第2章:深夜2時の画面
第8話 増えていく赤い通知
六月の終わりを告げる湿った雨が、連日のように街を濡らしていた。
マンションのベランダに置いたアジサイは、重たい紫色の頭を垂れている。コンクリートの水はけ口からは四六時中、コポコポと濁った排水音が響き、洗濯物はどれだけ干しても生乾きの匂いが抜けなかった。
日高智恵の日常は、表向きには何ひとつ変わっていなかった。
朝六時に起き、目玉焼きの黄身を潰さないよう慎重にフライパンへ落とす。夫の和彦の靴下を裏返しにして洗濯機へ放り込み、娘の結衣が脱ぎ捨てた制服のブラウスにアイロンをかける。
「お母さん、今日のお弁当、お肉少なめにって言ったじゃん」
「あ、ごめんなさい。脂身の少ない豚ロースにしたんだけど」
「そうじゃなくて、量が多すぎるの。残したら残したでなんか言われるし」
「じゃあ、明日はもう少し減らすわね」
「もういい。自分で詰めるから触らないで」
結衣は弁当箱を引ったくるように取り、蓋を閉めた。和彦は新聞の折込チラシをぱらぱらとめくりながら、智恵の淹れた薄いコーヒーを無言で啜っている。目の下には、寝不足のような薄い隈があった。
二人の背中を見送り、一人きりになったリビングで掃除機を走らせる。
冷ややかな会話のやり取りは、以前と何も変わらない。けれど智恵の内側は、半年前とは根本から違うものになっていた。
スーパーへ向かうママチャリのペダルを漕ぎながら、頭を占めているのは今日の夕飯の献立ではなかった。
(あの投稿の彼女、あれから旦那さんと話せたかしら)
脳裏に浮かぶのは、顔も名前も知らない誰かのことだった。
スーパーいなほの精肉コーナーで、半額シールの貼られた国産牛の薄切り肉を手に取る。以前なら「今夜はすき焼き風にして、和彦の機嫌を取ろうか」と考えただろう。けれど今の智恵は、パックのラップに反射する自分の顔を見つめながら、別のことを考えていた。
(妻が安売りのお肉を買って帰る苦労も知らず、旦那さんは「今日も肉が薄いな」なんて笑うのよ。あの子の旦那と同じ。みんな、何も見ようとしない)
第9話 「どうして分かったんですか」
買い物を終えて帰宅すると、智恵は食材を冷蔵庫に押し込み、掃除と洗濯物の取り込みを猛烈な勢いで終わらせた。
午前十一時前。リビングの隅にある小さな作業机の前に座り、ノートパソコンの電源を入れる。ファンが低く唸り、液晶が青白い光を部屋に投げかけた。
ブラウザのブックマークから『ココロの隙間』を開く。
画面の右上に、赤い通知のバッジが灯っていた。そこに浮かぶ数字を見るたびに、智恵の心臓は小さく跳ね、背中に甘い痺れのようなものが走る。
『通知:38件』
数字は、日を追うごとに増えていた。
アカウント名は『ノエル』。智恵がその名前で最初の回答を書いてから、半年が経っていた。
最初の頃、一日に届く通知は二つか三つだった。
それだけでも智恵は嬉しかった。
朝、和彦と結衣を送り出したあとに一度。
昼食を食べたあとに一度。
夕飯の支度を始める前に、もう一度。
通知が増えていないか確かめる。
何もなければ、少しだけ肩を落とした。
一件ついていれば、それだけで午後の家事が軽くなった。
それでも、その頃の智恵は慎重だった。
相談文を二度、三度と読み返した。
返事を書いても、すぐには投稿しなかった。
『違っていたら、ごめんなさい』
『もしかすると、ですが』
『私には、こう読めました』
そんな言葉を、必ずどこかに入れた。
自分は相手の人生を知らない。
ほんの数百文字を読んだだけで、その人のすべてが分かるはずはない。
そう思っていた。
一月の終わり、一人の女性が投稿した。
夫が休日になると、朝から一人で出かけてしまうという。
行き先を尋ねても「別に」としか答えない。
浮気ではないらしい。
けれど、自分と一緒に過ごすより、一人でいるほうが楽なのだろうか。
そんな内容だった。
智恵は最初、
『寂しいという気持ちを、ご主人に伝えてみてはいかがでしょうか』
と書いた。
書いてから、消した。
相談者はすでに、何度も寂しいと言っている。
それでも夫は変わらなかったから、ここへ来たのだ。
智恵は画面を見つめた。
しばらくして、指を動かした。
【ノエル】
もしかすると、あなたが悲しいのは、ご主人が一人で出かけることそのものではないのかもしれません。
「休みの日くらい、あなたと一緒にいたい」と思ってもらえないことが、寂しいのではありませんか。
一緒に出かけたいのではなく、「一緒にいたいと思われる自分」でいたかったのではないでしょうか。
違っていたら、ごめんなさい。
翌朝、その回答には十七件の「共感した」がついていた。
投稿者からも返信が届いていた。
『そうです。私が言いたかったの、それです』
智恵は画面の前で動けなくなった。
『どうして分かったんですか』
その一文を、何度も読み返した。
どうして分かったのだろう。
特別な勉強をしたわけではない。
心理学の本を読んだこともほとんどない。
けれど、人が口にする言葉と、本当に求めているものが少しずれていることを、智恵は昔から知っていた。
会社に勤めていた頃もそうだった。
「急がないから」と言って書類を置いていく営業社員ほど、夕方になると進捗を聞きに来た。
「悪いんだけど」と頼む人ほど、断られるとは考えていなかった。
和彦が「好きにすればいい」と言うときも、本当に好きにしていいという意味ではない。
結衣が「別に」と言うときも、何も感じていないわけではない。
智恵は十五年、家族の声色と足音と食器の置き方を見ながら、その日の機嫌を読んできた。
言われる前に醤油を取り、
言われる前に洗濯物を取り込み、
不機嫌になる前に話題を変える。
それを能力だと思ったことはなかった。
ただ、家庭を波立たせないために必要なことだと思っていた。
けれど画面の向こうでは、その力を誰かが、
『どうして分かったんですか』
と呼んでくれる。
二月に入ると、ノエルへの反応は一日に十件を超えるようになった。
智恵は相談を読む時間が増えた。
午前中に読んだ投稿を、洗濯物を干しながら考えた。
スーパーのレジに並びながら、相談者が使っていた一つの言葉を思い返した。
味噌汁の味見をしながら、ふいに答えが浮かぶこともあった。
そんなときは、忘れないうちにスマートフォンのメモへ打ち込んだ。
『夫が腹立たしいのではない。期待していた自分が恥ずかしい?』
『姑に嫌われたくないのではなく、夫に守ってほしい?』
『退職したいのではなく、必要とされないのが怖い?』
短い言葉が、メモの中に増えていった。
返信を書くとき、智恵はそれらを眺めた。
一つの言葉がぴたりとはまる瞬間があった。
鍵が鍵穴へ入るように。
その瞬間が、好きになった。
ある夜、姑との関係に疲れたという女性へ回答を書いた。
夫は「悪気はないんだから我慢してくれ」と言う。
姑本人よりも、自分を庇ってくれない夫に失望している――智恵にはそう読めた。
文章の最後に、
『一度、ご実家へ戻ってみてはいかがでしょう』
と書いた。
そこで指が止まった。
そこまで言っていいのだろうか。
この人の夫がどんな人なのか。
実家へ戻れる事情があるのか。
自分は何も知らない。
智恵はその一文を削除した。
代わりに、
『まず、ご主人に「お義母さんのことではなく、あなたに守ってもらえなかったことが悲しかった」と伝えてみてください』
と書いた。
投稿する。
翌日、返信が来た。
『初めて夫にそれを言えました』
続けて、
『夫が黙ったあと、「そこまで傷ついていたとは思わなかった」と言いました』
とあった。
智恵は小さく息を吐いた。
嬉しかった。
自分の言葉が、誰かの口から現実の世界へ出ていった。
そして、その先で誰かを動かした。
洗面所へ行く途中、廊下に和彦の靴下が落ちていた。
脱いだまま、丸く裏返っている。
智恵は拾った。
いつものことだった。
以前なら、そのまま洗濯籠へ入れただろう。
その日は、手の中の靴下をしばらく見つめた。
(何も言わなくても、誰かが拾う)
だから、落とした本人は気づかない。
拾っている人間のことも。
それまでなら、そこで思考は終わっていた。
けれど今は、その先の言葉が浮かぶ。
(問題なのは靴下じゃない)
相手がそこにいることを、当たり前だと思っている。
智恵は靴下を洗濯籠へ落とした。
その頃からだった。
ノエルの文章から、
『違っていたら、ごめんなさい』
という一文が、少しずつ消え始めた。
最初は、単に毎回書く必要がないと思っただけだった。
次に、
『もしかすると』
を使わなくなった。
『あなたが本当に苦しいのは――』
と書くようになった。
そのほうが読まれた。
そのほうが「共感した」が増えた。
そして何より、相談者本人が、
『その通りです』
と返してきた。
三月のある午後。
職場の上司との関係に悩む女性の投稿を読んでいたとき、智恵は途中で答えが分かった気がした。
最後まで読まずに返信欄を開いた。
数行書いたところで、手が止まった。
(違うかもしれない)
以前なら、投稿へ戻った。
最初から読み直し、書いた文章を削っただろう。
その日、智恵の視線は画面の右側へ滑った。
『フォロワー 486人』
その下に、つい先ほどついたコメントが表示されていた。
『ノエルさんは、いつも本人より先に本当の気持ちを分かってる』
智恵はしばらく、その文章を眺めた。
それから相談文へは戻らず、返信を最後まで書いた。
翌日の夜、投稿者から返事が来た。
『ノエルさんの言った通りでした』
智恵は画面の前で、ゆっくりと笑った。
ほら。
やっぱり。
その言葉が頭に浮かんだあと、わずかな違和感が残った。以前なら「よかった」と思ったはずだった。今は、自分が当てたという感覚のほうが心地よかった。
四月、ノエルの回答の一つが、掲示板の「今週の回答」に選ばれた。
運営から届いた通知を、智恵は三度読んだ。
画面を閉じてから、また開いた。
夕食の時間になっても、その文面が頭から離れなかった。
「智恵、醤油」
和彦がテレビを見たまま手を伸ばした。
智恵は醤油差しを取った。
「はい」
「ん。ありがと」
和彦の視線はテレビから動かなかった。
その一言に、以前なら少しだけ救われた日もあった。
何も言われないよりはいい。
そう思っていた。
けれど、その夜は違った。
胸の中が動かなかった。
食事を終え、二人が寝静まってから、智恵はスマートフォンを開いた。
『今週の回答、おめでとうございます』
『ノエルさんの文章、保存しました』
『あなたみたいな人が現実にもいてくれたらいいのに』
『ノエルさんしか分かってくれない』
自分へ向けられた言葉が、途切れず並んでいた。
智恵は一つずつ読んだ。
もう一度、上から読んだ。
翌朝。
目が覚めた智恵が最初に手を伸ばしたのは、枕元のスマートフォンだった。
時刻を見るより先に、『ココロの隙間』を開いた。
通知が十二件増えていた。
智恵は布団の中で、口元を緩めた。
隣では、和彦がまだ眠っていた。
五月。
運営から一通のメッセージが届いた。
『ノエル様の回答は、多くの利用者から支持されています。つきましては「神カウンセラー枠」として、個別のダイレクトメッセージ機能を開放いたします』
智恵は文章を最後まで読んだ。
それから、もう一度冒頭へ戻った。
『ノエル様』
様。
定型文だ。
他の選ばれた利用者にも、同じ文面を送っているに違いない。
分かっている。
それでも智恵は、その四文字から目を離せなかった。
日高さん。
奥さん。
お母さん。
智恵。
これまで呼ばれてきた名前が、頭の中を通り過ぎていく。
ノエル様。
声に出さず、口の中で転がしてみた。
妙に馴染んだ。
画面の右上には、今日も赤い丸が灯っていた。
『通知:61件』
智恵は一番上から、ゆっくりと開いていった。
多くの利用者が「辛いですね」「頑張ってください」「そんな夫とは別れるべきです」といった、安直な同情や過激な助言を書き込む中で、ノエルの言葉は異質だった。
彼女はもう、安易に相手を慰めなかった。
投稿者の文章の行間を読み、置かれた状況と、感情の裏にある「言えなかった言葉」を探す。
そして今では、ときに投稿者本人より先に、その答えを知っているような気さえしていた。
たとえば、こんな投稿があった。
【投稿者:みかん(20代後半・既婚)】
結婚して一年ですが、夫が休みの日になると一人で趣味の釣りに出かけてしまいます。寂しいと伝えても「平日は働いてるんだから息抜きさせてくれ」と言われます。私といるのが退屈なのでしょうか。
智恵は最後まで読むと、ほとんど迷わず返信欄へカーソルを合わせた。
他のユーザーは「新婚なのにひどい」「もっと話し合いましょう」と書き込んでいた。智恵の返信は違った。
【ノエル】
みかんさん、はじめまして。
旦那様が釣りへ行くのは、あなたといるのが退屈だからではありません。あなたという存在が、すでに彼にとって「実家」のような空気になってしまっているからです。
彼は、あなたに甘えています。何もしなくても、家へ帰れば温かいご飯があり、掃除された部屋がある。だからこそ、外へ刺激を求めに行くのです。
あなたが本当に辛いのは「釣りに行かれること」ではなく、「私という存在の価値を、当たり前の空気のように扱われていること」ではありませんか。
今度の週末、旦那様が釣りへ出かけたら、あなたも黙って家を空けてみてください。置き手紙も、夕飯の準備もいりません。彼が帰ってきたとき、誰もいない暗い部屋で、初めて彼は「あなたが空気ではなく、意志を持った人間だった」と気づくはずです。
返信は、またたく間に反響を呼んだ。
『凄すぎる。言葉が出ない』
『みかんさんの本当の痛みを言語化してくれてる』
『ノエルさん、心理カウンセラーの方ですか?』
『首がもげるほど頷いた。私の夫もそうです』
「共感した」のカウントは、夕方には三桁を超えていた。数日後、投稿者のみかん本人から長いメッセージが届いた。
『ノエルさんの言う通りにしてみたら、夫が青ざめて謝ってきました。泣きながら私を抱きしめてくれました。ノエルさんは命の恩人です』
智恵は画面の前で、ゆっくりと息を吐いた。
(そう……分かればいいのよ。男なんて、失いかけて初めて慌てる生き物なんだから)
その考えが自分の頭に浮かんだことに、智恵は少し驚いた。以前なら思いもしなかった言葉だった。
第10話 ノエル様の暮らし
通知欄の一番上に、ひとつの書き込みが目に留まった。
『ノエル様の普段の暮らしが知りたいです。どんなところで、どんなふうに過ごしている方なのか、想像しているだけで楽しくて』
掲示板の雑談スレッドに、ファンが立てた質問だった。すでに数十件の返信がついていて、「私も知りたい」「きっと素敵なお家に住んでいらっしゃるのでは」といった書き込みが続いている。
智恵はキーボードから手を離した。
素敵なお家。窓の外には雨に濡れた洗濯物が、ベランダの物干し竿にぶら下がっている。リビングの床には、結衣が脱ぎ捨てた靴下が片方だけ落ちたままだった。
それでも智恵は、指を動かした。
『大した暮らしではありません。梅雨のあいだ、ベランダのアジサイを眺めながら、一杯の紅茶を淹れるのが私の唯一の贅沢です』
本文だけでは、何か足りない気がした。
智恵はスマホを取り、マグカップに紅茶を淹れた。ベランダへ出る窓を少し開け、手すりにマグカップを置く。立ちのぼる湯気の向こうに、紫のアジサイが雨に濡れて揺れていた。
何枚か撮った写真の中から、一番きれいな一枚を選ぶ。アジサイの紫と、白い湯気。背景のガラス戸に何かが小さく映り込んでいたような気がしたが、それが何なのかを確かめる前に、智恵は『投稿する』のボタンを押していた。
返信は、見る間に増えていった。
『素敵……ノエル様の世界にいるみたい』
『この一枚だけで、心が静かになります』
『こんな暮らしに憧れます』
「素敵」という文字が、画面にいくつも並んだ。
智恵はそれを、陶酔するように目で追った。マグカップの紅茶は、いつの間にか冷めていた。
第11話 私、まだ女なんだわ
昼過ぎ、智恵は夕飯の買い足しのために、近所のドラッグストアへ立ち寄った。
いつもなら、一番安い詰め替え用のボディソープや、特売の洗剤だけを買って素早く店を出る。けれどこの日は、化粧品コーナーの前で足が止まった。
照明の強いガラスケースの中に、色とりどりの口紅やファンデーションが並んでいる。
智恵はここ何年も、まともに化粧をしてこなかった。出かけるときは日焼け止めを兼ねた下地を塗り、安いBBクリームを伸ばすだけ。リップクリームさえ、薬用のものをポケットに突っ込んでいた。
(四十過ぎて、今更)
そう思いながらも、目は、あるブランドのリップグロスに吸い寄せられていた。派手すぎない、けれど微かにゴールドのラメが入った、深みのあるローズピンク。
テスターを指に取り、手の甲に少しだけ塗ってみる。蛍光灯の下で、乾いた自分の肌の上に、そのピンクはやけに艶やかに浮かんだ。
「お試しになりますか?」
店員に声をかけられ、智恵は肩を揺らした。
「あ、いえ」
断ろうとした。こんなものを買って帰れば、和彦に「何気取ってるんだ」と言われるかもしれない。結衣に「うわ、キモ」と笑われるかもしれない。
けれど、脳裏に、ネットで見たファンの書き込みが閃いた。
『ノエル様は、きっと美しくて知的な方に違いない』
彼女たちは、ノエルを信じている。ノエルは、疲れ切った冴えない主婦であってはならない。強く、美しく、物事の本質を見抜く聡明な女でなければならないのだ。
「……これ、ください」
千五百円を支払い、店を出たところで、智恵は自転車のバックミラーに自分の顔を映した。
マスクを少しずらし、買ったばかりのグロスを唇に塗る。乾いていた唇が潤い、薄いピンクの光を放った。
(私、まだ女なんだわ)
ミラーの中の自分と目が合った。目元に刻まれた小ジワまで、どこか思慮深さの証のように見えた。
ここ数か月、家族の誰も智恵の顔をまともに見ていない。けれどノエルとしての智恵は、何百人もの人々に注視され、必要とされている。
グロスをポーチにしまい、智恵は背筋を伸ばして自転車を漕ぎ出した。雨上がりの街並みが、いつもより少しだけ鮮やかに見えた。
第12話 醤油なら十センチ横にある
その夜の夕食でのことだった。
和彦はいつものように、テレビを観ながら無言でナスと牛肉の炒め物を口に運んでいた。結衣は耳にイヤホンを入れたまま、スマホの画面を指で弾いている。
「智恵、醤油」
和彦が、手だけを伸ばして言った。
以前の智恵なら、黙って醤油差しを取り、彼の手に握らせていただろう。「すみません」と心の中で小さく呟きながら。
この日の智恵は、箸を止めた。
「和彦さん」
「ん?」
「醤油なら、あなたの右手から十センチ横にあるわよ。自分で取ったら?」
声は低く、淡々としていた。感情的な怒りではなく、ただ事実を指摘するような冷ややかさだった。
和彦の手が止まった。テレビに向けられていた視線が、驚いたようにゆっくりと智恵のほうへ動く。
「……あ?」
「私、あなたの召使いじゃないの。目が見えているなら、自分で取って」
食卓に、冷たい静寂が落ちた。斜め向かいの結衣が、片耳のイヤホンを外し、信じられないものを見る目で智恵を凝視した。
和彦の顔が赤く煮え立っていく。
「なんだよ、その言い方は。俺が外で誰のために働いてると思ってるんだ」
「働いていることと、目の前の醤油を自分で取らないことは、何の関係もないでしょう」
智恵は怯まなかった。まっすぐに和彦の目を見つめ返した。
ネットの世界で、何十人もの「夫に苦しむ女性たち」の相談に乗ってきた。男たちが決まって使う「誰のおかげで食えていると思ってるんだ」という言葉の裏にある、ちっぽけなプライドの形を、智恵はノエルとして何度も分解してきた。
目の前の和彦も、結局はその「ちっぽけな男たち」の一人にすぎなかった。以前は巨大な壁のように見えていた夫が、いまは妙に小さく、哀れに見えた。
和彦は睨みつけたが、やがて苛立ちを隠そうともせず、ガチャリと大きな音を立てて自分で醤油差しを掴んだ。皿に叩きつけるように置く。
「……何なんだよ、最近のお前は。変な宗教にでも入ったんじゃないだろうな」
「別に。当たり前のことを言っただけ」
智恵は平然と、自分の味噌汁を啜った。
胸の中で、激しい鼓動が打っていた。恐怖ではなかった。もっと熱くて、舌の奥にいつまでも残るような、危うい味だった。
結衣が、イヤホンを外したまま、何か言いたげな目で智恵を見ていた。その視線が嬉しくなかったと言えば、嘘になる。
第13話 狂い咲き
夜十一時半。
家族が寝静まった暗闇の中、智恵はリビングのパソコンを開いた。
ノエルのフォロワーは、千人を超えていた。新しい回答を投稿するたびに、タイムラインは祭りのような賑わいを見せる。
その夜、智恵のもとへ、一通のダイレクトメッセージが届いた。
神カウンセラー枠だけに開放された、個別の連絡手段。送り主のアカウント名は【狂い咲き】だった。
開くと、長文のテキストが画面にぎっしりと詰まっていた。
【差出人:狂い咲き】
ノエル様、初めまして。
ずっとあなたの回答を読んでいました。あなただけが、この汚い世界で本物の「真理」を語っていらっしゃいます。あなたの言葉は、私の魂の救いです。
実は、誰にも言えない悩みがあります。
私は今、職場の上司(既婚男性)と不倫関係にあります。彼は「妻とは冷え切っている。離婚するから待ってくれ」と言いますが、もう二年が経ちました。最近、彼が私を避けているような気がします。
昼休みになると、彼は非常階段でスマホを見ています。この『ココロの隙間』を読んでいるようです。奥さんとのことを、ここへ書き込んでいるのかもしれません。私には何も話してくれないのに。
私はどうすればいいでしょうか。ノエル様、どうか私に「正解」を教えてください。あなたのおっしゃる通りにします。あなたの言葉なら、毒でも飲みます。
文章の行間から立ちのぼる、濃密で異常な執着。他の相談者たちの「寂しい」「辛い」とは違い、このメッセージには、智恵の背筋を氷のように撫で上げる湿り気があった。
(……この人、少し危ないかもしれない)
智恵の理性が、警告信号を鳴らした。関わらないほうがいい。無視するか、運営に通報してブロックすべきだ。
けれど。
『あなたの言葉なら、毒でも飲みます』
その一文が、胸に深く刺さった。
一人の人間が、自分という存在にそこまで依存している。自分の言葉一つで、その人の人生が、もしかしたら命さえ動くかもしれない。そう思った瞬間、背筋の寒気より先に、何かが身体の底で満ちていくのを智恵は感じた。
(ダメよ、ノエル。あなたは救い主なんだから。逃げちゃダメ)
智恵は息を呑み、返信を打ち始めた。
【ノエル】
狂い咲きさん、はじめまして。
あなたの苦しみ、痛いほど伝わってきます。
結論から申し上げます。その男性は、あなたと結婚する気などさらさらありません。あなたを「都合のいい逃げ場」として利用しているだけです。男は、リスクを冒さずに手に入る快楽を、決して手放しません。
あなたが本当に彼の本心を知りたいのなら、待っているだけでは何も変わりません。彼が一番恐れているものは何でしょう。「平穏な日常が壊れること」ではありませんか。
彼の奥様に、匿名で二人の関係を知らせなさい。それが、彼への本当の「愛の試練」です。本当にあなたを愛しているなら、彼は奥様と別れてあなたの元へ走るでしょう。逃げるなら、それまでの男だったということです。
カタカタと音を立てて打ち終えた文章を、智恵は読み返した。
一瞬、自分の書いた内容の重さに胸が痛んだ。不倫相手の妻に告げさせるなど、あまりに危険な助言だった。一歩間違えれば争いは泥沼になり、人間関係は完全に破滅する。
(でも、これが「正解」のはず。彼を試すのよ。本物なら耐えられるはずだわ)
言い聞かせるように、智恵は送信ボタンを押した。
送信完了の画面が表示された、まさにその瞬間だった。
ガチャリ。
静まり返ったリビングに、ドアの開く音が響いた。
智恵は息を止め、弾かれたようにパソコンの画面をバタンと伏せた。心臓が肋骨の内側を叩く。
暗闇に立っていたのは、夫の和彦だった。ボサボサの頭にステテコ姿で、眠たそうな目を擦りながら、薄暗いリビングの隅に座る智恵を、眉間にしわを寄せて見つめていた。
「……何してんだよ、こんな時間まで」
「あ、ううん。ちょっと、家計簿の計算をしていて」
声が震えた。口の中がからからに乾いていた。
和彦は不審そうに近づいてきた。重い足音が、判決を言い渡しに来る裁判官のように聞こえた。
「家計簿? パソコンでか? お前、最近ずっと夜中にそれやってるだろ」
「だって、手書きよりパソコンのほうが楽だから」
和彦は智恵の横を通り過ぎ、冷蔵庫を開けて麦茶のピッチャーを取り出した。コップに注ぎ、一気に飲み干す。
智恵は冷や汗で背中をぐっしょり濡らしながら、伏せたパソコンの上に両手を置いていた。もし今、和彦が「見せろ」と言って蓋を開けたらどうなるだろう。画面には、不倫に悩む女に「妻へ匿名で知らせろ」と唆す、四十過ぎの主婦の書き込みが残っているのだ。
和彦はコップをシンクに置き、智恵の手元に目をやった。
「……ふん。余計な電気代使うなよ。早く寝ろ」
それだけ言って、あくびをしながらリビングを出ていった。ドアが閉まる。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
智恵は膝から崩れ落ちた。全身の毛穴から冷や汗が吹き出す。
危なかった。もしバレていたら、家庭は崩壊し、自分はただの狂った女として追放されていただろう。
(やめなきゃ。こんなこと、もうやめなきゃ)
智恵は本気でそう思った。明日、アカウントを消そう。ノエルを消して、元の普通の主婦に戻ろう。
震える手でパソコンを少しだけ開き、電源を切ろうとした、そのときだった。
画面の右下に、通知が滑り込んできた。
『【狂い咲き】からメッセージが届きました』
智恵の指が止まった。見なければいい。電源ボタンを長押しして、強制終了すればいい。
けれど、智恵の指は、吸い寄せられるようにメッセージを開いていた。
【差出人:狂い咲き】
ノエル様……! 素晴らしいアドバイスをありがとうございます! 涙が止まりません!
そうですね、彼が一番怖がっているのは「平穏な日常」です。私、今から彼の奥さんのSNSを探して、二人の写真と、ホテルで撮った写真を送ります。ノエル様が背中を押してくれたおかげで、私は強くなれました! あなたは私の神様です。結果が出たら、またすぐ報告しますね。
「あ……」
声にならない声が、喉の奥から漏れた。
(待って。今すぐはやめて。落ち着いて)
智恵は慌てて返信を書こうとした。『待ちなさい、まだ早いです、一度冷静になって』と。
けれど、送信ボタンを押そうとした瞬間、画面にエラーが表示された。
『このユーザーは退会したか、アカウントを一時凍結しています』
狂い咲きは、智恵の助言を受け取った直後に、自分のアカウントを消し、「実行」へ走り去っていた。
智恵は青ざめた顔で、画面を見つめ続けた。
自分が放った言葉。軽はずみに書いた、残酷な「正解」。
それが今、暗闇のどこかで、現実の誰かの家庭を、誰かの人生を、音を立てて壊そうとしている。
静まり返ったリビングに、壁掛け時計の針の音だけが響いていた。
智恵は自分の両手を見つめた。冷たく、震えていた。
誰かを救う神の手のはずだった。あるいは、誰かを破滅へ追いやる悪魔の手だったのかもしれない。
やめることなど、もうできなかった。ノエルという毒は、すでに智恵の血の中を巡り始めていた。
深夜二時。暗闇の中で、パソコンの液晶だけが、智恵の青白い顔を静かに照らし続けていた。




