第8章:言えなかった夜
第42話 父親が知らなかったこと
リビングの時計は、午前一時を過ぎていた。
和彦は食卓に座り、腕を組んでいた。智恵は向かいの椅子に腰を下ろしたものの、言葉の順序を決められずにいた。
冷蔵庫のモーター音だけが静かな部屋に低く響いている。結衣の部屋の明かりは消えていた。眠っているのか、眠ったふりをしているのかは分からなかった。
「結衣は何をしてたんだ」
「人の家に行って、お金を受け取る仕事をしていたの」
「仕事って、どういう意味だ」
智恵は今日見たことを、できるだけ事実だけに絞って話した。結衣が年寄りの家の玄関で、キャッシュカードや通帳を預かろうとしていたこと。それが特殊詐欺と呼ばれるものの、いちばん末端の役割であること。止めに入ったこと。警察を呼んだこと。後日、改めて事情を聞かれること。
和彦の指が、テーブルを強く叩いた。
「あいつ、何を考えてるんだ。まだ中学生だぞ。学校に知られたらどうする。俺の会社にまで」
「最初に心配するのが、会社や学校の評判なの?」
智恵の声は、大きくなかった。それでも、和彦は口を閉じた。
「結衣は危険な場所にいたのよ。知らない大人に利用されていた。まず考えなければならないのは、あの子が何に追い詰められて、そこへ行ったのかでしょう」
「だからって、やっていいことと悪いことがある」
「あるわ。だから警察にも相談したの。でも、叱れば終わる話ではないのよ」
和彦は椅子から立ち、窓際へ歩いた。カーテンを開けるでもなく、背を向けたまま言った。
「お前は知ってたのか」
智恵は返事ができなかった。
その沈黙が、答えになった。
「いつからだ」
「十日ほど前」
「どうして、俺に言わなかった」
「あなたが、結衣を責めると思ったから」
和彦が振り返った。怒りを露わにするより先に、傷ついたような色が顔をよぎった。
「俺は父親だぞ」
「ええ。でも私も、あなたを父親として、頼れなくなっていた」
和彦は何かを言おうとして、言葉にならなかった。流しの横の空の麦茶の容器、脱ぎっぱなしの上着、智恵が一人で片づけてきた食卓が、黙った証人のように二人の間に並んでいた。
「今日はもう話せない」
和彦は上着を掴み、玄関へ向かった。
「どこへ行くの」
「少し歩いてくる。このままだと、余計なことを言う」
ドアが閉まったあと、智恵は追わなかった。
以前の和彦なら、怒鳴って部屋に閉じこもっただろう。今夜も逃げたことには変わりない。それでも結衣に怒りをぶつけないために外へ出たのだと考えると、智恵の中にあった夫の像がわずかに揺らいだ。
第43話 俺も何も関係ないとは言えない
和彦が戻ったのは、午前三時を過ぎてからだった。
コンビニの袋を提げて、額に汗を浮かべていた。袋から水とゼリー飲料を取り出し、結衣の部屋の前へ置く。ノックをしようとして、手を止めた。
「置いておくから。起きたら飲め」
返事はなかった。
和彦はその場にしばらく立っていたが、やがてリビングへ戻ってきた。
「結衣が小学生の頃、サッカーの試合を見に来てくれって、言ってたな」
唐突に言った。
「仕事で行けなかった日?」
「行けなかったんじゃない。行かなかったんだ。休日に、会社の連中とゴルフへ行った。あいつ、帰ってきた俺に、試合の結果を話そうとしてたのに、疲れてるから、あとにしてくれって」
和彦は両手で顔を覆った。
「俺は金を入れていれば、父親をやってることになると思ってた」
智恵は慰めなかった。自分も同じだったからだ。弁当を作り、制服にアイロンをかけていれば、母親としての役割を果たしていると思っていた。結衣の沈黙の中身を知ろうとしなかった。
「私も話さなければならないことがあるの」
智恵はノエルについて話しはじめた。
匿名の相談サイトで他人の悩みに答えていたこと。感謝される快感に溺れ、ギフトを受け取っていたこと。次第に言葉が過激になり、相手の人生を自分の判断で動かそうとしたこと。
和彦は途中で何度も口を挟みかけた。けれど、最後まで聞いた。
智恵はまだ【近隣の影】のことを話せなかった。自殺を促す文章を書いたことも。そこまで話せば、わずかに残った家族の形さえ失う気がした。口にしないことで守ろうとしているものが家族なのか自分なのか、智恵自身にも分からなかった。
告白を終えると、窓の外は薄く明るくなっていた。
「すぐに理解できるとは言えない」
和彦は長い間を置いて言った。
「腹も立ってる。怖いとも思う。お前が、知らない人間の生活に口を出して、金をもらってたなんて、どう受け止めたらいいか分からない」
「うん」
「でも俺が何も関係ないとも、言えない」
それは謝罪でも和解でもなかったが、責任を相手一人へ押しつけまいとして、和彦が初めて選んだ言葉だった。
第44話 しょっぱい卵焼き
翌朝、結衣は部活を休んだ。
部屋から出てきたのは、昼近くだった。顔を洗い、化粧を落としていたが、目元には眠れなかった跡が残っていた。
食卓には、和彦が作った不格好な卵焼きが置かれていた。片側は焦げ、もう片側は火が通りきっていなかった。
「お父さんが作ったの?」
結衣が、初めて口を開いた。
「動画を見たんだけど、うまくいかなかった」
和彦は言い訳をせず、皿を差し出した。
結衣は一切れだけ食べた。
「しょっぱい」
「そうか」
「でも食べられなくはない」
三人の間にほんの短い沈黙が落ちた。以前なら誰かがテレビをつけ、なかったことにしただろう。その日は誰も音を足さなかった。
食後、智恵は水野さんから教わった地域の子ども・若者相談の窓口へ電話をかけた。結衣には、無理に話す必要はないこと、相談員は女性にしてもらえることを伝えた。
「勝手に決めないで」
結衣は硬い声で言った。
「ごめん。予約はまだしていない。会うかどうかは、結衣が決めて」
智恵が電話番号を書いた紙をテーブルに置くと、結衣はすぐには手に取らなかった。
夕方には、その紙はなくなっていた。
第45話 「お母さん、いる?」
その夜、智恵は結衣の部屋の前の廊下に座っていた。
和彦は寝室で眠れないまま寝返りを打っているようだった。家中の灯りは落ち、廊下の窓から差し込む街灯の光だけが床に細い四角を作っていた。
ドアの向こうから音が聞こえた。
鼻をすする音。布団の擦れる音。押し殺した、しゃくり上げる息。
智恵はドアに額を預けたい気持ちをこらえ、膝を抱えた。ノックはしなかった。
しばらくして、ドアの向こうから声がした。
「……お母さん、いる?」
智恵は息を止めた。
「いる」
「……あっち行って」
「ここにいる」
「いらない。いなくていい」
「分かった。入らない。でも、ここにいる」
返事はなかった。
長い沈黙のあと、結衣の声がかすかに聞こえた。
「リクさんね、本当は十九歳じゃなかったのかな」
智恵は答えを持っていなかった。持っていないことを、隠さなかった。
「分からない」
「私さ、頭いいって言われたの。初めてだった。大人みたいだって」
「うん」
「バカみたい」
「バカじゃない」
「バカだよ」
「寂しかっただけだと思う。それは、バカとは違う」
言ってから、智恵は自分の言葉の軽さを後悔した。まるでノエルの文章のようだった。きれいに整って、誰かの傷をあらかじめ誂えた枠に収めてしまう言葉だった。
結衣は何も言わなかった。
智恵はドアの前に朝まで座っていた。結衣が眠ったのかどうかは、最後まで分からなかった。
第46話 安全な場所
三日後の午前、三人は警察署へ向かった。
少年係の部屋は思っていたよりも普通の事務室に近く、窓には淡い色のカーテンがかかっていた。水野さんが結衣の前に紙コップのお茶を置いた。
「今日は結衣さんの話を聞かせてもらいます。お父さんとお母さんは、少し離れた席にいてください。話したくないことは、話さなくて大丈夫です」
結衣は肩をこわばらせたまま頷いた。
智恵と和彦はガラス越しに見える別の机に座って待った。声は聞こえなかった。ただ、結衣が時々両手で顔を覆うのが見えた。
その間、別の若い職員が和彦と智恵にいくつか質問をした。
結衣が最近、家で話をしていた相手は誰か。結衣の友人の名前をいくつ知っているか。結衣が夕食のあと、どのくらいの時間を家族と過ごしているか。
和彦は「それは」と言いかけて、言葉を飲んだ。
智恵も、答えられなかった。友人の名前は一人しか知らなかった。それも小学校のときの子で、今はもう連絡を取っていないはずだった。
質問が進むほど、二人の間の空白が紙の上ではっきりと形を成していった。
「責めているわけではありません」
職員は穏やかに言った。
「多くのご家庭で、同じように、答えられないんです。でも、答えられないと気づいたことが、最初の一歩です」
慰めの言葉だと分かっていても、智恵はその一歩がひどく遠く思えた。
二時間ほどして、水野さんが二人を呼んだ。
結衣は泣き腫らした目で、母親も父親も見なかった。
「経緯をお話ししてもいいですか」
水野さんが、結衣の顔を窺った。結衣は小さく頷いた。
「去年の秋頃、結衣さんは、SNSで、『リク』と名乗る人物と知り合いました。自称、十九歳の大学生。最初は、悩みを聞いてくれる優しいお兄さんだったそうです」
結衣が膝の上で拳を握った。
「やり取りが続いて、六月頃から、『ちょっとした配達の手伝い』を頼まれるようになりました。荷物を預かって、指定された家に届ける。礼金は、一回五千円。何度か繰り返すうちに、中身が荷物ではなく、他人のキャッシュカードだと気づきました」
「気づいたのに、やめなかったの」
和彦が思わずという声で言った。
結衣の肩が、びくりと震えた。
「やめられなかった」
かすれた声だった。
「やめるって言ったら、リクさんが、がっかりすると思った」
和彦は口を開いて、言葉を探した。出てきたのは、怒りではなかった。
「……がっかり、って」
「結衣ちゃんがいてくれて、助かるって、言ってくれたの。誰にも言われたことなかった。お母さんは、私に何も聞かないし、お父さんは、いないし。クラスの子は、私を見てもいないし。でも、リクさんだけは」
結衣はそこで、言葉を詰まらせた。
智恵の胸の奥がぎしぎしと音を立てていた。
結衣ちゃんがいてくれて、助かる。
その言葉の本当の意味を、智恵は誰よりも知っていた。それは誰かを自分のために動かすための、もっとも安く、もっとも効く餌だった。ノエルが顔のない女たちに毎晩与え続けていたものと同じだった。
「結衣さんは、自分がしていることが犯罪だと分かっていなかったのではなく、分かりたくなかったのだと思います」
水野さんが言った。
「そう思わせるように作られた関係だったんです。これは、結衣さんに責任がないという意味ではありません。でも責任の大半は、彼女に近づいて利用した大人にあります」
水野さんは少年事件としての手続きを順を追って説明した。児童相談所への連絡。家庭裁判所による審判の可能性。被害者への弁償と謝罪のこと。結衣が受け取った金額が一万五千円であり、小野寺さんが失った八十万円とはまったく別の額であること。リクと名乗っていた男は、現在、警察が行方を追っていること。
「あの子は、どうなるんでしょうか」
和彦が尋ねた。声が、掠れていた。
「現時点ではっきりしたことは言えません。ただ、施設へ入るかどうかを最初から決めて進める手続きではありません。結衣さんの背景、家庭の状況、今後の支えがあるかどうか、そういったことを総合的に見ます」
「支え」
和彦はその言葉を噛み砕くように繰り返した。
「ご家庭があの子にとっての安全な場所になれるかどうか。それが一番大きいと思います」
その言葉を聞いて、智恵は膝の上で手を固く組んだ。安全な場所。あの家をそう呼べる日が来るのか、今はまるで想像がつかなかった。
「簡単には、終わりません」
水野さんは嘘をつかなかった。
「でもこの数日で、結衣さんが自分から話してくれたことは、とても大きいです」
和彦は深く頭を下げた。
「お願いします」
和彦はそれ以上言わなかった。声が震えていた。
第47話 許してくれとは言いません
五日目の午後、智恵と和彦は小野寺さんの家を訪ねた。
水野さんから、被害者が会ってもいいと言っていると連絡があったのだ。ただし結衣は連れてこないこと。そして賠償の話は弁護士を通じて進めること。それが条件だった。
夏の日差しの下、智恵は菓子折りの紙袋を両手で提げていた。木の門柱の表札は、あの日と同じ場所に同じ墨の字でかかっていた。
引き戸を開けたのは、小野寺さんだった。以前より、少し小さく見えた。
「どうぞ」
座敷に通された。扇風機が、ゆっくりと首を振っていた。
和彦が畳に手をついて深く頭を下げた。智恵も並んで、額が畳につくほど頭を下げた。
「このたびは、娘が取り返しのつかないご迷惑を」
「顔を上げてください」
小野寺さんの声は、静かだった。
「あの子は、どうしていますか」
「家にいます。ほとんど、話しません。眠れていないようです」
「そう」
小野寺さんは湯呑みに視線を落とした。
「許せるかどうかは、まだ分かりません。八十万円は、主人が残してくれたお金でした。それを、全部ではなくても、取られたのは、情けなくて」
「はい」
「でもね」
老女は顔を上げた。
「あの日あなたが走ってきてくれたでしょう。私、あのとき、もう一度通帳を渡すところだったのよ。あれを渡していたら、今頃何も残っていなかった」
智恵は返す言葉がなかった。
「あの子の親だから、責める気持ちもあります。でも、止めてくれたのも、あの子の親です。そのことは、書いておきますよ。警察にも、そう言いました」
その言葉が慰めなのか釘を刺しているのか、智恵には分からなかった。もう一度、深く頭を下げた。
帰り道、和彦は一度も口を開かなかった。マンションの前まで来たとき、ようやく言った。
「お前はあの日、どうして走れたんだ」
「分からない」
智恵は少し考えてから答えた。
「ただ、あの子の前に誰もいなかったから」
和彦はそれ以上、聞かなかった。
第48話 まだ何ひとつ清算していない
それから数日のあいだ、家族の会話は進んだり途切れたりした。
結衣は一度、智恵に向かって「助けに来たからって、今までのことが消えると思わないで」と言った。
智恵は「思っていない」と答えた。
和彦は謝ろうとして、結衣から「今は聞きたくない」と拒まれた。すると彼は不機嫌になりかけ、唇を噛んで廊下へ出た。十分ほどして戻ると「分かった。待つ」とだけ言った。
夕食のテレビは消されたままだった。和彦が帰宅して最初に、リモコンをテーブルの端へ置いたのだ。静けさの中で、箸が茶碗に当たる音だけがやけに大きく響いた。
「……つけていいよ」
結衣が言った。
「いいのか」
「うるさくないほうが、息が詰まる」
和彦は少し迷ってから、音量を絞ったニュース番組をつけた。画面の端で知らない街の天気が流れていたが、誰もそれを見てはいなかった。
食後、和彦が初めて自分から皿を洗った。泡の量を間違え、洗剤が流れきらず、グラスの縁が白く曇った。智恵は手を出しそうになって、タオルを持ったまま背中を見ていた。
「やり直す」
和彦は洗い終えたグラスをもう一度水にくぐらせた。
智恵は「ありがとう」と言いかけて、飲み込んだ。感謝の言葉が前よりずっと軽く、薄っぺらく聞こえたからだった。代わりに乾いた布巾を、黙って彼の手の届く場所へ置いた。
その夜、結衣は十分間だけ、リビングのソファに座っていた。何も言わなかったし、誰も話しかけなかった。ただ、同じ部屋に三人がいた。
智恵はその夜、布団の中で天井を見つめながら、小さな変化を数えた。卵焼きの塩辛さ。泡の残ったグラス。ソファの上の十分。数え終えても、数字は片手で足りた。足りなかったけれど、ゼロではなかった。
三人は、傷つけない家族になったのではなかった。
傷つけたあとに黙って相手を置き去りにしない練習を、始めたのだった。
その数日後の夕方、結衣が智恵にスマートフォンを差し出した。
「これ、警察の人に見せる」
画面にはリクとのやり取り、振り込みの記録、待ち合わせの場所が残っていた。
「消そうと思った。でも、また別の子が呼ばれるかもしれないから」
智恵は受け取らず、結衣の手ごとスマートフォンを包んだ。
「一緒に行こう」
結衣は頷かなかった。ただ、手を引くこともしなかった。
その夜、智恵のもとへ一通のメールが届いた。
智恵はパソコンを開かなかった。届いたのは、スマートフォンのメールだった。ノエルの登録に使った、使い捨てのつもりのフリーメールのアドレスだった。サイトからの通知が止まって以来一度も開いていなかったものが、今になって受信を知らせていた。
件名は、【家族ごっこは楽しいですか】。
開いた智恵は、文章を最後まで読むことができなかった。
『ノエル先生。娘さんを連れ戻して、旦那様と話をして、これで普通の母親に戻れると思っていますか』
『あなたは、まだ、何ひとつ清算していません』
差出人は、【近隣の影】だった。
智恵はスマートフォンの画面を伏せた。
台所では、味噌汁が煮立っていた。蓋の隙間から白い泡がこぼれ、じゅっと音を立ててコンロの縁を焦がしていた。




