第4章:家計簿とスパチャ
第20話 あなたを見ています
朝の光が、重たいカーテンの隙間から細い筋となってリビングに差し込んでいた。空気は昨夜からの湿気を孕んだまま、エアコンの切れた室内で淀んでいる。
日高智恵は、リビングのソファの端に座り込み、膝に置いた両手を眺めていた。指を動かそうとしても、関節の一つひとつが自分のものではないように重かった。
昨夜の画面が、網膜の裏に灼きついて離れない。
『いつも近くで応援しています、日高様』
いなほの火曜市、半額の薄切り肉、レジ袋の中の鶏肉とキャベツ、そして「日高」という自分の苗字。偶然という言葉で片づけられるものは、ひとつもなかった。
誰かが、自分の足音を追っている。自分がスーパーの精肉コーナーでパックを手に取る瞬間を、ベランダで洗濯物を干す姿を、この部屋で静かにキーボードを叩く横顔を、どこかから見つめているのだ。
「……智恵? 朝飯まだか?」
寝室のドアが開き、和彦が起きてきた。寝癖のついた髪に、使い古したTシャツ。寝ぼけた目を擦りながら、智恵の横を通り過ぎて洗面所へ向かう。
その何気ない足音に、智恵の身体は過剰に跳ねた。
(和彦? いいえ、違う。この人が私の正体を知っていたら、こんなに平然としているはずがない。もっと声を荒らげて詰問してくるはずだわ)
では、結衣だろうか。
最近、母親に冷ややかな視線を向けるようになった娘。スマホを肌身離さず、ネットの知識に長けた彼女なら、母親の閲覧履歴を探り、苗字を使って脅すような真似もできるかもしれない。
洗面所のほうから、和彦の電動歯ブラシの音が聞こえる。智恵はゆっくりと立ち上がった。足の裏が冷たい。
キッチンのシンクに立ち、コンロに火をつける。フライパンに油を引き、卵を割り入れる。チチチと油が跳ねる音。いつもと何ひとつ変わらない朝の風景のはずだった。
けれど、視界に入るすべてのものが、毒を孕んだ罠のように見えた。ベランダのサッシ越しの向かいの建物。電柱の上で毛づくろいをするカラス。道路を通り過ぎる宅配業者のトラック。そのすべての窓、すべての視線が、自分に向けられているのではないか。
「お母さん、制服のブラウス、のり付けしてくれた?」
廊下から結衣が降りてきた。スカートの裾を気にしながら、不機嫌そうにリビングへ入ってくる。
智恵はフライ返しを握ったまま、結衣の顔を見据えた。
「結衣」
「なによ」
「あなた、昨日……お母さんのパソコン、触った?」
結衣は心底うっとうしそうな顔をして、眉間にしわを寄せた。
「は? 触るわけないじゃん。何入ってるのかも知らないし。キモいんだけど、朝から疑わないでよ」
その反応には、偽りの気配がなかった。ただの十代の少女が親に向ける、純粋な苛立ち。
(結衣でもない。じゃあ、誰)
手元で、目玉焼きの縁が焦げつき、黒い煙を上げた。
「あ、焦げてるじゃん」
結衣の冷めた声が、遠くから聞こえるようだった。慌てて火を消し、フライパンを降ろす。焦げた卵の匂いが鼻を突いた。
自分が築き上げてきた完璧な日常が、そしてネットの中に築いた「ノエル」という高貴な城が、足元から崩れていく感覚に、智恵はめまいを覚えた。
第21話 十万円
和彦と結衣を送り出して、一人きりになったリビングで、智恵は作業机に近づくことさえできなかった。
黒いノートパソコンは、閉じた蓋のまま、毒蛇のように机の上に居座っている。開けば、またあの【近隣の影】からのメッセージが届いているかもしれない。住所や、家族のスケジュールや、もっと恐ろしい事実を突きつけられるかもしれない。
(アカウントを消そう)
智恵は胸の前に手を置いて、強くそう思った。二重生活の限界を超えている。承認の快感と引き換えにするには、この恐怖は大きすぎる。
意を決して机に近づき、震える手で蓋を開けた。電源を入れる。ファンが回りはじめ、画面が立ち上がる。
ブラウザを起動し、『ココロの隙間』のマイページを開く。退会手続きのページへ進むため、設定のアイコンへカーソルを動かした。
そのとき、画面の右上に踊る金色のグラフィックが、智恵の目を奪った。
『マイポイント残高:185,000 pt(円相当)』
智恵の手が止まった。
「百八十五……千?」
数字を二度見した。
サイトのしくみでは、ユーザーから贈られたギフトはポイントとして蓄積され、一定額を超えると、登録した銀行口座へ現金として振り込める。昨夜ひまわりから届いた一万円だけではなかった。智恵が気づかないうちに、これまでに言葉を与えた何十人ものユーザーから、五百円、千円、五千円といった細かなギフトが、少しずつ積み重なっていたのだ。
履歴を開く。
『【みかん】さんから 3,000 pt が贈られました』
『【もも】さんから 5,000 pt が贈られました』
『【匿名希望】さんから 10,000 pt が贈られました』
『【ノエル様の信奉者】さんから 30,000 pt が贈られました』
ずらりと並ぶ、感謝の対価。
十八万五千円。スーパーのパートに出たとしても、三か月以上あくせく働かなければ手に入らない額だった。和彦から「これでやりくりして」と渡される生活費の残りを、数十円単位で切り詰めて貯金箱へ押し込んできたへそくりが、馬鹿馬鹿しく思えるほどの金額。
智恵の指が、「現金化の手続き」のボタンの上で止まった。
(これは、私が稼いだお金)
和彦の給料ではない。「主婦は家で遊んでいる」と思われる生活の中で、自分の知性と、他人の痛みを理解する洞察力だけで掴み取った、純粋な自分の価値。
日高智恵名義の口座には、和彦から与えられた雀の涙ほどの生活費しか入っていない。けれど、このポイントを自分の口座へ移せば、和彦に頼らず自由に使えるお金が手に入る。
智恵は喉の渇きを覚えた。
恐怖で消しかけていたアカウント。けれど、この金と、自分を崇める人々の熱を、本当にすべて捨ててしまっていいのだろうか。
(待って。冷静になるのよ、智恵)
深く息を吐き、頭を冷やそうとした。昨夜のメッセージを開き直し、一文ずつ読み返してみる。いなほ。火曜市。レジ袋の中身。
確かに自分の身近な情報だ。けれど、この地域に住む人間なら、いなほの火曜市のことなど誰でも知っている。レジ袋の中身だって、同じマンションの住人なら、エントランスですれ違えば見えるかもしれない。
(もしかしたら、近所の人が、私の投稿の癖や時間帯から察して、ちょっとしたいたずらで書き込んだだけじゃないかしら)
都合のいい解釈が、智恵の頭の中を侵食していく。
本気で害意があるなら、最初から警察や和彦に知らせているはずだ。けれどこのアカウントは、ダイレクトメッセージで「近くで見ている」と告げてきただけだった。つまりこの人もまた、ノエルのファンの一人で、特別な距離感を誇示したいだけなのではないか。
人間は、自分に都合のいい恐怖の逃げ道を見つける天才だ。
智恵は唾を飲み込み、退会のボタンからカーソルを外した。
そして『全ポイントを銀行口座へ振り込む』の申請ボタンをクリックした。
画面に『振り込み申請が完了しました。二営業日以内に指定口座へ送金されます』という素っ気ない文字が出た。
その瞬間、胸の底から、また熱いものが湧き上がってきた。恐怖は消えていない。けれどその恐怖さえ、お金という強い薬で塗りつぶせてしまうことを、智恵は知ってしまった。
第22話 ノエルが買った服
二日後の昼過ぎ、智恵はいつものスーパーではなく、一駅離れた駅ビルの中にいた。
普段なら、電車賃を使ってまで隣の駅へ出ることなど考えられなかった。けれど、振り込み完了の通知メールを確認した智恵の足は、気づけば改札へ向かっていた。
二階のセレクトショップは、ガラス張りの明るい店だった。上品な仕立てのブラウスや、落ち感のきれいなロングスカートが並んでいる。
智恵はこれまで、こうした店に入る権利さえ自分にはないと思っていた。着ている服は、すべてワゴンセールで買った二千円以下のカットソーと、ゴムの伸びきったパンツ。選ぶ基準は「汚れが目立たないか」「洗濯機でがしがし洗えるか」だけだった。
「何かお探しですか?」
店員が柔らかな笑顔で近づいてきた。以前の智恵なら、「あ、見ているだけです」と言って逃げ出していただろう。
けれど今の智恵のバッグには、ノエルが稼いだ現金の入った、新しいキャッシュカードが入っていた。
「……あちらの、ネイビーのブラウスを見せていただける?」
背筋を伸ばし、努めて落ち着いた声を出した。
「まあ、お目が高いです。そちらはシルク混の生地で、肌触りがとても滑らかなんですよ。お客様の落ち着いた雰囲気に、きっとお似合いになります」
店員が手際よくハンガーから外し、智恵の身体に合わせる。
試着室の鏡の前に立った。スポットライトに照らされた自分の顔。上質なブラウスを羽織ると、くすんでいた肌が明るく見えた。二千円のカットソーを着ていた頃の「ただの疲れた主婦」は消え、思慮深く自立した大人の女が、鏡の中に立っていた。
(これが、本当の私)
値札には二万四千円と書かれていた。今までの感覚なら、狂気の沙汰のような値段だ。和彦の一週間分の昼食代より高い。
けれど智恵は迷わなかった。
「これ、いただきます。着て帰りますので、今着ている服を袋に入れていただけますか」
「かしこまりました」
カードで支払いを済ませ、店を出る。駅ビルの吹き抜けのガラス天井から降り注ぐ光が、智恵の全身を包んだ。歩くたび、シルク混の生地が肌を撫でる。手に提げた紙袋の中の、古いカットソーの重みが、過去の自分の抜け殻のように思えた。
お金を持つこと。自分で稼いだお金を、自分のために使うこと。それが、これほど人の背筋を伸ばすものなのか。
智恵はカフェに入り、一杯八百円のアイスカフェラテを頼んだ。窓際の席に座り、ストローで冷たい液体を吸い上げる。
ガラス越しの通路を、人の流れが行き交っていた。ベビーカーを押す母親、制服姿の学生たち、杖をついた老人。その向こうに、一瞬だけ、白い日傘が見えた気がした。
智恵は思わず、身を乗り出して目を凝らした。けれど、人混みにまぎれて、日傘はもうどこにもなかった。
気のせいだろう。白い日傘など、今日の駅ビルには、いくつもある。
(恐怖も、近隣の影も、この素晴らしい世界と比べたら、何ほどのことがあるだろう)
智恵はそう思うことにした。ノエルとして存在し続ける限り、自分は誰よりも強く、美しく、豊かでいられる。スマホを開き、新着の通知を一つずつ確かめながら、カフェの席で静かに返信を打ちはじめた。
夕方、マンションへ戻ると、エントランスで川口さんが郵便受けを覗いていた。
「あら、日高さん。……えっ、どうしたの、今日は」
川口さんは、智恵の頭から足の先までを、ひと通り眺めた。
「素敵じゃない、そのブラウス。すごくいい色。なんだか別人みたい」
「そんなことないわよ。古着屋さんで、安く出ていたから」
「古着? うそ。全然そう見えないわ。私も今度、一緒に連れていってよ」
褒め言葉は、ひどく心地よかった。心地よいと感じるたびに、嘘は少しずつ、本当のことのように身体に馴染んでいく。
「そういえばね」
川口さんは、声を少し落とした。
「二階の端の空き部屋、最近誰か入ったみたいなのよ。ずっと空いてたのに。夜中まで電気がついているの。家具も少ないみたいで、引っ越しのトラックも見なかったし。ちょっと変わってるなって」
「そうなの?」
「マンスリーで借りてるのかしらね。管理人さんも、詳しくは教えてくれなくて」
「そうなの」
智恵は相槌を打った。二階の空き部屋の話は、川口さんの口から出ると、数ある噂話の一つにしか聞こえなかった。それでもふと、思った。これほど他人の暮らしに目の届く人が、自分の暮らしについて、何をどこまで見ているのだろう、と。
「気をつけないとね」
智恵はエレベーターのボタンを押した。自分が何に気をつけようとしているのか、口にした本人にも分からなかった。
第23話 夫の疲れた顔
日曜の夕方。和彦がリビングのソファに横になり、プロ野球の中継を眺めていた。
智恵は買い出しから戻り、新しいブラウスの上にエプロンをつけて、キッチンで夕飯の準備をしていた。買い足した化粧品で整えた顔、以前より丁寧に手入れした髪。
和彦がテレビから目を離し、ふいに智恵の背中を見た。
「……なあ」
智恵は包丁を止めずに答えた。
「なに?」
「最近、よく鼻歌うたってるよな、お前」
「そう? 気づかなかった」
「何かいいことでもあったのか」
問いかけは、不器用だった。ソファの背に肘をかけたまま、画面を見るふりをして、横目で台所を窺っている。結婚して十五年、和彦が智恵の機嫌を自分から尋ねたことは、数えるほどしかなかった。
一瞬、智恵は話してしまいそうになった。画面の向こうで、何百人もの人が呼んでくれる名前があること。けれど言葉になる前に、胸の底で冷たいものが動いた。
(今さら)
十五年、尋ねなかったくせに。
「別に。何もないわ」
「……そうか」
和彦は小さく頷いて、また画面に目を戻した。それで終わるはずだった。
だが、数分後、彼はもう一度智恵の背中を見て、今度は違う言葉を選んだ。
「お前、最近、何か買ってないか」
包丁の音が、ほんの一瞬だけ止まった。
智恵は努めて平然と、振り返った。
「何か、って?」
和彦はソファから起き上がり、智恵のブラウスの胸元を、不審そうに見つめていた。
「その服。見たことないな。そんな高そうなやつ、どこで買ったんだ」
責めるような口調の奥に、和彦自身にも説明のつかない戸惑いが混じっていた。一度目の問いを退けられた彼は、妻に何かあったのかと聞く代わりに、お金の話を持ち出したのだった。心配を心配のまま言葉にする方法を、和彦は知らなかった。
和彦の目は、長年連れ添った夫特有の「違和感」を、正確に捉えていた。普段なら絶対に選ばない色。生地の質感。それから、智恵からかすかに漂う、新しい化粧水の匂い。
智恵の心臓が、とくんと跳ねた。
(落ち着いて。理由は考えてあるわ)
「これ? 近所の古着屋さんで、千円で売っていたのよ。掘り出し物だったの」
智恵は滑らかに嘘をついた。表情を変えず、相手の目をまっすぐ見つめる。ネットで何十人もの女性に「夫をうまくやり過ごす方法」を教えてきた経験が、ここで役に立っていた。
和彦は眉間にしわを寄せ、智恵の顔を覗き込んだ。
「古着ね。お前、最近やけにおしゃれに気を使うようになったな。化粧も濃くなったし。パートでも始める気か」
「いいえ。ただ、四十二にもなって汚い格好をしていたら、結衣にも申し訳ないと思って」
「結衣のためねえ」
和彦は納得しない顔だったが、それ以上追及するだけの決定的な材料を持っていない。吐き捨てるように言った。
「無駄遣いはするなよ。俺の稼ぎで贅沢できると思うな」
その言葉を聞いた瞬間、智恵の胸の中で、冷たい怒りが爆発しそうになった。
(「俺の稼ぎ」? あなたの稼ぎなんて、もうアテにしていないのよ。私が一日にいくら稼いでいるか、知りもしないくせに)
喉まで出かかった言葉を、歯を食いしばって飲み込んだ。
今、ここで反論してはいけない。収入の出どころが知られたら、すべてが台無しになる。口座を調べられ、パソコンを取り上げられ、再び透明な主婦に戻される。
「ええ、分かっているわ」
智恵は深く頭を下げ、静かに答えた。
その屈辱的な姿勢の裏側で、心の中には、和彦に対する冷たい蔑みが渦を巻いていた。
和彦はテレビに視線を戻した。野球中継の歓声が、リビングに空々しく響く。
智恵は包丁を握り直し、とんとん、とキャベツを切り続けた。そのとき、ふと、和彦がソファの背に頭を預けたまま、天井を見上げていることに気づいた。誰にも見せたことのない、疲れた顔をしていた。
けれど智恵は、その横顔を、見なかったことにした。
第24話 母親をやめなさい
深夜二時。暗いリビングで、智恵は再びパソコンの前にいた。
新しいブラウスを脱いで、いつものパジャマに着替えてはいたが、胸の中は、昼間の高揚と、和彦への憎しみで煮えていた。
タイムラインには、今夜も無数の「助けを求める声」が溢れていた。
智恵の指は、迷わなかった。迷わなくなった経緯を、智恵は一つずつ思い出せた。
最初は、「話し合ってみてください」だった。それは三桁の共感を呼んだ。次に「黙って家を空けてみてください」と書いたとき、共感は四桁になり、その日のギフトは三万円を超えた。さらに「ご主人が一番慌てることを、一つ見つけなさい」と書いた夜は、五万円を超えた。
数字は、嘘をつかなかった。穏やかな言葉を書いた日は八千円。鋭い言葉を書いた日は、その五倍、六倍。
智恵は、それを意識しないようにしていた。意識してしまえば、自分が何を基準に言葉を選んでいるのかを、認めなければならなかったからだ。けれど指は、すでに知っていた。強い言葉ほど、読まれる。強い言葉ほど、人は財布を開く。
最初に「命令」を書いたときは、手が止まった。一行ごとに、少しだけ後ろめたかった。けれど三度目からは、書き終えたあとの高揚が、後ろめたさを上書きした。
そして今夜、智恵の助言は、また一段、踏み込んだ。
「夫のモラハラに耐えられない」という投稿には、
『夫の車のタイヤの空気を、少しだけ抜きなさい。彼が慌てる姿を、高みから眺めなさい』
「義母の過干渉が辛い」という投稿には、
『義母が大切にしている庭の鉢植えに、こっそり濃い塩水をかけなさい。枯れていく花を見て、あなたの心を取り戻しなさい』
破滅的な、けれど実行すれば確実に相手へダメージを与えられる助言だった。ノエルの言葉は、もはやカウンセリングではなく、虐げられた主婦たちの復讐の代行になっていた。
それに比例して、画面の向こうの熱は凄まじくなった。
『ノエル様! 言われた通りにしたら、夫がパニックになって会社を休みました。胸がすっとしました』
『ノエル先生、あなたこそが、私たちの闇を払う光です』
『今月もギフトを送らせていただきます。どうか私たちのために、言葉をください』
画面の上で跳ね上がるポイント。一万、二万、三万。
数字が増えるたびに、智恵の頭の中には、甘い液体のようなものが満ちていった。お金と、支配の感覚。この二つが手に入るなら、現実の家庭がどうなろうと構わないとさえ思えた。和彦の冷たい視線も、結衣の無視も、すべてはこの味を引き立てるための背景だった。
そのとき、画面の右下に、一通のダイレクトメッセージが届いた。
差出人は【近隣の影】だった。
智恵の指が、ぴたりと止まった。昼間の高揚が、一瞬で冷たい氷に変わる。
震える手で、メッセージを開いた。
【差出人:近隣の影】
ノエル先生。
先日、駅ビルで素敵なブラウスを買われましたね。ネイビーのシルク混、とてもよくお似合いでしたよ。
旦那様には、お値段をいくらだと言ったのでしょう。先生は、お金と承認に毒されて、どんどん嘘が上手になっていく。
昔の、静かで思慮深かったノエル先生は、どこへ行ってしまったのですか。
私は寂しいです。だから、少しお仕置きをしなければなりませんね。
それに、私にはまだ、先生にお願いしたいことがあります。その日が来るまで、先生には「先生」のままでいていただかなくては、困るのです。
文字を追う智恵の目が、恐怖で見開かれた。
二日前、駅ビルへ行ったこと。二万四千円のブラウスを買ったこと。その色と素材。そして、それを夫に隠さなければならない立場にあること。そのすべてを、この【近隣の影】は知っている。
追われていたのではなかった。自分は、ずっとこの人物の「手のひらの上」で転がされていたのだ。
視界の輪郭が薄れていく。膝が震え、椅子から崩れ落ちそうになった。
メッセージには、続きがあった。
【差出人:近隣の影】
明日の朝、あなたの家のポストを見てください。私から、ささやかなプレゼントが入っています。
「ひっ」
智恵は口を手で覆った。
ポスト。マンションの一階にある、日高家の郵便ポスト。そこはもうネットの世界ではない。完全に現実の、自分たちの生活空間だ。見知らぬ誰かの手が、すぐそこにあるのだ。
智恵は青ざめた顔で画面を凝視したまま、動けなかった。
外では、暗闇の中で雷鳴が轟きはじめ、バケツをひっくり返したような夏の豪雨が、ベランダを叩きはじめた。
雷光が、暗いリビングに座り込む智恵の、青白くひきつった顔を、一瞬だけ鮮烈に浮かび上がらせた。




