第10章:屋上の風
第54話 合図は「風が強くなりました」
警察は、智恵に一人で屋上へ向かわないよう求めた。
会議室のテーブルには、ヴェルデ桜ヶ丘の図面が広げられていた。五階建ての建物の、屋上へ続く鉄の扉。普段は施錠されていて、管理会社の人間しか鍵を持っていない。その扉が、昨日から開いたままになっているという。
「相手を刺激しないことが、第一です」
村瀬刑事が、図面の上を指でなぞりながら言った。
「約束の時刻の前に、周囲へ捜査員を配置します。智恵さんが会う場合も、ご家族は安全な場所で待機してください。合図があれば、すぐに介入します」
「私が行かなければ、出てこないと思います」
智恵は言った。
「あの人が会いたいのは日高智恵ではなく、自分が作り上げたノエルだから」
和彦は反対した。
「危険すぎる。警察に任せればいい」
「任せるわ。でも、逃げたままにはしたくない。これは、あの人を捕まえるためだけじゃない。私が自分の言葉で終わらせなければならないことなの」
結衣は長く黙っていた。会議室の時計の針が、乾いた音を立てて進んだ。
「お母さん、死んで償おうとか、思ってないよね」
智恵は結衣の顔をまっすぐに見た。
「思っていない。生きて、責任を負う」
「じゃあ帰ってきて」
「帰ってくる」
智恵が差し出した小指に、結衣が自分の小指を一度だけ絡めた。それで約束になった。
家族の待機場所には、向かいのさくら歯科の待合室が提供された。院長が、休診日の昼下がりに鍵を貸してくれたのだった。
窓からは、道路と駐車場を挟んで、ヴェルデ桜ヶ丘の全景が見える。あの日の写真のガラス戸に映り込んでいた、白い看板の内側だった。そこから自分たちの住む建物を見上げることになるとは、思ってもみなかった。
待合室のソファに、結衣が腰を下ろした。壁際の本棚には、子ども向けの歯みがきの絵本が並んでいる。結衣はその一冊を手に取ってぱらぱらとめくり、また戻した。
「ここ小さい頃、来たよね」
「そうね。虫歯の治療で、泣いて」
「泣いてない」
「泣いてたわよ」
結衣は少しだけ口元を緩めた。すぐにその顔を引っ込めた。笑ってはいけない日だと、分かっているようだった。
和彦は窓際に立って、マンションの屋上を見上げていた。西日に染まった給水塔が小さく見えた。
「俺はここで待つのが、正しいのか」
独り言のように、呟いた。
「分からない。でも、あなたが待っていてくれることが、私には必要だと思う」
智恵は言った。和彦は振り返って、何も言わなかった。
「合図は決めておきましょう」
村瀬が言った。
「危険を感じたら、何と言いますか」
智恵は窓の外の、街路樹の揺れを見た。風が強くなっている。
「風が強くなりました。そう言います」
第55話 ノエルの服を脱いで
午後四時、智恵は歯科医院の洗面所の鏡の前に立った。
グレーのカットソーに、使い古したジーンズ。化粧はせず、髪は後ろで一つに束ねた。ノエルの衣装は、どこにもなかった。
胸元に、小さな録音機器が貼りつけられた。服の下で体温に馴染んで、すぐに存在を感じなくなった。
薬指の指輪に、智恵は触れた。
プラチナの冷たさは相変わらずだった。鎖だと思ったこともあったその輪を、今日は外さなかった。
出がけに、結衣が廊下で呼び止めた。
結衣は自分の髪から黒いヘアゴムを一つ外して、智恵に差し出した。
「これ持ってて」
「どうして」
「帰ってくるって言ったから。預かり物」
意味は分かった。
智恵はそのヘアゴムを手首に通した。黒い輪が、細い骨の上で軽く揺れた。
和彦が、洗面所の入口に立っていた。
「行くのか」
「うん」
「俺はお前に、何も言えなかったな。ずっと」
智恵は振り返った。
「今から言うのは、卑怯かもしれない。でも、言わせてくれ。ありがとう。……毎日、あの家を回してくれて」
智恵は驚いて、夫の顔を見た。
十五年間、一度も聞いたことのない言葉だった。
「今は受け取れないかもしれない」
智恵は言った。
「でも覚えておく」
和彦は小さく頷いた。
第56話 私は神様ではない
午後五時前、屋上には強い風が吹いていた。
西日が給水塔の影を長く伸ばし、郊外の屋根を赤く染めている。遠くで、踏切の警報機の音が鳴っていた。
智恵は非常階段を一段ずつ上がっていった。階下には、制服の警察官と私服の捜査員が、息を殺して待機している。
上がりながら、智恵はこの建物で過ごした十年を思い出した。
二階の廊下。封をされた二〇七号室のドア。三階の、川口さんの家の表札。四階の踊り場から見える、駅前の夕景。五階の、自分の家のドア。
どの階にも、誰かの暮らしがあった。誰もが同じ階段を、買い物袋を提げて、ランドセルを背負って、毎日昇り降りしていた。その中で、自分の足音はきっと誰にも聞き分けられなかった。
今は、一歩ごとの靴音が鉄の階段にはっきりと響いた。
最上段の、鉄の扉の前に立った。ドアノブは冷たかった。
扉を開けると、風が顔に当たった。
給水塔の陰から、痩せた女が現れた。
安い生地のワンピース。乱れた髪。片手にはスマートフォンが握られていた。もう片方の手は、身体の後ろに隠されていた。
あのとき、エントランスでアジサイを褒めてくれた人だった。けれど笑顔は、どこにもなかった。
「待っていました、ノエル様」
「山下由香里さんね」
本名を呼ばれた女の口元が、歪んだ。
「その名前で呼ばないで。私は、あなたに選ばれた、狂い咲きよ」
「私は誰も選んでいない」
「嘘。あなたは、私に正解をくれた。佐藤の妻へ、写真を送れって。あの一言で、私はやっと人生を動かせた」
由香里は一歩近づいた。目が乾いていた。
「でもあなたは、途中で変わった。お金を稼いで、上等な服を着て、優しい聖母の真似を始めた。だから、私が余計なものを削ってあげたの。あなたを、本物のノエルに戻すために」
智恵はかつて画面の向こうにいた、狂い咲きを思い出した。
『あなたの言葉なら、毒でも飲みます』
「あなたの人生を壊した責任を、私は軽くは考えない」
智恵は言った。
「でもあなたが、私や結衣を脅し、佐藤さんを追い詰めた責任まで、私が代わりに背負うことはできない」
由香里の笑みが消えた。
「佐藤は死ななかった」
声が低くなった。
「私見たのよ。病院から帰ってくる佐藤を。奥さんに支えられて、歩いてた。あなたのお告げは、あの日あの人に届いたはずなのに、あの人は生きてた」
生きていた。
その三文字が、頭の中で何度も反響した。膝から力が抜けそうになり、足の裏に屋上のコンクリートの硬さを必死に探した。
安堵が先に来た。そして次の瞬間、その安堵を感じた自分に恥ずかしさが押し寄せた。彼が生きていたことは、智恵の罪を軽くしない。それでも、生きていた。生きていてくれた。
智恵は息を止めたまま、由香里を見た。
「通報したのは、あなたでしょう」
由香里はスマートフォンを持つ手に力を込めた。
「ノエル様のIDで。運営が、あの人に連絡したのよ。あの人が実在の人間だって、知っている人間にしか、あの文面は書けない。全部を台無しにしたのは、あなた」
「そう」
智恵は静かに答えた。
「私が押した」
由香里の顔が、ひきつった。
「脅されて、あの文章を書いたことは消えない。でも、あのあと、私は押した。それは、私が決めたことよ」
「ずるい」
由香里の声が震えた。
「神様は一度、人を殺したなら、最後まで、殺さなきゃ」
智恵はその言葉の意味を、ゆっくりと飲み込んだ。
由香里はふっと、視線を遠くへ投げた。
「毎日見てた。あなたが自転車でスーパーへ行く背中。重い買い物袋を提げて、ベランダで洗濯物を干す姿。ネイビーのブラウスを着て、駅ビルのカフェでスマホを見ている横顔。それから、あなたの娘さんの背中も。あの子が家を出ていくたびに、私はあとをつけた。あなたが気づかない間に」
智恵はあの白い日傘を思い出した。
「あのとき、あなたが本当に楽しそうだったから。私、悔しくて、そしてうれしくて。ああ、この人は私の神様じゃなくて、私と同じ、台所に立つ女なんだって思ったの。でも、同じ人間なら、神様のふりをしてほしくなかった」
智恵は息を整えた。
「そうね。私は、神様のふりをしてしまった。それを、謝る」
「ねえ」
由香里の声が、ふっと柔らかくなった。
「私ね、あなたの文章に初めて出会ったとき、泣いたの。夜の十一時で、会社の給湯室で、スマホを見ていて。誰も、私の気持ちを言葉にしてくれなかった。あなたが、初めてだった」
智恵は黙って聞いた。
「佐藤は私に、『君は特別だ』って言った。二年間、毎日。でも、奥さんの写真を送ったら、『お前のせいだ』って。『お前がいなければ、全部うまくいってた』って、私を指さした」
由香里はふふ、と短く笑った。
「おかしいでしょう。あの人は、私が壊したわけじゃないのに。壊せって言ったのは、あなたなのに」
智恵は言い返せなかった。「お前のせいだ」という言葉が、あの夜から由香里の中でどれほどの重さを持っていたのか、想像するだけで背筋が冷えた。
「だから全部を、本当にしたかった。あなたが言った通りに、一緒に最後まで」
「それは本当には、ならなかった」
智恵は静かに言った。
「あなたが言う本当の愛の試練は、私が画面の向こうで書いたものなの。何の保証もない。私はただの台所に立つ主婦で、あなたの人生に責任の取れる人間ではなかった」
由香里は目を見開いた。何かを初めて聞いたような顔だった。
「佐藤にはね、ちゃんとお礼もしたの」
由香里は薄く笑った。
「経理の端末に、あの人の承認印を使って、存在しない取引先への支払いを、自宅待機になる前の一日で作った。私がいなくなったあとで、監査が入るように。数千万円。あの人はきっと何もできずに、青ざめるだけ」
智恵は胸の奥が冷たく凍るのを感じた。
胸元の録音機器が、一語も漏らさずその言葉を拾っている。そのことを、由香里はまだ知らなかった。
「あの日彼が、ノエルの文章を昼休みに読むって、知ってたから。あの朝、監査から呼び出しが行くように、日付を合わせたの。追い詰められた彼は、必ずここに書き込む。二年間そばで見ていたから分かってた。あなたの言葉が、最後の一押しになるって」
「そう」
「あなたの言葉は、魔法だった。人の背中を押すことができる。だから、私はあなたを使った」
由香里の声は、誇るようでもあり、泣いているようでもあった。
智恵は目を閉じて、それから開いた。
「謝りなさいよ」
由香里が言った。
「謝ります。私の言葉であなたの判断を煽ったことを、心から申し訳ないと思っています」
智恵は頭を下げた。
「でもあなたを、神様の信者にはしない。私は神様ではないし、あなたも、誰かの言葉に従うだけの人ではない。あなたがしたことは、あなた自身の行為です」
第57話 「智恵さん」
「智恵さん」
由香里が、ふいにそう呼んだ。
智恵ははっとした。
画面の向こうの崇拝者たちは、誰もその名前を呼ばなかった。「日高様」と近隣の影が呼んだことはあった。けれど「智恵さん」と、親しげに、ほとんど優しいほどの声で呼ばれたのは初めてだった。
「名前で呼ばれるのは、嫌?」
「嫌じゃない」
智恵は答えた。
「でもその名前は、あなたの神様の名前じゃない。ただの、私の名前よ」
由香里の唇が、小さく震えた。
由香里は後ろに隠していた手を出した。
小さな果物ナイフが、西日を弾いた。
「そんな言葉、聞きたくない」
声は先ほどまでと違い、幼い子どものようだった。
「あなたまで、私を捨てたら、私は何のために全部失ったの」
「私にその答えは、作れない」
智恵は距離を保ったまま、言った。
「以前の私は、答えを持っているふりをした。だから、人を傷つけた。もう、あなたの人生に、正解を与えることはしない」
由香里の呼吸が乱れた。
「一緒に死んでよ。そうすれば、ノエル様は、永遠になる」
「死なない」
智恵は即座に答えた。
「私は家へ帰る。娘との関係が元に戻らなくても、夫に許されなくても、佐藤さんから責任を問われても、生きて向き合う」
由香里が、ナイフを持ち上げた。
智恵はゆっくりと後ろへ下がりながら、事前に決めた言葉を口にした。
「風が強くなりました」
扉が開き、複数の警察官が屋上へ入ってきた。
「刃物を置いてください」
由香里は智恵へ向かおうとしたが、足元の段差に靴を取られた。警察官が間へ入り、手首を押さえた。ナイフがコンクリートへ落ちて、乾いた音を立てた。
「ノエル様!」
拘束されながら、由香里は叫んだ。
「あなたは、私と同じでしょう! 誰にも見てもらえない、空っぽの人間でしょう!」
智恵は答えなかった。
「行かないで」
由香里は警察官に腕を取られながら、智恵のほうへ顔を向けた。さっきまでの鋭さが消え、頬に涙が筋を作っていた。
「ノエル様、行かないで。お願い」
智恵は一歩、足を踏み出しかけた。
そして、止まった。
駆け寄って抱きしめれば、この人はまた自分の神様を手に入れたと思うだろう。
智恵は唇を結び、由香里の目をまっすぐに見た。
「さようなら、山下さん」
由香里の目が大きく見開かれた。ノエルではなく山下と呼ばれたことに、初めて気づいたようだった。
由香里が連行されていく。その背中が扉の向こうへ消えた。細い肩が、最後まで震えていた。
智恵は屋上の端から十分に離れた場所に、座り込んだ。膝に力が入らず、立っていられなかった。
村瀬刑事が、そばに屈み込んだ。
「お疲れさまでした。録音は、すべて取れています」
「あの人は」
「怪我はありません。今は、署で保護しています」
「そう」
智恵は手首の黒いヘアゴムに触れた。結衣のものだった。返しに行かなければ、と遠いところで思った。
第58話 帰ろう
風は止まなかった。
西日は少しずつ傾き、雲の縁が紫色に変わっていった。屋上のコンクリートには、給水塔の影が長く細く伸びていた。
階段のほうから、足音が聞こえた。
警察官に付き添われた和彦と結衣が、姿を見せた。
結衣は駆け寄りかけて、途中で足を止めた。
智恵は両腕を広げなかった。ただ「帰ってきたよ」と言った。
結衣は数秒迷った。それから智恵の隣へ、そっと腰を下ろした。肩と肩が触れた。
和彦も反対側へ腰を下ろした。
三人は、抱き合わなかった。
夕焼けが消えていくまで、同じ風の中に座っていた。
下の道路から、車のドアの閉まる音や子どもたちの声が小さく聞こえてきた。いつもの夕方だった。誰も、特別なことを言わなかった。
智恵は手首の黒いヘアゴムを外した。
「これ返す」
結衣は受け取って、少し眺めた。それから慣れた手つきで、髪を一つにまとめた。
「ほんとに、帰ってきた」
「約束したから」
「小指のやつ、効いたんだね」
「効いたみたい」
結衣は膝を抱えて、少しだけ顔を伏せた。肩が揺れていた。
智恵はその背中に手を伸ばしかけて、止めた。代わりに、隣で同じ方向を向いたまま動かなかった。
「お腹空いた」
結衣が、ぽつりと言った。
智恵は思わず笑いそうになった。
「何か食べようか」
「うん」
「味噌汁なら、あるわ。鍋が焦げていなければ」
「焦げてたら、俺が作り直す」
和彦が言った。結衣が、小さく鼻を鳴らした。
その音が笑いだったのか泣き声だったのか、智恵には判別がつかなかった。三人は、風が止むのを待った。
やがて警察官に促されて、三人は屋上の扉をくぐった。
非常階段を降りる途中、四階の踊り場で、和彦がふいに立ち止まった。
「智恵」
「なに」
「お前今日、一度もノエルの声を出さなかったな」
智恵は少し考えてから、答えた。
「出せなかったの。もう、あの声がどこにあるのか、分からないから」
「そうか」
和彦はそれ以上、何も言わなかった。
一階のエントランスでは、川口さんがポストの前で所在なさげに立っていた。三人の姿を見ると、近づきかけて止まった。
「あのこれ。よかったら」
差し出されたのは、小さな保冷バッグだった。中には、冷えた麦茶のボトルが三本入っていた。
「何があったのかは、聞かないわ。でも、暑かったでしょう」
智恵は受け取った。ボトルの冷たさが、掌にじんわりと染みた。
「ありがとう」
エレベーターの中で、結衣が保冷バッグから麦茶のボトルを一本抜き取って、父親に渡した。もう一本を母親に渡した。自分の分を開けて一口飲み、息を吐いた。
三人は五階に着くまで何も言わなかった。ドアが開く直前、和彦が短く言った。
「帰ろう」




