第5章:完璧な仮面
第25話 ポストの中の花
雷鳴が夜空を刺し貫き、マンションの重たいコンクリートの躯体をかすかに揺らしていた。サッシの隙間から吹き込む湿気が、リビングのフローリングにうっすらと水の膜を作っている。
日高智恵は画面の消えたノートパソコンの前で、彫像のように固まっていた。
『明日の朝、あなたの家のポストを見てください。私から、ささやかなプレゼントが入っています』
暗い液晶に映る自分の顔は、血の気が完全に引いて、死人のように青白かった。恐怖が喉の奥で固い肉の塊になって、息を塞いでいる。
(ポスト。一階の、あのポスト)
マンションの集合ポストは、エントランスのオートロックの手前にある。住人でなくても誰でも自由に立ち入って、ダイヤル錠の隙間からチラシや郵便物を放り込める場所だ。
そこへ「何か」が投函される。
智恵は震える膝を押さえながら、ゆっくり立ち上がった。壁掛け時計は、深夜二時四十五分を指している。窓の外は激しい豪雨で、雷光がひっきりなしに部屋を白く染め、そのたびに家具の影が怪物のように壁を跳ね回った。
(今行けば、投函される前に回収できるかもしれない。あるいは、もう入っているのかも)
そう考えはじめると、じっとしていられなかった。
智恵は足音を殺して廊下へ出た。寝室からは和彦の規則正しいいびきが聞こえ、結衣の部屋のドアは固く閉ざされている。スリッパを脱ぎ、素足で冷たい玄関のたたきへ降りる。鍵を慎重に開け、チェーンを外す。カチャリという金属音が、夜の静寂にやけに大きく響いた。
外廊下に出ると、生温かい暴風雨が頬を叩いた。五階の廊下から見下ろす駐車場は、激しい雨足で白く霞んでいる。街灯の光が水たまりに反射して、底なしの沼のように揺らめいていた。
智恵はエレベーターを待つ時間さえ惜しく、非常階段の鉄製の手すりを掴んで一階まで駆け下りた。素足の裏に、コンクリートのざらついた冷たさが刺さる。
一階のエントランス。薄暗いダウンライトが照らす集合ポストの前に、智恵はたどり着いた。息が荒く、胸が破裂しそうだった。
『504』と書かれた、ステンレスの小さな投函口。ダイヤル錠は、智恵がいつも合わせている「右に3、左に8」のまま固まっていた。
震える指先でダイヤルを回す。指の汗でつまみが滑る。
パチン、と手応えがあって、小さな扉が開いた。
智恵は固唾を呑み、暗い口の中へ手を突っ込んだ。奥まで指を伸ばす。触れたのは、日中に配られた水道修理のチラシのつるつるした紙と、それとは明らかに違う、冷たく湿った何かだった。
「ひっ」
反射的に手を引き抜こうとして、思い直し、それを掴んで外へ引きずり出した。
出てきたのは、透明なジップロックの袋だった。中には、赤黒く変色したバラの花弁が数枚と、一枚の手書きのカードが入っていた。
カードには、太い黒の油性ペンで、歪んだ文字が躍っていた。
『ノエル先生。あなたの嘘に、心を痛めています。偽りの自分を捨てるまで、私はあなたを見つめ続けます』
雨音が、頭の中で爆発したように激しくなった。
カードの文字は、定規でも当てたように太く、角張っていた。筆跡を隠すために、わざと不自然に書いたのだろう。
智恵の頭に、顔が次々と浮かんだ。管理人の無口な老人。ごみ置き場で会う住人たち。話の途切れ目のない川口さん。同じ階の、挨拶しか交わしたことのない夫婦。あの人たちの誰が、あの夜のメッセージを打ったのか。
そう考えはじめると、マンションのすべての扉が、息を潜めてこちらを見ているように思えた。
智恵はジップロックを胸に抱えたまま、その場に崩れ落ちた。
生花の花弁が、袋の中で自らの水分に蒸れ、腐りかけた甘酸っぱい匂いを放っていた。
(本当に来た。ネットの向こうの人間が、私の家のポストに)
現実と画面の境界線が、完全に消えた瞬間だった。このマンションの目と鼻の先に、自分を「ノエル先生」と呼び、嘘を見張り、深夜にポストへ不気味な贈り物を投げ入れる人間が、潜んでいる。
智恵は口を手で覆って嗚咽を押し殺し、這うように非常階段を駆け上がった。
第26話 本物の私はここにいる
翌朝、雨は上がり、空は嘘のように青く澄んでいた。
セミの声がシャワシャワと降り注ぎ、強い日差しが濡れたアスファルトから白い蒸気を立ちのぼらせている。
「智恵、新聞取ってきてくれ」
食卓でトーストを齧りながら、和彦が言った。
智恵は一瞬、全身の筋肉を硬直させた。昨夜回収したジップロックは、クローゼットの奥深く、使っていない古いバッグの底に隠してある。ポストの中は空にしたはずだ。けれど、もし今、新聞を取りにいって、新たな「贈り物」が入っていたら。
「……智恵?」
和彦が不審そうに目を細めた。
「あ、ええ。今行くわ」
引きつった笑顔を浮かべ、玄関へ向かった。一階のポストへ向かう足取りは、処刑台へ向かう罪人のようだった。
ポストを開ける。朝刊が一部、無造作に突っ込まれているだけだった。
智恵は大きく息を吐いた。
(大丈夫。あれは一度きりの警告だったのよ)
自分にそう言い聞かせながら新聞を持ち、部屋へ戻る。
食卓に新聞を置くと、和彦は政治面を開いて目を落とした。結衣は相変わらずスマホの画面を睨みつけ、コーンフレークをぼりぼりと音を立てて食べている。
智恵は自分の茶を淹れながら、二人を盗み見た。
不思議な感覚だった。
昨夜あれほど死ぬような恐怖を味わったのに、目の前の二人の無頓着な姿を見ていると、胸の奥から急速に恐怖が引いていき、代わりに冷たく平らなものが満ちていった。
和彦も結衣も、智恵が昨夜一階まで駆け下りたことを知らない。自分たちの足元で何が起きているのか、智恵がどれほど巨大な秘密を抱えているのかも。
(この人たちは、一生何も気づかない)
その優越感が、恐怖を麻痺させていく。
「智恵、今日の夜、部長と飲みになったから、飯いらないぞ」
和彦が新聞から目を離さずに言った。
「そう。分かったわ。何時頃になりそう?」
自分の声が恐ろしいほど穏やかで優しいことに、智恵は驚いた。
「十二時は回ると思う。先に寝てていいから」
「ええ。気をつけてね。お酒、飲みすぎないで」
非の打ちどころのない妻の返答だった。和彦は「ああ」とだけ言い、それ以上智恵の顔を見ようとしなかった。
ただ、玄関で靴を履きながら、ふと思い出したように言った。
「結衣、最近あんまり飯食ってないよな」
智恵は驚いて顔を上げた。夫が娘の食事を気にかけたのは、初めてだった。
「そうね。夏バテかしら」
「……そうか」
それだけで、会話は終わった。ドアが閉まる音を聞きながら、智恵は夫の言葉が、なぜか胸のどこかに引っかかったままなのを感じていた。
結衣も「行ってきます」とも言わずに家を出ていった。今日から夏休みだが、部活の練習があるのだという。
背負ったリュックは、部活へ行くにしてはやけに小さく軽そうだった。ラケットも、タオルも、水筒の口も見えない。智恵はその背中を、ドアが閉まるまで目で追っていた。
気になったのに、聞かなかった。聞いても、答えが返ってこないことを知っていたからだ。そして、答えを聞くのが少し怖かったからでもあった。
二人を送り出したあと、智恵は洗面所の鏡の前に立った。
薄いピンクの口紅を引き、髪をきれいにまとめた自分が、隙のない「優しいお母さん」の微笑みを浮かべていた。
仮面は、完璧だった。
家庭の苛立ちは、すっかり消えていた。和彦の無神経な言葉も、結衣の反抗的な態度も、いまの智恵には舞台の上の大道具のようなものだった。本気で腹を立てる価値さえ感じない。
自分の本領は、ここにはないのだから。
第27話 宗教になったノエル
『ココロの隙間』を開く。
【近隣の影】からの新しいメッセージは、届いていなかった。智恵は深呼吸をして、胸に言い聞かせた。
(私は負けない。あなたなんかの脅しに屈して、ノエルを捨てるわけにはいかないのよ)
ノエルというアカウントは、いまや月に数十万円を生み出す「資産」であり、何千人もの信者を抱える「宗教」だった。バラの花弁一枚で、それを手放すわけにはいかない。
ただし、昨夜の【近隣の影】の言葉は、智恵の戦略に組み込むことにした。
『お金と承認に毒されて、どんどん嘘が上手になっていく』
(そうね。ただの過激な復讐者ではダメだわ。もっと「慈愛に満ちた聖母」を演じるのよ)
智恵の回答は、一変して「隙のない慈愛」を帯びた。
「夫が浮気をしているかもしれない」という悩みには、以前なら「証拠を集めて叩きのめしなさい」と書いていた。智恵はこう書いた。
【ノエル】
辛いですね。でも、旦那様を責める前に、まずご自身の心を抱きしめてあげてください。
旦那様の浮気は、彼の心の脆さの表れです。あなたが悪かったわけではありません。
まずは、あなたが笑顔を取り戻すこと。あなたが輝けば、彼は自分の愚かさに気づき、自然とあなたの元へ戻ってきます。憎しみからは、何も生まれませんよ。
書きながら、智恵は気づいていた。この文章は、誰のためのものでもなかった。ゆずにも、みかんにも、ひまわりにも向けられていない。ただ、画面の向こうの【近隣の影】に向けて、「私はあなたの言うような人間ではない」と証明するための言葉だった。
他人の痛みを材料にして、自分の潔白を書いている。
その矛盾を、智恵はキーを叩く速さでかき消した。
この「聖母的アプローチ」は、サイト内で爆発的な大絶賛を浴びた。
『ノエル様が仏様のようです』
『涙が止まりません。憎むことばかり考えていた自分が恥ずかしい』
『ノエル先生のおかげで、心が洗われました』
共感の数は最高記録を更新し、ギフトの額も跳ね上がった。一日で五万円以上のポイントが積み上がる。
智恵はパソコンの前で恍惚とした笑みを浮かべた。
(見たかしら、近隣の影? 私は、あなたの言うような嘘つきの悪魔じゃない。人々を救う光なのよ)
その一方で、智恵は一日に何度も玄関の鍵とチェーンを確かめた。ベランダに出るときは、周囲に誰もいないことを三回確認した。指先が震えそうになるたび、ポイントの残高を眺めて、気持ちを落ち着かせた。
恐怖は消えていなかった。ただ、それを覆い隠すものが、日ごとに分厚くなっていた。
それがどれほど脆い蓋であるかを、智恵は考えないようにしていた。
昼の二時を過ぎた頃、結衣が部活から戻ってきた。いつもより早かった。
「ただいま」
珍しく、ちゃんと聞こえる声だった。智恵は手を止めて、玄関へ顔を出した。
「おかえり。早かったのね」
「うん。今日、練習なくなった」
結衣は靴を脱ぎながら、ちらりと智恵を見た。スニーカーの紐を解く指が、一瞬だけ止まった。
「お母さん、最近、きれいになったね」
言葉は褒めているのに、声には温度がなかった。
「そう? ありがとう」
「何かいいことでもあったの」
「別に。たまには自分にも気を使おうと思って」
「ふうん」
結衣は感情の読めない顔で、智恵の唇の色、ブラウスの襟元、新しい髪留めを、順番に見ていった。まるで、昔からそうすることを知っていたように、静かに、確かめるように。
「いいと思う。でも、お父さんにはあんまり派手にしないほうがいいよ」
「どうして?」
「うるさいから」
それだけ言って、結衣は自分の部屋へ入っていった。ドアが閉まる直前、背負ったままのリュックのポケットから、薄汚れた小さな封筒の端が覗いていた気がしたが、智恵は見間違いだと思うことにした。
第28話 見なかったことにした
午後三時。
智恵は駅前にある高級食品店「グランマルシェ」にいた。
普段なら絶対に入らない店だった。輸入食材や高価な惣菜が並ぶ、冷房のよく効いた店内。けれど今の智恵には、ノエルが稼いだ資金がある。
買い物かごに、一本三千円のオーガニックオリーブオイル、ひと塊二千円の国産黒毛和牛のローストビーフ、輸入チーズの詰め合わせを、迷いなく放り込んでいく。
値札の数字は、もう目に入らなかった。価格を比べる習慣は、ここ数日のうちに驚くほど簡単に身体から抜けていった。節約という言葉が、他人の暮らしの話のように遠くなっていく。
智恵はその変化を悲しむべきことだとは、まだ思っていなかった。
「あら、日高さん?」
背後から声をかけられ、智恵は振り向いた。同じマンションの三階に住む、川口さんだった。
川口さんは、智恵のかごの中身をちらりと見て、目を見開いた。
「すごいわね、こんなところでお買い物? 何かお祝い事でもあったの?」
以前の智恵なら、「あ、いえ、これは安くなっていたから」と赤面して言い訳をしていたはずだ。
智恵は上品な笑みを浮かべ、ゆったりとした口調で答えた。
「ええ。夫が最近、仕事で大きな契約を取れたみたいで。今夜は少し奮発して、お祝いをしようと思って」
淀みのない嘘だった。滑らかで、寸分の狂いもない。
川口さんは羨ましそうな顔で、溜め息をついた。
「いいわねえ、日高さんのご主人、大手商社だもんね。うちなんて旦那の給料が下がっちゃって、特売の鶏肉ばっかりよ。日高さんは昔から落ち着いてて素敵だと思ってたけど、最近、雰囲気が変わったわね。すごくきれいになったっていうか」
「そんなことないわよ。川口さんも、お洋服素敵じゃない」
智恵はさらりと褒め返し、会話の主導権を握った。
相手の嫉妬と羨望が入り混じった視線が、たまらなく心地よかった。
かつて、マンションのママ友たちの間でも、智恵は「おとなしくて存在感のない日高さん」だった。お茶会に呼ばれても端でうなずくだけの、透明な存在。それが今や、誰もが羨む「裕福で余裕のある美しい奥様」として見られている。
(みんな、騙されている)
黒い悦びが、智恵の胸の中で渦を巻いた。
「そういえばね、日高さん」
川口さんが思い出したように言った。
「結衣ちゃん、最近よく遅くまで外にいるわよね。この前も夕方、駅のコンビニの前で見かけたの。大学生くらいの男の子と、楽しそうに話してたから、声かけなかったんだけど」
「男の子?」
「ええ。背の高い、感じのいい子だったわよ。部活の先輩かしらね」
智恵は一瞬、返事を失った。
結衣が、自分の知らない誰かと笑っている光景が、うまく思い浮かばなかった。
「……そうかもしれないわね。教えてくれてありがとう」
「ううん。じゃあ、またね」
川口さんが手を振って去っていく。智恵は笑顔のまま、その背中を見送った。
けれど、その笑顔の下で、心の奥のどこかが、小さく軋んだ。先日、結衣の部屋の前で見た「結衣ちゃんがいてくれて、本当に助かる」という文字が、ふいに頭をよぎったのだ。
智恵はその音を、聞かなかったことにした。かごの中のオリーブオイルが、店の照明に琥珀色の光を返していた。
第29話 偽りの城が崩れる夜
夜十一時半。和彦は飲み会で帰っておらず、結衣は自分の部屋で眠りについていた。
家中が静まり返ったリビングで、智恵は一人、ローストビーフをガラス皿に盛りつけ、一脚一万円のグラスに赤ワインを注いでいた。
一人きりの、極上の宴だった。
ノエルの収入が振り込まれた通帳を、テーブルの上に置く。ワイングラスを傾けると、重厚なぶどうの香りが口いっぱいに広がった。
「美味しい」
智恵は呟いた。
和彦が汗水流して稼いできたお金で食べるご飯より、見知らぬ人々の痛みを拾い集めて稼いだこのお金で飲むワインのほうが、百倍も甘かった。
その甘さが毒の味だということを、智恵は知っていた。知っていて、なお口へ運んだ。名前のない毒を、ひと口ずつ、味わうように食んでいた。
パソコンを開く。今日も何十通もの感謝のメッセージが届いていた。智恵はワインを飲みながら、優雅な手つきで返信を打っていった。
自分は無敵だ。家庭も、現実も、ネットの世界も、すべて自分のコントロールの下にある。
そのとき、画面の右下で、ダイレクトメッセージの通知が赤く点滅した。
差出人は【近隣の影】。
智恵のグラスを持つ手が、一瞬だけ止まった。けれど、もう昨夜のような狼狽はなかった。冷ややかな笑みを浮かべて、メッセージをクリックした。
(また不気味な文章? 好きにしなさい。私はもう、あなたの脅しには乗らないわ)
画面が開く。
そこに映っていたものを目にした瞬間、智恵の手からワイングラスが滑り落ちた。
ガシャン、と鋭い破壊音が、静かなリビングに響き渡った。
赤ワインが、紫色の血のように白いフローリングへ広がり、ガラスの破片が跳ねた。
メッセージには、写真が添付されていた。
智恵の娘・結衣が、どこかの住宅街の、古い一軒家の玄関先に立っている写真だった。
結衣はマスクをして、キャップを深くかぶっていた。それでも、肩の線と、制服のときと同じ左右にずれた歩き方で、智恵には誰かすぐに分かった。
その結衣の向かいに、小柄な白髪の老女が立っていた。老女は震える手で、結衣に茶色の紙袋を差し出していた。
結衣はそれを両手で受け取っていた。
写真の下には、文章が添えられていた。
【差出人:近隣の影】
ノエル先生。
この二週間、私は毎日、あなたの家族を見ていました。あなたが見なかった娘さんの背中を、私は見ていました。
完璧な仮面を被った聖母のふりをするのは、楽しいですか。
あなたがネットで他人の家庭を「救って」いる間、あなたご自身の娘さんは、闇バイトの「受け子」をしていますよ。
おばあさんから、キャッシュカードを騙し取る仕事です。この老女は、すでに八十万円を失っています。
娘さんの顔は、はっきり写っています。
あなたの足元は、もう完全に腐り果てている。次の「プレゼント」は、旦那様の会社のメールアドレスにお送りしましょうか。
智恵は写真を食い入るように見つめた。
老女の背後の門柱に、古びた木の表札がかかっている。墨で書かれた苗字が、半分だけ読めた。「小野……」。その下は、植木の枝に隠れていた。
結衣の手に渡った紙袋。それを受け取る、細い指。
老女の目は、結衣を孫でも見るように、優しく見つめていた。
その優しさを、自分の娘が踏みつけたのだ。
「あ……あぁ……っ」
智恵の口から、息の詰まった声が漏れた。
床に広がった赤ワインの海に、自分の青ざめた顔が映り込んでいた。
完璧だと思っていた城。完璧だと思っていた仮面。その足元で、娘が、自分の命より大切なはずの我が子が、底なしの泥の中へ足を踏み入れていた。
智恵はガラスの破片が刺さるのも構わず床に膝をつき、赤ワインの中で頭を抱えて声が嗄れるまで叫びつづけた。
豪雨の去った夜の闇の中で、彼女が築いた偽りの城は、跡形もなく崩れた。




