第7章:鏡の中の別人
第35話 炎上のあと
猛暑のピークへ向かう七月下旬の街は、逃げ場のない熱気に満たされていた。
陽炎の立つアスファルトは靴底を通して足を焼き、蝉の鳴き声は、頭蓋骨の内側で鼓膜を直接叩かれているかのように響いている。
日高智恵の日常は、あの日を境に一変していた。
リビングの作業机に置かれたノートパソコンは、二度と開かれることがなかった。『ココロの隙間』の運営は炎上した【ノエル】のアカウントを不適切な発言として永久に凍結した。ニュースサイトやSNSには、「人気カウンセラーが自殺を教唆」「裏の顔は悪魔」といったまとめ記事が一時だけ出回ったが、ネットの熱狂は冷めるのも早かった。数日もすれば別の芸能人のスキャンダルに押されて、ノエルという名前は過去のものになった。
けれど智恵の内側に穿たれた穴は、塞がるどころか日増しに広がっていた。
自分が書いた言葉を受け取った【絶望の淵】は、どうなったのか。
智恵はニュースを検索することができなかった。テレビの事件事故のコーナーが始まると、チャンネルを変えた。新聞の社会面は和彦が読み終えたあとも決して開かなかった。知るのが怖かった。自分の放った一言が一人の人間の命を摘んだという確定的な証拠を、突きつけられることが。
緊急通報のフォームを送ったことも慰めにはならなかった。送ったというだけの事実が何を救ったのか、智恵には分からなかった。
「智恵、麦茶もうないぞ」
和彦の声が、休日のリビングに響いた。冷房の効いた部屋でソファに深く身体を沈め、スマホで野球の経過を追っている。
「……今作るわ」
智恵の声はかすれていた。キッチンに立ち、冷水筒に水と麦茶のパックを入れる。その手つきはかつての完璧な手際を失い、ぎこちなく震えていた。
【近隣の影】からは、あの日以来、何の連絡もなかった。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。目的を遂げた悪意は、どこへ向かうのか。次は自分なのか、結衣なのか。毎朝ポストを開けるたびに、智恵の指は震えた。
ある朝、ごみを出しに降りた帰り、智恵は二階の廊下で足を止めた。
一番奥の、二〇七号室。表札は空白だった。ドアの前には、白い日傘が、きちんと畳まれて立てかけてあった。
あの人の、と思いかけて、智恵は首を振った。白い日傘など、どこにでもある。丁寧にアジサイを褒めてくれた人を疑う理由など、自分には何もない。
そう思いながらも、足はしばらくそこから動かなかった。ドアの向こうは、物音一つしなかった。
第36話 娘もまた、別の自分を演じている
結衣は相変わらず部屋に閉じこもり、スマホを片時も離さなかった。
夕飯の席にはつくものの、智恵と目が合うと露骨に顔をそむけ、数口食べると「ごちそうさま」とも言わずに部屋へ戻ってしまう。
あの夜に見た、小さな携帯。短い履歴。リクという名前。
それを見てしまった以上、智恵は結衣の一挙一動から目を離せなくなっていた。見れば見るほど、結衣の変化が見えた。化粧が少しずつ濃くなっていること。持ち物が増えていること。ときどき何かを数えるような目で財布の中を覗いていること。
ある日の午後、部活へ出かけようとする結衣を、智恵は玄関で呼び止めた。
「ねえ結衣」
結衣は踵を靴に押し込みながら、うっとうしそうに顔を上げた。
「なに? もう時間ないんだけど」
「最近暑いから、体調を崩していない? 困っていることとか、何か悩みがあったら、お母さんに」
「ないってば」
結衣は智恵の言葉を遮り、立ち上がった。
その目にはかつての幼さがほとんど残っていなかった。濃いアイライン、ほんのり色のついたリップ。そして、どこか大人びた、他人を拒絶する目つき。
「お母さんさ、急に優しくなったり、急に怒ったり、情緒不安定で不気味なんだけど。私のことを心配するヒマがあるなら、自分の心配したら? 最近、顔色めちゃくちゃ悪いよ」
「結衣」
「じゃ行ってくる」
結衣は智恵の手をすり抜け、ドアを開けて出ていった。
去り際、リュックのサイドポケットから、小さなコンパクトケースが覗いた。高級ブランドのロゴが入っている。中学生の小遣いでは買えない値段のものだった。
智恵の顔から、色が失われていく。
やっぱりそうだ。結衣は今もやめていない。誰かに必要とされる快感のために。そのお礼に渡される、数枚の紙幣のために。
(私がノエルとしてネットで偽りの自分を演じていたように、結衣もまた外の世界で別の自分を演じている)
智恵は玄関の壁に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。
家庭の中で放置され、誰からも名前を呼ばれない寂しさ。それを埋めるために、外の世界へ、毒のような承認と対価を求める。
結衣を壊したのは、自分だ。和彦の無関心と、智恵の自己満足。その二つに挟まれた結衣は、家の中に居場所を見つけられなかった。
(何とかしなければ)
けれど、どうやって。「やめなさい」と正面から問いただせば、結衣は間違いなく「なんで知ってるの」と反発する。そして智恵がノエルとして脅されていたことまで露見すれば、家庭は完全に壊れる。和彦に話せば、結衣を責め立てるだけだ。
智恵は誰にも頼れなかった。
第37話 鏡の中の四十二歳
その夜、智恵は脱衣所の鏡の前に立っていた。
髪はぼさぼさで目はくぼみ、頬の肉は落ちてこけていた。二週間ほど前、セレクトショップで服を買い、ノエルとして全能感に満ちていた頃の面影は微塵もなかった。
鏡に映っているのは、哀れで惨めで罪に苛まれた、四十過ぎの女だった。
「これが私」
乾いた唇に触れた。
ノエルとしての智恵は画面の住人たちから「聖母」「知的な女性」と称えられていた。けれどその実体は、家族の崩壊すら防げず、娘の悲鳴に気づかず、見知らぬ悪意に操られて人を死に追いやった愚か者だった。
智恵は蛇口をひねり、冷水を手に溜めて、顔を洗った。何度洗っても肌にこびりついた何かの匂いは消えなかった。
棚を見上げると、高価な化粧水と乳液が並んでいた。智恵はその瓶を掴み、迷わずごみ箱へ投げ込んだ。
偽りの美しさも、ノエルとしてのプライドも、もう何もいらない。
寝室のクローゼットを開ける。ノエルの時間に買った派手な服をすべて奥へ押しやり、昔着ていた地味なグレーのカットソーと使い古したジーンズを取り出した。透明な主婦の服。けれど今の智恵には、これが唯一の鎧だった。
クローゼットの奥には、あの古いバッグがあった。バッグの底には、ジップロックに入った腐りかけの花弁と、一枚のカードがあった。
智恵はそれをごみ袋には入れなかった。証拠として残しておくという判断が、ようやく頭の隅に浮かんだ。この家族を守る手段が、まだどこかに残っている。そう思いたかった。
第38話 金曜日、十四時
金曜日の昼、結衣が玄関で靴を履いていた。
「部活行ってくる」
「いってらっしゃい」
智恵は台所から顔を出し、普通の声を出した。
結衣のリュックは、また小さく軽そうだった。時計は午後一時を回ったところだった。
ドアが閉まる。智恵は冷水筒を置いて、エプロンを外した。
あの夜に見た、携帯の履歴が頭の中で光った。
『来週の金曜、十四時、いつもの駅前のコンビニね』
今日が、その金曜だった。
智恵はスニーカーを履き、ママチャリの鍵を掴んで、エレベーターではなく階段を駆け下りた。結衣が出てから、一分と経っていない。
駐輪場でサドルにまたがると、遠く、マンションの角を曲がる結衣の背中が見えた。
結衣は駅のほうへ歩いていた。智恵は距離を取り、ペダルをゆっくり漕いだ。
真夏の日差しがアスファルトを焼き、シャツの背中が汗でぐっしょり濡れていく。
結衣は駅前のコンビニの前で足を止めた。駐車場の隅に、白い軽自動車が停まっている。運転席から、グレーのパーカーを着た背の高い若い男が降りてきた。
男は結衣に何かを話しかけながら紙袋を差し出した。結衣は頷いてそれを受け取った。男が結衣の肩を軽く叩いた。結衣はほんの少し笑った。
その笑顔を、智恵は電柱の陰から見ていた。
見たことのない笑顔だった。作ったものではなく、安心した、少し照れたような、子どもらしい顔だった。あの顔を智恵は何年も見ていなかった。
胸の奥が鈍く痛んだ。
智恵はポケットの中のスマホを強く握った。今ここで百十番を押せば、結衣が老女から何かを受け取る前に止められるかもしれない。
けれど、そうすれば結衣はあの男の目の前で警察に囲まれる。結衣が一番信じている相手に「お母さんが売った」と見えるかもしれない。
指が、動かなかった。
迷っている間にも、事態は進んだ。結衣は男と短い言葉を交わし、キャップとマスクを身につけた。男は車に戻った。結衣は一人で住宅街の方へ歩き出した。白い軽自動車が距離を置いて、ゆっくりとその後ろを走りはじめた。
智恵は自転車を降り、結衣の十メートル後ろを歩いた。
第39話 白い軽自動車
住宅街は、昼下がりの静けさに沈んでいた。
古い一軒家が並ぶ路地を、結衣は迷いのない足取りで進んだ。蝉の声と、遠くの踏切の音だけが聞こえる。
結衣が、ある家の前で足を止めた。
木の門柱に、古びた表札がかかっている。「小野寺」。
智恵はその文字を見た瞬間、足が止まった。
あの写真で半分だけ読めた表札だった。「小野」の下の、植木の枝に隠れていた文字が、いまははっきりと読めた。
結衣が、インターホンを押した。
しばらくして、玄関の引き戸が開いた。出てきたのは、小柄な白髪の老女だった。写真の中の老女だった。
「ああ、いらっしゃい。暑かったでしょう」
老女は結衣を、孫でも迎えるように、柔らかな笑顔で見上げた。
「先日はありがとうね。あの、銀行の方から、また手続きがあるって電話があって。通帳と印鑑を、ちゃんと預けないといけないんですってね」
結衣はうつむいたまま、小さな声で言った。
「はい。確認のために、お預かりします」
老女は、「ちょっと待ってね」と言って、家の奥へ引き返しかけた。
智恵は考えるより先に、走り出していた。
「待ってください!」
門柱の脇に飛び込み、老女の前に立ち塞がった。結衣が、はっと顔を上げる。マスクの上の目が驚きと恐怖で丸く見開かれた。
「お母さん……?」
「小野寺さんですね。通帳を渡さないでください。この子は、銀行の人ではありません」
老女はきょとんとして、智恵と結衣の顔を、交互に見比べた。
「何を言っているの。この子は、銀行の……」
「違います。先日も、この子はここへ来ましたよね。そのときあなたは、キャッシュカードを渡して、お金を引き出されましたよね」
老女の顔から、血の気が引いた。
「……どうして、それを」
「ごめんなさい。私は、この子の母親です」
智恵は深く頭を下げた。
「この子は、騙されて、こんなことをさせられています。でも、したことは、あなたに対する詐欺です。八十万円のことは、本当に申し訳ありません。今日は、絶対にこれ以上は渡さないでください」
老女はよろめくように玄関の柱に手をついた。結衣が後ずさりをした。
「やだ。やめて。お母さん、やめてよ」
そのとき道の向こうでエンジンの音が鳴った。白い軽自動車が急にスピードを上げ、こちらへ向かってくる。
「結衣、こっちへ来なさい」
智恵は結衣の手首を掴んだ。結衣は振りほどこうとした。
「放して! リクさんが!」
軽自動車は門の前で急停止した。運転席の男が窓を開け、結衣へ怒鳴った。
「何やってんだ。早くしろ」
智恵は車の前に立ち塞がった。
ノエルとして何千人もの人間の闇と向き合ってきたときの、冷たく鋭い視線で男を睨みつけた。
「この子は、中学生です。警察を呼びます」
男の顔がひきつった。目が泳ぎ、ハンドルを握る手が震えた。
「ふざけんな」
男はそう吐き捨てて、ギアを入れた。タイヤが砂利を弾き、軽自動車は猛烈な勢いで路地の向こうへ走り去った。
後には蝉の声と荒い息遣いだけが残った。
第40話 「私のことなんか、誰も見てくれない」
結衣は智恵に手首を掴まれたまま、門の前の地面にへたり込んだ。
マスクとキャップが取れ、顔が露わになった。派手な化粧が涙で滲み、崩れていく。
「なによ。なによ」
結衣は泣き叫んだ。
「なんで追いかけてくんのよ。ほっといてよ。お母さんなんか、大嫌い。私のことなんて、どうでもよかったくせに。家にいたって、息が詰まるだけなんだよ。私のことなんか、誰も見てくれないんだよ」
結衣の叫びは、智恵自身が心の中でずっと叫び続けてきた言葉と同じだった。
『私を見て』『私を認めて』『ここにいていいと言って』
結衣もまた、家の中で透明人間だったのだ。
智恵は抱きしめようと伸ばした腕を途中で止めた。結衣は両肩を強く抱いて門柱のほうへ下がっていた。泣いてはいたが、その目には母に縋る色よりも、見つかったことへの恐怖と怒りが濃かった。
「触らないで」
かすれた一言に、智恵は両手を下ろした。
「……分かった。触らない。でも、ここへ置いては帰れない」
「お母さんに、関係ない」
「関係ある。あなたが嫌がっても、私はあなたのお母さんだから」
言い切ったあと、智恵は自分の言葉の頼りなさを思い知った。母親であることを都合よく持ち出しながら、結衣の孤独を見ようとしなかった時間がある。
智恵はスマホを取り出し、百十番を押した。
「事件です。住所は」
老女の家の番地を、表札と電柱の表示を読み上げて伝えた。電話を切ると、玄関の柱に寄りかかったままの小野寺さんが言った。
「あなたの娘さん……だったの」
「はい」
「まだ小さい子じゃないの」
「十四歳です」
老女は結衣を見た。結衣は膝に顔を埋めたまま、動かなかった。
「私ね、先日あの子が来てくれたとき、嬉しかったのよ。孫が遠くに住んでいてね。顔を見せに来てくれたみたいで」
老女の声は震えていた。
「返してほしいわ。あのお金。年金を、少しずつ貯めたお金なの」
「必ず」
智恵はもう一度深く頭を下げた。
「必ずどうにかします。許してくれとは、言いません」
遠くからサイレンの音が近づいてきた。
第41話 帰る場所はありますか
パトカーが二台、路地の入口に停まった。
制服の警察官が駆け寄り、すぐ後ろからスーツ姿の女性警察官が降りてきた。四十代半ばくらいの背の低い人だった。彼女は地面に座り込んだままの結衣のそばへ行き、結衣と同じ高さまで腰を落とした。
「少年係の水野といいます。今すぐ、全部話さなくても大丈夫です。怪我はありませんか」
結衣は顔を上げなかった。
「帰る場所は、ありますか」
最後の問いにだけ、結衣は頷いた。
「結衣さんの携帯と、持っているものを、預かりますね。消さないでくださいね」
水野さんは結衣の古い携帯と白いプラスチックのカードと封筒を、証拠品の袋へ入れた。智恵は自分のスマホにある、あの夜に撮った履歴の写真と、ポストから回収したジップロックのことを話そうとして、言葉に詰まった。
「お母さんも、あとでお話を聞かせてください」
水野さんは智恵の目を、まっすぐに見た。
「どうして、今日この場所が分かったんですか」
問われて智恵は一瞬言葉を失った。
「……結衣の携帯を、見たんです。日時と、場所が書いてあって」
嘘ではなかった。けれど、すべてでもなかった。近隣の影のことも、ノエルのことも、喉の奥で止まったまま、言葉にならなかった。
水野さんはそれ以上は問わず、「分かりました」とだけ言った。その沈黙は、智恵の呼吸を許してくれているようにも、見張っているようにも感じられた。
「今日はまず、お子さんを休ませましょう」
署で簡単な事情を聞かれ、日が落ちてから智恵と結衣はパトカーで家まで送られた。
後部座席に二人は並んで座った。結衣は窓の外を向き、智恵との間に鞄を置いた。走る間、一度も視線は重ならなかった。
それでも智恵は、結衣が降りる場所を通り過ぎないよう窓の外の景色を何度も確かめた。今の自分にできるのは、隣に座り続けることだけだった。
夜十時を回った頃、マンションへ着いた。
玄関を開けると、和彦がリビングから出てきた。
「遅いぞ。どこへ行ってたんだ。それに、結衣お前」
そこで、言葉が止まった。
智恵の服は汗で背中に張りつき、結衣の化粧は頬のところどころで崩れている。後ろには制服の警察官が一人立っていた。
「ご主人ですか。夜分に失礼します。今日の件は、追ってご連絡します」
警察官は短く説明して、頭を下げて帰っていった。
和彦は凍りついたように、動けなかった。
「今夜は結衣を休ませて」
智恵はそう言った。
「何があったんだ」
「話す。でも、今はこの子を責めないで。私にも、あなたにも、聞かなければならないことがあるから」
和彦は納得していない顔をした。けれど結衣が靴を脱ぐことにも手間取り、壁に手をついているのを見て、問いを重ねるのをやめた。
結衣は母にも父にも何も言わず、自分の部屋へ入った。ドアは閉まったが、鍵の回る音はしなかった。
智恵は廊下に立ち、その小さな違いを聞いていた。
許されたわけではない。救えたわけでもない。ただ、取り返しのつかない場所へ進む一歩を、今夜だけは止められた。




