第9章:閉じた画面の向こう
第49話 二人に見てほしいものがある
智恵はスマートフォンを伏せた。
台所では味噌汁が吹きこぼれていた。蓋の隙間から白い泡が溢れ、コンロの縁でじゅっと焦げた匂いを立てている。火を止めなければと思うのに、足が動かなかった。
「お母さん、鍋」
焦げた味噌の匂いに気づいた結衣が、リビングから顔を出した。
智恵はようやくコンロへ手を伸ばした。火を消したあとも鍋を移すのを忘れて、同じ場所に立ち続けた。
「どうしたの」
「何でもない」
言った瞬間、自分が再び同じ道を選びかけていると分かった。
「……違う。何でもなくない」
智恵はスマートフォンを持って、リビングへ戻った。
和彦はソファに座って、結衣の相談窓口のパンフレットを無言で読んでいた。結衣は台所の入口に立ったまま、母親の顔を見ていた。
「二人に見てほしいものがあるの」
智恵は食卓の上にスマートフォンを置いた。
第50話 全部、私が書いた
智恵は残していたすべての記録を、二人に見せた。
狂い咲きに送った、不倫相手の妻へ知らせろという助言。
近隣の影から届いた、いなほと夕食を言い当てる文章。
ジップロックに入った、腐りかけた花弁と油性ペンのカード。
結衣が老女から紙袋を受け取る、あの写真と動画。
そして【絶望の淵】へ、自らの命を差し出すよう促す返信を、ノエルの名前で書いたこと。
一つずつ順番に画面をめくった。話しながら、声が何度も途切れた。
最後の画面を、和彦は指でなぞるように読んでいた。ノエルの返信の冒頭の一文。「あなたの無念は、よく分かります」。そこで指が止まった。
唇が白くなっていた。
「これをお前が」
「うん」
「これを見ず知らずの人間に、送ったのか」
和彦の声が、喉の奥で割れた。
結衣が画面を覗き込んだ。読み進める目が途中で止まり、そっと母親の顔へ向けられた。恐れではなく、確かめるような目だった。
智恵は目をそらさなかった。
「脅されていたとしても、書いたのは私」
智恵は言った。
「結衣を守りたいと思った。でも、それは知らない誰かの命を差し出していい理由にはならなかった。私は怖くて、あなたたちにも警察にも言えなかった」
和彦は画面を読み終えると、何も言わずに立ち上がった。
智恵は怒鳴られるのを待った。
和彦は洗面所へ行って両手を水で濡らし、顔を洗った。戻ってきたとき、声はかすれていた。
「正直に言う。今すぐお前を許せるかどうか、分からない」
「うん」
「でもこの相手は、今も俺たちを狙っている。ここでお前だけを責めて終わったら、結衣まで危険に晒す」
結衣は俯いていた。
「お母さん」
「なに」
「私の動画を使われたから、あの人に、死ねって言ったの?」
「そう。あなたを守るつもりだった」
「そんな守り方、されたくなかった」
結衣は泣いてはいなかった。ただ、声が冷たく澄んでいた。
智恵は言い訳をせず、「ごめんなさい」と答えた。
結衣は立ち上がり、部屋へ戻った。ドアは強く閉まった。
しばらくして、廊下に足音が戻ってきた。結衣は自分のスマートフォンをテーブルの上へ置いた。
「これも警察に持っていく。私のやり取りも、あの人たちの連絡先も。全部」
その声には、怒りが残っていた。
第51話 被害者であることと、責任
三人はその日のうちに、警察へ相談した。
水野さんのほかに、サイバー犯罪を扱う村瀬という刑事が加わった。担当者たちは智恵を被害者としてだけ扱わなかった。脅迫とつきまといの証拠を確認する一方で、ノエル名義の投稿についても経緯を細かく尋ねた。
「ご家族の安全確保と、あなたが投稿した内容の調査は、別です」
水野さんははっきりと言った。
「脅された事情は重要です。ただ、それで投稿の影響がなかったことにはなりません。今後、サイトの記録も確認します」
「はい」
智恵は何度もペンを持ち直しながら、供述書を書いた。自分をよく見せる言葉を探しそうになるたびに、手を止めた。そして覚えていることだけを書いた。
「【絶望の淵】という方は」
書き終えたあと、智恵は村瀬刑事に尋ねた。
「どうなったのでしょうか」
村瀬は少し間を置いた。
「捜査中の事柄ですので、今お話しできることはありません。ただ、運営から緊急の通報があったという記録は残っています」
智恵はその言葉を胸の奥で転がした。
緊急の通報。それが自分の送ったものなのか、他のユーザーのものなのか、判断がつかなかった。膝の上で拳に爪を立てた。
結衣は別室で、少年係の職員と話した。智恵は同席を求めなかった。
和彦は待合室の硬い椅子に座り、会社へ連絡を入れた。
「家庭の事情で、しばらく早く帰る日が増えます」
電話の向こうから、何かを尋ねられたようだった。和彦は「必要な説明は、後日します」と答えた。
その夜、帰宅した和彦は玄関で靴を脱ぎながら、ぽつりと言った。
「部長に全部は話さなかったけど、家のことで時間がいるとは言った」
「何て言われたの」
「『お前の代わりは、いくらでもいるぞ』って」
智恵は息を止めた。
「そのあとで、こうも言った。『だが、家族の代わりはいない』って。あの人、息子とは十年口をきいてないって、あの飲み会の夜に本人から聞いたんだ。俺は笑って聞き流した。知らなかったんじゃない。聞こえてなかったんだ」
和彦はネクタイを緩めながら、自分でも信じられないというように首を振った。
「俺はあの人のそういうところを、見ようともしなかったんだな」
智恵は返事の代わりに、麦茶をコップに注いだ。冷たい水が陶器の底で小さく鳴った。
第52話 二〇七号室
警察の動きは、思っていたより早かった。
運営への照会で、狂い咲きの登録情報と近隣の影の接続元が一致した。同じ端末から同じ時間帯にアクセスがあったのだ。登録に使われていた名前は偽名だった。けれど接続元の履歴から、一つのマンションの名前が浮かび上がった。
ヴェルデ桜ヶ丘。
智恵の住む、このマンションだった。
その日の夕方、管理会社の担当者と制服の警察官が二人、日高家のインターホンを鳴らした。
「ご協力いただきたいことがあります。マンションの共用部分の防犯カメラを、確認させてください」
エントランスに設置されたカメラの映像は、保存期間が限られていた。あの豪雨の夜の分は、すでに上書きされて残っていなかった。けれど直近の日々の映像には、同じ女が繰り返し映っていた。
白い日傘を持った女だった。
帽子を深くかぶっていた。それでも日傘の柄と細い手首と歩き方に、智恵は覚えがあった。
「ご存じの方ですか」
警察官が尋ねた。
智恵は画面から目を離せなかった。
「二階に越してきたと言っていました。山下さんという人です」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
管理会社の担当者が書類を確認して、頷いた。
「二〇七号室、山下由香里さん。七月の頭から、マンスリー契約で入居されています。ここ一週間は、お見かけしていませんが」
智恵の背中を、冷たいものが滑り落ちた。
村瀬刑事が、手帳をめくりながら言った。
「山下由香里さん、三十一歳。先月まで、市内の食品卸会社で経理を担当していました。退職の経緯に、社内の問題があったようです。詳しくは、これから確認します」
「社内の問題」
「ええ。人間関係のもつれのようなものだと聞いています」
その言葉の向こうに、智恵はあの夜の文章を見た。
『私は今、職場の上司と、不倫関係にあります』
山下由香里は狂い咲きだった。そして、自分の助言を実行した女だった。実行したあとに何が起きたのか、智恵は一度も想像しようとしなかった。
アジサイを褒めてくれた人。「またお話しさせてくださいね」と言った人。同じ建物の二階に、あの日からずっといた。
警察官たちは管理会社の鍵で、二〇七号室のドアを開けた。智恵も少し離れた場所から、中を覗いた。
家具はほとんどなかった。畳んだ布団と、折り畳み式の小さな机が一つだけ。ヴェルデ桜ヶ丘はL字形の建物で、二〇七号室は袖の棟の奥にある。窓は駐車場を挟んで、本棟のベランダ側と向き合っていた。
壁一面に、印刷した紙が貼られていた。
画面の文字をそのまま出力した、ノエルの回答の数々。
その中央に、一枚の写真が貼られていた。ベランダのアジサイと、湯気の立つマグカップ。智恵が自分で投稿した、あの紅茶の写真だった。
写真のガラス戸の隅に、赤いペンで小さな円が描かれていた。
円の中には、向かいの歯科医院の看板の一部が映り込んでいた。さくら歯科。智恵が確かめずに送信した、ガラス戸の端だった。
机の上には、一冊の大学ノートが開いたまま置かれていた。
警察官が手袋をはめた手で、そのページをめくった。
びっしりと手書きの文字が並んでいた。ノエルの回答をそのまま書き写したものだった。余白には細かな字で書き込みがあった。
『正しい』
『正しい』
『この人の言葉だけが、私を人間にしてくれる』
『従う』
『従う』
最後のほうのページには、震えたような筆跡で、一行だけが書かれていた。
『裏切らないで』
智恵はその行を何度も読んだ。
画面の向こうの、自分の知らない誰かが、自分の言葉を一字ずつ手で写していた。祈るように。縋るように。それが自分の書いた文章だと思うと、胃の奥から苦い液体がこみ上げてきた。
「あなたの言葉なら、毒でも飲みます」と書かれたとき、危険を感じるより先に満ちていくものがあったことを、智恵は覚えていた。あのとき舌の奥に広がった味を、思い出した。他人の人生を預けられることの甘さは、毒の味と同じ形をしていた。
智恵は膝から力が抜けるのを感じた。
自分が与えたのだ。身元を特定される手がかりを、画面の向こうへ自分の手で差し出していた。誰かに「素敵」と言われたい一心で。
「大丈夫ですか」
警察官が、肩に手を添えた。
「……はい」
智恵はそう答えた。それ以外の言葉は出てこなかった。
その夜、警察官たちが二〇七号室に封をして引き上げたあと、和彦は智恵のそばに立った。
「ずっと下の階にいたんだな。俺たちの真下で」
「うん」
「気づかなかった。俺は、何も気づかなかった」
自分を責めるような声だった。智恵は「私も」と答えた。二人は同じ天井を見上げた。その向こうの床下に誰かの目があった夜のことを、まだうまく信じられずにいた。
その少しあと、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、川口さんが困ったような顔で立っていた。
「日高さん、ごめんなさい。昼間、警察の人が来てたでしょう。管理人さんから聞いたんだけど、何かあったの?」
以前の智恵なら、笑顔を作って「ちょっと近所のトラブルで」と嘘を重ねただろう。
智恵は玄関の外に出て、静かにドアを閉めた。
「ご心配をおかけして、ごめんなさい。まだ全部をお話しできないんです。でも、うちのことでこのマンションの方にご迷惑をかけてしまうかもしれません」
川口さんは目を丸くした。それから少し間を置いて、言った。
「ねえ日高さん。前から思ってたんだけど、最近のあなた、ずっと無理してるみたいだったわよ」
「そうだったかもしれません」
「うまく言えないけど、私にできることがあったら、言って。……って、いつも私ばっかり喋ってるから、頼りないかもしれないけど」
智恵は思わず息を止めた。
聞き上手だと思われていた。怒らない人間だと思われていた。そのどちらでもない自分を、この人は見ていたのだ。
「ありがとうございます」
智恵がそう言うと、川口さんは少し照れたように手を振って、階段を降りていった。
第53話 今度は、隠さない
警察への相談のあと、家には防犯の確認が入った。
玄関とベランダの鍵に異常はなかった。室内から盗聴器も見つからなかった。近隣の影は室内の会話を聞いていたのではなく、駐車場や共用の通路から、明かりと家族の出入りを観察していたのだろう、と説明された。
「ご家族の動きやお買い物の様子をそこまで詳しく把握していたのは、おそらく尾行によるものだと思います」
村瀬刑事は言った。
智恵は駅ビルで見かけた、白い日傘を思い出した。気のせいだと思った、あの瞬間。
気のせいではなかったのだ。
家族は位置情報を共有することにした。帰宅時間が変わるときは、短い連絡を入れる。結衣のスマートフォンから問題のアプリは削除されたが、和彦は取り上げることはしなかった。
「監視されるために、家に戻ったんじゃない」
結衣がそう言ったからだ。
代わりに、夜に不安になったときは、短い合図を家族のグループへ送ることにした。言葉にできないときは、白い丸を一つ送る。それを見た誰かが、返事を急かさずに居場所だけを確かめる。
白い丸が初めて届いたのは、それから二日後の午前二時過ぎだった。
家族のグループに、結衣のアイコンの横で、白い円がぽつんと浮かんでいた。
智恵は布団の中で画面を見つめた。何と返せばいいのか分からなかった。「どうしたの」と書けば、結衣は答えを要求されたと感じるだろう。「大丈夫」と書けば嘘になる。
迷っているうちに、隣の布団で和彦が身を起こした。
「結衣か」
「うん」
和彦は無言で立ち上がった。寝室のドアを開け、廊下へ出る。智恵もあとに続いた。
結衣の部屋のドアは閉まっていた。和彦はノックをせずに、ドアの前に湯気の立つ白湯のマグカップをそっと置いた。
誰も何も言わず、誰もドアを開けなかった。
けれどしばらくして、ドアの下の隙間から漏れていた細い光が、すっと消えた。結衣が眠ったのだと、二人には分かった。
和彦が、小さな声で言った。
「これでいいのか」
「分からない」
智恵は言った。
「でも白い丸は、答えを求めてない」
和彦は頷いて、寝室へ戻った。その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
智恵はパソコンを処分しなかった。
警察へ提出する記録を保全する必要があったからだ。作業机の上から電源コードだけを外して、封をした箱の中へ入れた。
ポストを見に行くのは、和彦の役目になった。朝、出社前に一階まで降りて、中身を確かめる。何も入っていなくても、戻ってきて「ない」と短く告げた。
智恵はそれを聞くたびに、肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。
一週間後、結衣は学校のスクールカウンセラーと初めて面談した。
智恵はその日、廊下のベンチで一時間待った。
壁には「ひとりで悩まないで」と書かれたポスターが貼られていた。ポスターの隅には、相談窓口の番号が小さな文字で並んでいる。かつての自分なら、気にも留めなかった言葉だった。
面談室のドアが開き、結衣が先に出てきた。続いて年配の女性が顔を出した。スクールカウンセラーの久保先生だった。
「お母さん、少しだけ、よろしいですか」
結衣は母親と目を合わせないまま、廊下の向こうへ歩いていった。
「結衣さんのことは、今日はお話しできません。でも、お母さんご自身は、どうですか」
予想していなかった問いだった。
「私ですか」
「ええ。ご家族が大きな出来事を経験したとき、いちばん最後に自分のことを後回しにされるのは、たいてい、お母さんなんです」
智恵は言葉を探した。出てきたのは短い一言だった。
「分かりません。自分がどうなのか」
久保先生は頷いて、名刺を一枚差し出した。
「分からない、でいいと思います。いつか、お話ししたくなったら」
智恵は名刺を受け取った。紙の端が少し手に食い込んだ。
帰宅した結衣は靴を脱いだあと、玄関に座り込んだ。
「何も話せなかった」
智恵は隣へは座らず、少し離れた廊下に腰を下ろした。
「行けただけでいいと思う」
「そういう、正しいこと言わないで」
「ごめん」
しばらくして、結衣が続けた。
「でも次も来ていいって、言われた」
「うん」
「次は一個くらい、話す」
智恵は頷くだけにした。
和彦もすぐには変われなかった。仕事から帰ると反射的に「飯は?」と言いかけて、途中で口を閉じる日があった。結衣の帰りが遅いと声を荒らげ、あとから、不安を怒りに変えたことを謝った。
智恵もまた、結衣の沈黙を見て「私が救わなければ」と考えかけた。そのたびに、ノエルが他人へ「正解」を押しつけた記憶が甦った。
そんなある日の午後、スマートフォンに新しいメールが届いた。
差出人は、【近隣の影】だった。
『私は、あなたの狂信者です』
『昔、【狂い咲き】として、相談したことを覚えていますか』
『明日の午後五時、屋上で待っています』
『来なければ、保存している写真と、投稿記録を、公開します』
智恵は読み終えると、スマートフォンを食卓の上に置いた。
今度は、隠さなかった。




