第3章:名前のない感謝
第14話 消した一行
七月に入ると、梅雨の終わりを告げる猛暑が街を包み込んだ。
連日三十度を超える真夏日が続き、アスファルトからは陽炎が立ちのぼっている。セミの初鳴きがマンションの吹き抜けに甲高く響き、窓を開けても入ってくるのは生温かい湿った風ばかりだった。
智恵の心は、あの深夜からずっと冷たい暗がりの底に取り残されていた。
(あの人は、どうなったのだろう)
狂い咲きからの最後のメッセージが、四六時中、耳元で反芻される。
『今から彼の奥さんのSNSを探して、二人の写真と、ホテルで撮った写真を送ります』
自分の一言がきっかけで、どこかの家庭が壊れ、見知らぬ女性が絶望の底へ叩き落とされているのかもしれない。そう思うと、朝の洗濯機の音さえ、責められているように聞こえた。
智恵はあの夜以来、毎朝、ニュースサイトの地域欄を開いた。「不倫」「修羅場」「匿名の通報」。自分でも滑稽だと思いながら、そんな言葉を検索窓へ打ち込んでは、何も出てこないことに安堵し、同じ強さで落胆した。
警察が来るのではないか。身元が特定され、訴えられるのではないか。被害妄想めいた恐怖が、背中に冷や汗を流させた。
けれど恐怖と並んで、胸の奥を揺さぶるもう一つの感情があった。
自分の言葉には、他人の家庭を動かすほどの力がある。
その事実は、罪悪感の隣に、消えない熱を置いていった。
午前十時。智恵はエアコンのスイッチを入れ、冷気が部屋に回るのを待ちながら、作業机に腰を下ろした。
パソコンを開くと、通知欄に数字が並んでいた。
『通知:89件』
画面の向こうでは、ノエルを探す声が、日に日に厚みを増していた。
『ノエル様、お久しぶりの投稿待っています』
『ノエル先生の言葉で、長年のモラハラ夫と戦う決意がつきました』
『ノエル様は私の唯一の救いです。どうか体調を崩されませんように』
誰も智恵を「日高智恵」とは呼ばない。割引シールを狙ってスーパーを駆ける主婦も、夫に無視されて生返事をする妻も、娘に「触らないで」と言われる母親も、ここには存在しない。ここにいるのは、高潔で聡明な、迷える羊たちの導き手だけだった。
それでも智恵は、あの夜の和彦の目つきを忘れていなかった。
「家計簿の計算をしていて」と言い訳をした以上、それらしい形を整えておく必要があった。智恵は百円ショップで、緑色の表紙の家計簿を一冊買った。毎晩、寝る前に、その日の支出を一行だけ書き込む。嘘を本物に見せかけるための小道具だった。
ペンを走らせながら、智恵は思った。嘘をつくことに、手際だけがよくなっていく。
最初の一行目に書いたのは、いなほで買ったキャベツの値段だった。嘘のための家計簿の最初の一行が、本当の数字だった。そのことが、なぜか少しだけ胸に引っかかった。
その夜、智恵は一つだけ、確かめずにいられないことがあった。
過去の回答のコメント欄を、古いほうから順にさかのぼる。「共感した」が三桁を超えた回答の下には、いつもと同じ賛辞が並んでいた。けれどスクロールの途中で、指が止まった。
【あずき】
ノエルさんの言う通りにして、母に「もう会わない」と言いました。母は泣いて、それきり連絡がありません。私は、これでよかったのでしょうか。
三月の回答だった。「あなたの苦しみの原因は、お母さんの過干渉です。距離を置く勇気を持ちなさい」。確かに、自分が書いた。
胸が冷えた。同時に、神カウンセラー枠に開放された管理権限のことを、智恵は思い出していた。自分の回答の下についたコメントは、自分の判断で非表示にできる。
(これは、あずきさんの実行の仕方が極端だったのよ。私は「会うな」とは書いていない。「距離を置け」と書いただけ)
そう思うと、少し楽になった。楽になった自分に気づかないふりをして、智恵は「非表示」のボタンを押した。
コメントは、最初から存在しなかったように消えた。画面には、賛辞だけが残った。
消したのは一行の文字ではなかった。結果を、見ないことにしたのだった。智恵はまだ、それを言葉にしなかった。
第15話 二階の山下さん
その日の昼前、買い物から戻ったマンションのエントランスで、智恵は知らない女性に呼び止められた。
「あの、五階の方ですよね?」
三十歳前後だろうか。痩せた体に淡い色のワンピースを着て、白い日傘を畳みかけたところだった。手首が折れそうに細い。
「最近、二階に越してきました。山下と申します」
「あ……日高です。どうも」
「ごめんなさい、突然。ずっとご挨拶できなくて」
「前は会社勤めだったんですけど、少し休むことにして。環境を変えたくて、この辺りに部屋を借りたんです」
山下と名乗った女性は、控えめに頭を下げた。笑うと目尻にだけ皺ができる、人のよさそうな顔だった。
「五階のベランダのアジサイ、いつも下から見ていたんです。雨の日に特にきれいで。あの紫、素敵ですよね。お花、お好きなんですか」
智恵は胸の奥がふわりと浮くのを感じた。
素敵。
誰かが、自分の暮らしの一部を、素敵だと言った。
「いえ、大したものじゃないんです。ただ水をやっているだけで」
「アジサイって、土の酸性度で色が変わるんですよね。青だったのが赤紫になったり」
「そうみたいですね」
「人もそうなのかな、って。育つ場所で、色が変わってしまうのかなって、ときどき思うんです」
山下はそう言って、少し照れたように笑った。
「また、お話しさせてくださいね」
「ええ、こちらこそ」
エレベーターの中で、智恵は何度か、その言葉を頭の中で繰り返した。人もそうなのかな。育つ場所で、色が変わってしまうのかな。五階に着く頃には、褒められた余韻だけが胸に残っていた。
第16話 真実の光
智恵の視線が、掲示板に立った新しい投稿で止まったのは、午後の三時だった。
投稿者は【ひまわり】というアカウントだった。
【投稿者:ひまわり(40代・主婦)】
ノエル様、はじめまして。
ずっとあなたの回答を陰ながら拝読しておりました。あなたのお言葉には、他の誰にもない「真実の光」があります。
私には高校生の息子がおりますが、完全に不登校になり、私を汚い言葉で罵り、壁に穴を開ける毎日です。夫は仕事にかこつけて家に帰ってこず、私は毎日、息子の暴言に怯えながら部屋の隅で泣いています。
誰に相談しても「子どもの成長過程だから」「お母さんがしっかりしなきゃ」と言われるだけでした。誰も私の恐怖を理解してくれません。
ノエル様、私に生きる価値はあるのでしょうか。いっそ、息子の前から消えてしまいたいのです。
智恵の内側で、何かが切り替わった。
(わかるわ)
結衣との冷え切った関係。言葉を交わすことさえ拒絶され、まるで汚いものでも見るような目を向けられる毎日の痛み。それが、ひまわりの叫びと重なった。
智恵はキーボードの上に指を乗せた。
思考が猛スピードで回りはじめる。文面から滲む「母親の罪悪感」と「家庭内の孤立」。それをどう解体し、どう組み替えれば、相手が救われたと感じるか。ロジックが、息をするように組み上がっていく。
『ひまわりさん、はじめまして。ノエルと申します。
息子さんの暴言、壁に開いた穴、ご主人の逃避。毎日どれほどの恐怖と寂しさに耐えてこられたことでしょう。お一人で本当によく耐えてこられましたね。
まず、一つはっきり申し上げます。あなたは「お母さん」であることを、一度、完全に手放してください。
あなたが苦しんでいる最大の理由は、「良い母親であらねばならない」という呪いに縛られていることです。息子さんが壁に穴を開けるのは、あなたが「怯えて顔色をうかがってくれる優しい母」だと知っているからです。
今夜から、息子さんの部屋の前に食事を置くのをやめなさい。彼が暴言を吐いたら、悲しむのではなく、静かな目で見つめて、そのまま家を出なさい。
あなたが守るべきは「息子」ではありません。「あなた自身の命と尊厳」です。』
書き上げて、智恵は満足の息を吐いた。
隙がなかった。相手の「母親としての罪悪感」を肯定して剥ぎ取り、代わりに「冷酷な孤立」を正当化してやる。これで投稿者は、自分を責める呪縛から解き放たれ、ノエルという存在を人生の救世主として崇めるだろう。
智恵は躊躇なく『投稿する』を押した。
数分も経たないうちに、「共感した」が怒涛のように届きはじめた。
『ノエル様の回答、涙が出ました。私も母親ですが、救われました』
『「母親の前に一人の人間」……額に入れて飾りたいです』
『どうしてそんなに人の心が分かるのですか』
智恵は液晶に映る自分の顔を見た。口元が、わずかに笑っていた。
(そうよ。誰も母親の苦しみなんて分かってくれない。私が教えてあげるのよ)
左手の薬指の指輪を、愛おしそうに撫でる。和彦がくれたこの金属の輪は、自分を縛る鎖だと思っていた。けれど今は、この鎖があるからこそ、虐げられた妻・母としてのリアルな痛みを知り、ネットの世界でカリスマでいられるのだ。
「日高智恵」という現実の影が濃いほど、「ノエル」の光は眩しく輝く。
そんな考えが、水のように自然に浮かぶことに、智恵はもう驚かなくなっていた。
第17話 娘からのSOS
午後四時。太陽が西に傾き、リビングに長い影が伸びていた。
智恵はキッチンで夕飯の下ごしらえをしていた。今日のメニューはチキンカツとキャベツの千切り、豆腐の味噌汁。トントン、と包丁が小気味よい音を立てる。以前はただの苦痛だった作業に、今は妙な余裕が混じっている。
玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー」
結衣だった。カバンを廊下に放り投げる重い音がして、足音荒くリビングに入ってきた結衣は、汗で濡れた前髪を額に貼りつけたまま、冷蔵庫を開けた。
「ねえ、麦茶これだけ? カツカツなんだけど」
ピッチャーを掲げて、文句を言う。
智恵は包丁を置いて、振り返った。
以前なら「あ、ごめんなさい、すぐ作るわ」と頭を下げていただろう。けれど、ネットで読んできた無数の「母親たちの愚痴」と、今日書いた返信の文句が、智恵の口を先に動かした。
「自分で作ったら? パックは上の棚にあるわよ」
「は? なんで私が作んの? お母さん、昼間ヒマなんだから作っといてよ」
昼間ヒマな主婦。
世間が押しつけるそのラベルを、結衣は何の悪意もなく口にした。それが悪意でないことが、かえって智恵の胸を焼いた。
(ヒマ。私はね、あなたが想像もできない場所で、何百人もの人から感謝されているのよ)
喉まで出かかったその言葉を、智恵は飲み込んだ。代わりに、見せたことのない、深みのある微笑みを作った。
「結衣」
「なによ」
「お母さんがいなくなったら、あなたはどうするの?」
結衣は一瞬、はっとしたように目を見開いた。
母の口から出たとは思えない、静かで重い言葉だった。いつもおどおどと謝ってくる母が、遠くを見るような目で自分を見ている。
「……何言ってんの。意味分かんない」
結衣は目をそらし、ピッチャーを冷蔵庫に戻して、バタンと扉を閉めた。
そのとき、ポケットの中でスマホが短く震えた。結衣は反射的に画面を覗き込み、その唇の端が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……もういい。部屋行くから」
足早にリビングを出ていく背中を、智恵は黙って見送った。
勝った、と思った。静かな絶望と圧倒的な拒絶の気配を漂わせることで、結衣の中に小さな不安の種を植えつけた。ひまわりに教えたのと同じ「技術」を、娘に使ったのだ。
包丁を握り直すと、その音は先ほどより鋭く、キッチンに響いた。
智恵は、そのとき気づかなかった。結衣がスマホの画面を覗き込んだとき、いったい誰からの連絡で、あんな顔をしたのかを。
第18話 「最近、怖いよ」
夜七時半。和彦が帰宅し、食卓に家族三人が揃った。
揚げたてのチキンカツの匂いが、リビングに充満している。和彦は缶ビールをプシュッと開け、一口呷ってから、ネクタイを緩めた。
「智恵、明日の接待で着るシャツ、アイロンかけといてくれ。白の、襟のしっかりしたやつ」
「自分でかけたら?」
和彦の動きが止まった。
「……何だって?」
「私、今ご飯を食べているの。アイロンなら、食べ終わったあとでも、あなたが自分でできるでしょう」
智恵は視線を合わせず、冷奴の角を箸で崩しながら言った。
和彦の顔が、じわじわと赤く染まっていく。
「お前、最近ちょっと調子に乗ってないか。家事が嫌なら、嫌ってはっきり言えよ。俺が外でどれだけ苦労して金を稼いできてやってると思ってるんだ」
出た。いつもの決まり文句だった。
『誰のおかげで食えていると思ってるんだ』
以前なら、この一言で智恵は縮こまり、服従するしかなかった。お金を稼いでいないという負い目と、社会に出ていないという弱みが、智恵の口を封じてきた。
けれど今の智恵は、ゆっくりと箸を置いた。
「お金を稼いでいることと、家族に敬意を払わないことは、別の問題よ。和彦さん」
「何……?」
「あなたが外で稼いでくるお金で、この家が成り立っていることには感謝しているわ。でも、私がこの家でこなしている家事と育児を、外部の業者に頼んだら、月にいくらかかるか計算したことはある? あなたの給料だけでは足りないくらいよ」
冷徹なまでのロジックだった。それは先週、サイト内で「稼ぎの低さを理由に夫から蔑まされている」という三十代の主婦に、ノエルが授けた反論の台本そのままだった。
和彦は口を開きかけ、閉じた。まさか妻の口から、そんな整った言葉が出てくるとは思っていなかったのだろう。
「それに、私はあなたの家政婦じゃない。この家の共同経営者よ。お互いに敬意を持てないなら、この食卓に一緒にいる意味もないわ」
空気が凍りついた。結衣がスマホを持つ手を完全に止め、息を殺してこちらを見ている。目には驚きと、かすかな怯えが浮かんでいた。
和彦は立ち上がりかけた。
「ふざけるな。誰に向かってそんな口を」
「大きな声を出さないで」
智恵は声を一段低くした。
「近所に聞こえるわ。恥ずかしいでしょう?」
和彦の動きが止まった。世間体を何より気にする和彦の弱点を、智恵はよく知っていた。
彼は荒い息を吐きながら、ドサリと椅子に座り直した。そのまま、無言でチキンカツにソースをかけはじめる。手が、わずかに震えていた。
勝てる、と智恵は思った。
けれどその直後、和彦が顔を伏せたまま、小さく呟いた。
「……疲れてるんだよ、俺も」
聞き間違いかと思うほど、かすかな声だった。
智恵は、返事をしなかった。
胸の奥を、小さな針が一本、通り抜けた気がした。それが何なのかを確かめる前に、智恵は味噌汁を啜って、その感覚を飲み下した。
第19話 一万円の「ありがとう」
深夜二時。家中が深い静寂に包まれる時刻だった。
リビングの作業机で、智恵はパソコンの青白い光に照らされていた。夕食の席での和彦とのやり取りの余韻が、まだ身体の奥で火照りのように残っている。
マイページを開くと、通知欄に見慣れない文字が躍っていた。
『【ひまわり】さんから、あなたに感謝のギフトが贈られました』
有料ポイント機能を通じて、ユーザーからノエルへ「10,000円分」のギフトが贈られていたのだ。メッセージが添えられていた。
【差出人:ひまわり】
ノエル様、奇跡が起きました……!
ノエル様のおっしゃる通り、今夜、息子の部屋の前にご飯を置くのをやめ、暴言を完全に無視して、自分の部屋に鍵をかけて過ごしました。すると夜中、息子が部屋から出てきて、ドア越しに泣きながら「お母さん、ごめんなさい。ご飯食べたい」と言ってきたのです。
十六年の子育てで、息子が私に謝ったのは初めてでした。涙が止まりませんでした。ノエル様が、私に「お母さんをやめる勇気」をくださったおかげです。
このお金は、私がへそくりから出しました。本当はもっとお渡ししたいです。あなたは私の人生の神様です。どうかこれからも、私を導いてください。
画面を食い入るように見つめる智恵の目に、液晶の光が映っていた。
(一万円)
金額の問題ではなかった。自分が、他人の人生を劇的に変えた。十六年解けなかった母子の呪縛を、たった一通のメッセージで解いたのだ。
「ああ……」
吐息のような声が漏れた。
感謝の言葉と、可視化された「価値」。それらが、乾ききっていた智恵の魂に、怒涛の勢いで注ぎ込まれていく。
和彦が稼いでくる給料から渡される生活費とはわけが違う。これは、日高智恵がノエルという名前を通じて、自分の知性と洞察で掴み取った対価なのだ。
ふと、画面の隅で、別のアイコンが赤く点滅した。
ダイレクトメッセージ。送り主のアカウント名は【近隣の影】。
(近隣の影?)
妙な名前だった。智恵は首を傾げながら、メッセージを開いた。
【差出人:近隣の影】
ノエル先生、いつも素晴らしい回答をありがとうございます。先生の鋭い観察眼には、いつも感服しております。
ところで先生。先生のお住まいの地域のスーパー、いなほでは、火曜日に国産牛の薄切り肉が半額になりますよね。
今日の昼前、鶏肉とキャベツの入ったレジ袋を提げて帰られるところをお見かけしました。夕飯は揚げ物でしょうか。
「――っ!」
智恵は息を吸うことさえできなかった。指先が猛烈に震え、背中にどっと冷たい汗が噴き出す。
いなほ。火曜日の半額肉。今日のレジ袋の中身。夕飯の、揚げ物。
(なぜ、それを知っているの)
偶然のはずがなかった。「近所のスーパーの名前」と「今日買ったものの中身」を同時に言い当てられる確率が、いくらあるというのか。
誰かが、自分を見ている。ネットの向こうの誰かが、自分の現実の生活を、この家を、買い物の帰り道を、今夜の献立を。
智恵は青ざめた顔のまま、後ろを振り返った。
暗いリビング。ベランダのサッシの向こうには、重たい夏の夜が広がっているだけだった。カーテンは閉まっている。誰も覗けるはずがない。
なのに、メッセージの最後には、もう一行、付け加えられていた。
【差出人:近隣の影】
いつも近くで応援しています、日高様。
名前。自分の、現実の本名。
「いや……っ」
智恵は咄嗟に口を手で覆い、悲鳴を殺した。パソコンの画面を叩きつけるように閉じる。
暗闇が、リビングを包んだ。
暗くなった液晶のガラスに、血の気を失い、見開かれた自分の目が映っていた。
息を吸っても肺の奥まで届かず、耳の内側で血流の音だけが膨らんでいく。
特定された。自分がただの主婦であることも、住んでいる場所も、本名も、見知らぬ誰かに暴かれた。
(誰。誰なの)
和彦か。結衣か。ママ友か。それとも、ネットで自分が助言を与えてきた、あの信者たちの誰かか。
智恵は暗闇の中で、自分の肩を抱きしめた。
あれほど誇らしかったノエルの名前が。あれほど愛おしかった画面の向こうの世界が。今、自分を丸呑みにしようとする、底なしの口を開けていた。
窓の外を、生温かい夜風が吹き抜けた。サッシがカタカタと不気味な音を立てた。
智恵は逃げ場のない恐怖に押し潰されそうになりながら、這うようにして玄関へ行き、ドアの鍵とチェーンを確かめた。それから、足音を殺してベランダのカーテンの端を、指でほんの数センチだけつまんだ。
下の駐車場には、街灯の白い光が丸く落ちているだけで、人影はなかった。向かいの歯科医院の看板は、消灯して闇に沈んでいる。
ただ、真下のほうの階の、どこかの窓だけが、遅い時間なのに黄色く灯っていた。
その灯りが誰の部屋のものなのか、智恵には分からなかった。分からず、カーテンをそっと戻した。
見られているのではないか、という感覚は、見回しても何ひとつ見つからないことで、かえって濃くなっていった。
暗い部屋の中で、ただ小さく丸まることしかできなかった。




