだろうか。
聞いてみないとわからない。つまり、聞くしかない。という当然の事を遂行しよう。
そう思い、再度口を開こうとしたが、少女の言葉に遮られた。
「カタコト? もしかして知らないの? ………あぁ、そういうこと。知らないのも場合によっては無理ないわね」
少女は目線だけ振り向き、僕の上から下までを値踏みするように見つめた。そしてある一点、三日月のネックレスを凝視すると、今度は身体ごとこちらに向いた。
「でも不思議ね。親はいないの? どの国の教養もないってことは生まれつきここで旅をしていたってことでしょ? でも“畏怖の罪隷”にやられる程度の力で単独旅なんて危険極まりない」
親、か………この世界に来た時点でこの肉体は一人だった。周りに人影も見当たらなかった。
彼女の話を聞くには、僕が一人でここにいるのは不思議なことらしい。
「親はいない………はず」
「はず? ……もしかして、記憶ないの?」
洞察力がある、鋭い。僕からしたら鋭すぎる。
どうする? 記憶がないと言って便乗したとて、常識すら欠如しているなど怪しい。
その上、現世の知識やこの世界には無い言葉でも言ってしまえば怪しまれ、置いて行かれ、この人生も終わりだ。
だが正直に転生者ですと言っても怪しさは満点………
斯くなる上は───




