第6章:特命の相談
第30話 画面の中の娘
ガラスの破片が、冷たいフローリングの上で鋭い光を弾いていた。ぶちまけられた赤ワインが、傷口から溢れた血のように、白い木目の目地の奥へ染み込んでいく。
智恵の膝に、破片が小さく刺さっていた。チクリとした痛みが走ったが、そんなものは頭に届きもしなかった。
画面の中で、結衣が老女から紙袋を受け取っていた。
マスクとキャップで顔を隠している。それでも智恵には分かった。結衣は十四歳だ。中学二年生だ。毎日家でスマホをいじり、話しかけても「うざい」「触らないで」と返してくるだけの、どこにでもいる反抗期の少女。そう思っていた。
けれど違った。結衣がスマホの向こうで見つめていたのは、友達とのLINEでも、かわいい動画でもなかったのだ。
自分は何をしてきたのだろう。
ネットの向こうの見知らぬ女たちの相談に乗り、「母親をやめなさい」と高尚な説法を垂れ、一通数万円のギフトに酔いしれていた。高級食品店でオリーブオイルをかごへ入れ、「私は成功した」と、偽りの優越感に浸っていた。
その足元で実の娘が、孤独の果てに見知らぬ大人の悪意の中へ入り込んでいたのだ。
(私が結衣を無視したから? あの子のSOSに気づかなかったから?)
先日、キッチンで結衣に言い放った自分の言葉が、刃になって胸を刺した。
『お母さんがいなくなったら、あなたはどうするの?』
あのとき結衣は驚きと恐怖の混じった目で見つめ返してきた。母に見捨てられるかもしれないという恐怖。家の中に居場所がないという絶望。それが、結衣を外へ押し出したのではないか。
玄関の鍵が回る重い音がした。
「おい智恵、帰ったぞ」
和彦だった。酒臭い息を吐きながら、千鳥足で廊下を歩いてくる。智恵は跳ね起きて、パソコンの蓋を叩き伏せた。
「なんだ。明かりもつけないで」
リビングのドアが開き、壁のスイッチが押された。蛍光灯の光が、床一面に広がる赤ワインの海と、散乱するガラスと、膝から血を流す妻の姿を照らし出した。
「ひっ。智恵、何だこれ」
和彦の手が一度、智恵の膝へ伸びかけた。だが、心配をどう口にすればいいか分からず、その手は途中で下がった。代わりに出てきたのは、いつもの苛立った言葉だった。
「お前最近マジでおかしいぞ。高い服を買ったり、一人でワインを飲んだり、挙句の果てに床を酒浸しにして。一体何を考えてるんだ」
智恵は必死で呼吸を整えようとしたが、喉がひくひくと引きつった。
「ごめんなさい、和彦さん。手が滑って、グラスを落としてしまって」
以前の智恵なら、冷静な反論で和彦を黙らせただろう。「私の自由でしょう」と。けれど今の智恵には、その気力も残っていなかった。
(この人に、結衣のことを言ったらどうなる)
和彦は怒り狂うだろう。結衣を怒鳴りつけ、家から追い出すかもしれない。世間体を何より気にするこの男は、「娘が詐欺に加担していた」という事実に耐えられないはずだ。家庭は一瞬で崩壊する。
そして、【近隣の影】は言っていた。
『次のプレゼントは、旦那様の会社のメールアドレスにお送りしましょうか』
智恵は口を固く閉ざした。
「……すみません。すぐ掃除します。あなたが寝ている間に、きれいにしておくから」
膝をつき、素手でガラスの破片を拾い集めはじめる。指先にガラスが刺さり、血がワインの赤に混ざった。
和彦は何かを言い返しかけて、ふいに目を細めた。酒の回った目が、血の滲む智恵の指先を、ぼんやりと見ている。
「部長がな」
唐突だった。
「今日、息子の話をしたんだよ。もう十年、口をきいてないって。飲みながら、泣きそうな顔でさ」
智恵は手を止めなかった。
「俺、笑っちまった。気まずくてな。……笑うところじゃなかったよな」
誰に言うでもない、独り言のようだった。智恵は答えなかった。答えられなかった。和彦はしばらくその場に立っていたが、やがてごまかすように咳払いをした。
「……気味の悪いやつだな。早く片づけろよ」
吐き捨てて、寝室へ消えた。ドアが閉まる。
智恵は血の滲む手でガラスを拾い続けた。娘を守らなければならない。けれど、どうやって。相手は智恵の住所も、家族の秘密も、すべてを握っている。
第31話 知らない携帯
空が白みはじめるまで、智恵は一睡もできなかった。
床のワインは拭き取ったが、木目の奥に染みた薄黒いシミは、消えない呪いのように残った。
午前四時。智恵は足音を殺して、結衣の部屋の前に立った。
ドアノブに手をかける。鍵は、かかっていなかった。
暗い部屋の中で、結衣はベッドの端に丸まって眠っていた。夏用の薄い掛け布団を、身体にぐるぐると巻きつけている。幼い頃から変わらない、小さな寝相だった。
壁には、アイドルのポスターが貼られている。机の上には教科書の代わりに、化粧品が数本、きちんと並べられていた。智恵はそれが全部、見覚えのないものだと気づいた。
部屋の隅に、あのリュックが置かれていた。
智恵は息を殺して、リュックの前にしゃがみ込んだ。罪悪感が、胃の奥で重く鳴る。それでも、ジッパーを引いた。
教科書は入っていない。入っていたのは、薄いタオルと、使い古した小さな封筒と、白いプラスチックのカードだった。
封筒の中には、一万五千円が入っていた。千円札が十枚と、五千円札が一枚。
カードには、見知らぬ団体名と、結衣ではない他人の名前、それから、もっともらしい顔写真の枠だけがあった。写真の枠は、空白だった。
その下に、一台の古い携帯電話が入っていた。
智恵はそれを開いた。画面が小さく光り、メッセージの履歴が現れた。
『結衣ちゃん、今日もありがとう! 結衣ちゃんがいないと、本当に回らないよ』
『頭いいよね。落ち着いてるし、大人みたい』
『来週の金曜、十四時、いつもの駅前のコンビニね。ちょっと遠いけど、結衣ちゃんなら安心して任せられる』
送り主の名前は「リク」だった。
最新の履歴の少し上に、日付の入った一往復があった。三週間前の夕方。智恵が台所で、結衣に「お母さんがいなくなったら、あなたはどうするの」と言った、あの日だった。
『今日、なんか元気ない?』
『家、またうるさい? 俺でよければ聞くよ』
結衣の返信は、一行だった。
『お母さんが、変なの。急に怖い』
その下に、リクの返事が続いていた。
『大変だね。結衣ちゃんが一番頑張ってるのにね。……ねえ、来週から、もう少し大きい仕事、頼んでいい? 日給一万五千円。結衣ちゃんなら、できるよ』
智恵の言葉が、結衣の背中を押した日付が、画面にはっきりと残っていた。
遡るほどに、言葉は優しくなった。『学校つらいなら、俺に話していいよ』『家にいたくないときは、ここにいればいいから』『結衣ちゃんの味方は、俺だけだから』。
結衣は短く、ためらうように返していた。『うん』『ありがとう』『リクさんだけだよ、そう言ってくれるの』。
智恵の指が、画面の上で止まった。
「ありがとう」を、結衣は智恵には一度も言わない。「ありがとう」を、結衣はここでは何度も言っている。
そして、ここでは何度も、言ってもらっている。
結衣ちゃんがいてくれて、本当に助かる。
智恵はあのとき自分の胸に走った嫉妬を思い出した。それが今、冷たい刃物のように、逆向きに突き刺さっていた。
智恵は携帯のメッセージ画面を、自分のスマホで撮影した。震える指で、封筒を元の場所へ戻し、ジッパーを閉める。立ち上がるとき、膝が小さな音を立てた。
結衣は眠ったまま寝返りを打った。
智恵は部屋を出て、静かにドアを閉めた。
第32話 絆創膏
六時を回った頃、台所の食卓に、見慣れないものが置かれているのに気づいた。絆創膏の箱だった。薬箱の奥にしまってあったものが、無造作に、食卓の端へ出されている。和彦は、いつもより早く家を出たあとだった。メモはなかった。
(今さら)
そう思った。ガラスで切れた指先に、智恵はしばらく何も貼らずにいた。それから、一枚だけ、箱から取った。
七時過ぎ、結衣が起きてきた。
制服ではなく、部活用のジャージを着ていた。顔は少しむくんで、目の下に薄いクマがある。
智恵は結衣の細い肩と、華奢な手首を見た。この手が、昨日、あの老女から紙袋を受け取ったのだ。
「結衣」
「なによ」
結衣は智恵の顔を見ずに、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
「昨日どこへ行っていたの」
ペットボトルのキャップを閉める手が、止まった。金属の小さな音が、やけに大きく響いた。
「は? 部活だよ。終わったあと、友達と図書館で宿題やってた」
淀みのない嘘だった。昨日の写真の時刻は、昼前。部活のはずの時間だった。
「結衣。お母さん、心配なの。あなたが何か、困ったことに巻き込まれていないかって」
智恵は結衣の肩に手を伸ばした。
「触らないで」
結衣は激しく手を振り払った。
「何なの急に。心配なふりしないでよ。お母さんこそ、毎日パソコンばっかり見て、私のことなんてどうでもよかったじゃん。急に母親ぶらないで」
その言葉は、百本の針になって、智恵の心臓を貫いた。
反論できなかった。結衣の言う通りだったからだ。
「もういい。部活行く」
結衣は靴の踵を踏んだまま、玄関を飛び出していった。バタン、と重いドアの音が響き、静寂が戻った。
智恵は玄関のたたきに立ち尽くした。
(どうすればいいの)
和彦には言えない。警察にも行けない。警察へ行けば、自分がネットでやってきた過激な助言や、脅迫してくる相手の存在まで、すべて明るみに出る。結衣を救う前に、家族が先に壊れてしまう。
リビングの作業机の上で、ノートパソコンが、微かな受信音を立てた。
智恵は吸い寄せられるように、机へ歩み寄った。
第33話 娘の未来と、他人の人生
ダイレクトメッセージの欄に、新しい通知が届いていた。
差出人は【近隣の影】。
智恵の指が、恐怖で凍りつく。けれど、読まないという選択肢はなかった。相手が、結衣の運命を握っているのだ。
【差出人:近隣の影】
ノエル先生。昨夜は、明け方までリビングの灯りがついていましたね。眠れましたか。
娘さんのこと、とてもショックだったでしょう。あなたが画面の中で「理想の聖母」を演じている裏で、実の娘さんは、見知らぬ大人の言いなりになって、年寄りの老後の資金を奪っている。これが、あなたが作り上げた家庭の現実です。
彼女を使っているのは、かなり質の悪い連中ですよ。このまま放っておけば、彼女はすぐに、取り返しのつかない場所へ引きずり込まれるでしょう。
娘さんを救いたいですか。
救いたいのであれば、私から、あなたへ「特命の相談」を出します。この指示を最後まで遂行しなさい。さもなくば、結衣さんの顔写真を、警察と、彼女の中学校と、旦那様の会社のアドレスへ、一斉に送信します。
智恵は文字を追いながら、息を呑んだ。
画面をスクロールする。
【特命の内容】
本日正午、サイトに、【絶望の淵】という利用者が投稿します。彼は毎日、正午になると、このサイトを開く習慣があります。今朝、会社で横領の疑いを告げられた彼は、追い詰められれば必ずここへ書き込みます。そういう男です。
あなたは、ノエルとして、その投稿に返信しなさい。返信の文章は、十一時五十分に改めて連絡します。一字一句違えずに書き込み、彼をこちらが望む「結末」へ導くこと。
あなたの得意な「言葉で人を動かす仕事」です。
娘の未来と、他人の人生。どちらが大切か、よく考えて選択してくださいね。
智恵は画面から目を離せなかった。
正午になると、サイトを開く習慣がある。
その文字を目にした瞬間、頭の底で、いくつもの記憶が一斉に動いた。
あの夜の、狂い咲きの文章。
『昼休みになると、彼は非常階段でスマホを見ています。この「ココロの隙間」を読んでいるようです』
(まさか)
智恵は唇を噛んだ。
絶望の淵は、あの人の不倫相手だ。そして、近隣の影は、あの【狂い咲き】だ。アカウントを消して姿を消したはずの女が、別の名前で、智恵の足元にいる。
智恵はようやく、すべての線がつながるのを感じた。つながったところで、何ひとつ救いにならなかった。
時計の針が、無慈悲に進んでいく。午前十時。十一時。
その間に、智恵は震える指で、検索窓へ言葉を打ち込んでいた。
『受け子 中学生』
『少年 詐欺 どうなる』
表示された記事は、どれも冷たかった。十四歳以上であれば、少年事件として警察の取り調べを受け、家庭裁判所の判断を仰ぐことになる。学校にも、おそらく連絡が行く。被害者がいれば、民事の責任も問われる。
どの記事にも、「本人にその意識がなかった場合でも」という一文が添えられていた。意識がなかったという言葉は、被害を受けた老女のどんな救いにもならないと、智恵には分かった。
結衣を、警察に差し出せない。けれど、結衣がこのまま続ければ、もっと多くの老人が、もっと多くのお金を失う。
どちらに転んでも、誰かが傷つく。その二つの重さを、同じ秤に載せることができなかった。
約束の十二時が、刻一刻と近づいていた。
第34話 人殺しのノエル先生
午前十一時五十分。
リビングの空気は、氷のように冷たく張り詰めていた。智恵はパソコンの前で微動だにしなかった。目は血走り、唇は噛み切って赤く腫れている。
ポーン、と受信音が鳴った。
【近隣の影】からの、指示書だった。
【指示書】
十二時に、【絶望の淵】が、おおよそ以下のような投稿をします。
『会社で、横領の濡れ衣を着せられました。家族にも信じてもらえません。もう終わりにしたいです』
あなたはノエルとして、以下の返信を書きなさい。
その下に、文章が続いていた。
智恵は読んだ。読んで、吐き気に襲われた。
それは短い文章だった。ノエルの文体で、静かで、整っていた。冒頭の一文は、「あなたの無念は、よく分かります」だった。続く数行は、その無念を肯定し、「命をもって示すことだけが、あなたの潔白を証明する唯一の方法」だと告げ、最後に、その死が「彼らに一生消えない罪を負わせる、最大の復讐」になるのだと結んであった。
ノエルの文体を、息づかいまで知り尽くした人間にしか書けない文章だった。半年かけて智恵が築いた「ノエルの言葉」が、そのまま、毒の容れ物に作り替えられている。
智恵はひまわりに宛てて自分が書いた文章を思い出した。「母親であることを手放しなさい」。あれも、読み方を少し変えれば、同じ種類の言葉だったのではないか。
救いと毒の違いは、言葉の形ではなかった。誰に向けて、何のために、書かれたかだった。
自殺の教唆だった。
横領の濡れ衣を着せられ、絶望している人間に、「死ぬことが最大の復讐だ」と吹き込み、自死へ背中を押せというのだった。
(できない。こんなの、殺人じゃない)
智恵の手が、キーボードから離れた。
その瞬間、スマホが震えた。
知らない番号からのメッセージだった。開くと、動画が添付されている。再生すると、映ったのは、昨日の昼前の、住宅街の一軒家の玄関だった。老女が、紙袋を差し出す。結衣が、それを受け取る。結衣の顔が、はっきりと映っている。
続けて、一行。
『指示に従わなければ、この動画が、五分後に警察へ送信されます』
「嫌ぁぁぁぁっ」
智恵は部屋の中で叫んだ。見られている。今この瞬間も、結衣が、自分が、監視されている。
十一時五十九分。サイトのタイムラインが更新された。
【絶望の淵】からの投稿が上がった。
タイトル:もう限界です。濡れ衣を着せられ、誰も信じてくれません。
会社で数千万円の横領の犯人にされました。罠です。でも証拠がありません。妻も子どもも私を白い目で見ます。もう疲れました。終わりにしたいです。
コメント欄には、慌てたユーザーたちの書き込みが殺到した。
『やめてください』『警察に相談して』『早まらないで』
けれど、投稿者は答えない。
結衣の顔が頭をよぎった。生まれたときの小さな泣き声。初めて「おかあさん」と呼んでくれた日の笑顔。反抗的になっても、自分にとっては世界でたった一人の宝物。
(ごめんなさい、見知らぬ誰かさん)
智恵は涙で視界を歪ませながら、指示された文章をコピーして返信欄へ貼りつけた。
指が、震えた。
(押せば、私は人殺しになる)
(押さなければ、結衣が壊れる)
智恵は歯が砕けるほど強く噛み締め、目を固く閉じた。
そして『投稿する』のボタンを、力任せにクリックした。
画面が切り替わった。
ノエル名義の返信が、公開されていた。
サイトは、一瞬でパニックに陥った。
『え……ノエル様……?』
『嘘でしょ。死ねって言ってるの?』
『ノエルさん、正気ですか』
『人殺し。運営に通報しました』
悲鳴と怒号のコメントが、秒単位で何百件も殺到する。今まで智恵を神と崇めていたユーザーたちが、一転して、猛烈な敵意を向けた。
智恵は画面を見つめたまま、自分の両腕を抱えていた。
自分の中の何かが、ぱちんと音を立てて壊れた。
数分のうちに、ノエルの返信は運営によって非表示にされ、画面には「この投稿は削除されました」という素っ気ない文字が出た。けれど、削除された文章の画像は、すでに別の掲示板へ貼られ、数秒ごとに増殖していた。
消えたのは、画面の中の文字だけだった。
それでも、智恵の手は動いていた。
サイトの右上にある「緊急通報」と書かれた、小さなリンクを押した。神カウンセラー枠にだけ開放された、運営への直通のフォームが開く。
『【絶望の淵】さんは実在の人物です。自殺の危険があります。至急、安否確認をお願いします。私の返信は削除してください』
打ちながら、手が震えて、何度も誤字を直した。
送信ボタンを押す。受付完了の画面が表示される。
それが何の役に立つのかは、分からなかった。運営が、すぐに動くのか。警察へ連絡するのか。絶望の淵の居場所を、誰が知っているのか。
それでも、押さずにはいられなかった。
ポーン。
【近隣の影】からの、メッセージが届いた。
【差出人:近隣の影】
よくできました、ノエル先生。約束通り、今日の画像送信は見送りましょう。
素晴らしい演技でしたよ。あなたの言葉で、あの【絶望の淵】、私の元上司の佐藤さんは、きっと今頃、決心をつけているでしょう。私の手を汚さずに、あなたの手を借りて、復讐が終わりそうです。
感謝しますよ。人殺しのノエル先生。
「あ……あぁぁぁ……っ」
智恵は頭を抱えて、床に倒れ込んだ。
利用されたのだ。近隣の影は、ノエルの発言力を使い、自分が憎む相手を死に追い込むために、智恵と結衣を罠にはめたのだ。
画面の上では、怒号のコメントが、流星群のように流れ続けていた。
『ノエルを許すな』『警察に通報した』『身元を特定しろ』
ノエルというアカウントは、もう終わりだった。サイトは炎上し、運営に凍結されるのも時間の問題だろう。
智恵は血の気の失せた顔で天井を見上げた。
ノエルという光は消えた。残されたのは、人を殺したかもしれない罪悪感と、闇バイトに手を染める娘と、何も知らない夫。そして自分のすぐ側に潜む、顔の見えない悪意。
「うふふ……うふ、ふふふ……」
智恵の口から、壊れたおもちゃのような笑い声が漏れた。
涙も出なかった。四十二歳の日高智恵。透明な主婦だった彼女が手に入れた「承認」という毒は、すべてを焼き尽くし、彼女自身を取り返しのつかない場所へ連れていった。
窓の外では、夏の強い日差しが部屋を照らしていた。けれど智恵の心は二度と明けることのない暗闇の底へ沈んでいった。




