第11章:届かなかった言葉
第59話 ただの「ありがとう」
山下由香里は脅迫、つきまとい、刃物を持ち出した行為などについて、捜査を受けることになった。
屋上での録音は、証拠として保全された。由香里が自ら語った経理端末への不正な細工は、別の捜査の端緒になった。
智恵はあの翌日から、何度も警察署へ呼ばれた。
今度の聴取では、ノエルとして書いた文章の一つひとつが机の上に並べられた。智恵が忘れたふりをしていた言葉も、画面の記録には残っていた。
「あなたは、脅迫を受けていました。それは、重要な事情です」
担当者は言った。
「しかしそれ以前にも、危険な助言を繰り返しています。被害を訴える方が、すでに数名、いらっしゃいます」
智恵は膝の上で、手を固く組んだ。
机の上に書類が三枚並べられた。
一枚目は、嫁に庭の鉢植えを枯らされた老婦人からの、被害の申し出だった。『ノエルの助言で、嫁が庭の花に塩水をかけた。大切に育てていた牡丹が、全滅した』。家庭内の小さなトラブルのように見えて、それを書いた老婦人の字は震えていた。
二枚目は、みかんの夫からだった。『妻が、ノエルの言葉を信じて、無断で家を空けるようになった。喧嘩が絶えず、調停を申し立てられた』。
智恵は息を止めた。みかん。感謝のメッセージを泣きながら送ってくれた人。夫が謝って、抱きしめてくれたと書いていた人。
そのあとの話は、智恵には届いていなかった。
「みかんさんは、その後」
「今は別居されているそうです」
智恵は目を閉じた。
三枚目は、ひまわりの夫からのものだった。
『妻が息子の部屋の前に食事を置くのをやめたあと、息子は三日間、家へ戻らなかった。警察に保護されて、戻ってきた。今は、母親と話をしない。妻は、ノエルを今でも信じている』
智恵は書類の文字を、目で追うことができなくなった。
「ひまわりさんの息子さんは、あの夜部屋から出てきて、謝ったと」
「そう書かれていましたか」
担当者は頷いた。
「謝罪があったのは、事実のようです。ただ、そのあと母親がさらに距離を取ったことで、状況が悪化した、と」
智恵はあのときの自分の高揚を思い出していた。ひまわりが泣きながら感謝を書いてきた夜。一万円のギフトを受け取った夜。
救ったのだと思っていた。
救われたように見えた瞬間に、別の傷が同じ速さで広がっていたのだ。
「結果がどう続いたかも、見てください」
担当者は言った。
聴取が終わったのは夕方だった。智恵は署の玄関を出て、しばらく歩道に立ち尽くした。
帰り道、駅前のスーパーいなほの前を通りかかった。入口の看板には「火曜市」と大きく書かれていた。
智恵は足を止めた。
店に入り、精肉コーナーへ向かった。国産牛の薄切り肉が半額のシールを貼られて並んでいた。以前の智恵が、毎週のように手に取っていたものだった。
パックを一つ手に取った。ラップに映る自分の顔は疲れていて、化粧もしておらず、どこにでもいる主婦の顔だった。
それが不思議と嫌ではなかった。
レジで財布から小銭を数えて支払った。店員は顔も上げずに「ありがとうございます」と言った。
智恵はその言葉を背中で聞いた。名前もない定型の挨拶だった。誰かに向けた嘘でも、誰かを操る言葉でもない、ただのありがとうだった。
第60話 必要だと言われたかった
結衣は週に一度、スクールカウンセラーと話すようになった。
最初の三回は、ほとんど何も話せなかったという。四回目に、スマートフォンを見せながら「この人に、必要だと言われた」と伝えた。五回目には、その言葉が嬉しかった自分を責めていることを話した。
家でも、回復は一直線ではなかった。
夜中に目を覚まし、窓の鍵を何度も確かめる日があった。知らない男の人の声が駅のホームでふいに近づくと、足がすくんで、途中の駅で降りてしまったこともある。
智恵は迎えに行った。「大丈夫?」とは聞かなかった。
「帰ろうか」
そう言って、隣を歩いた。
ある夜、結衣が自分から話した。
風呂上がりの濡れた髪のまま、台所の入口に立っていた。智恵は洗い物の手を止めずに、背中で聞いた。
「私お金が欲しかったのも、本当だよ」
「うん」
「寂しかっただけってことにしたら、私がかわいそうな子で済むでしょう。でも、あの封筒が増えていくのが、嬉しかった。友達より、大人になった気がした」
「うん」
「軽蔑しないの?」
智恵はすぐには答えなかった。水道の水を止めてから、振り返った。
「怖かったし、悲しかった。でも、軽蔑して終わりには、したくない。私も、お金をもらって、自分が特別になったと思っていたから」
結衣は黙った。それから「似てるね、私たち」と言った。
智恵は否定しなかった。慰めの言葉も探さなかった。台所の灯りの下で、濡れた髪から水滴が落ちるのを見ていた。
似ているという言葉は、智恵を安心させなかった。けれど結衣は、その何かを自分の言葉にして、母親の前に置いた。
「おやすみ」
結衣はそう言って、自分の部屋へ戻った。
「おやすみ」
智恵は閉まっていくドアの隙間に、短く返した。
その週末、結衣は机に向かって一通の手紙を書いた。
便箋を何枚も破り、書いては丸め、ようやく一枚にまとまった。それを封筒に入れて、智恵に差し出した。
「これ小野寺さんに。お母さんと、一緒に行ってほしい」
「いいの?」
「私が行く」
日曜の午後、二人は小野寺さんの家の前に立った。結衣は門柱の前で足が止まった。表札の墨の字を、じっと見ていた。
「ここだったね」
「うん」
「入れない」
「入らなくていい。手紙を、渡すだけでもいい」
結衣は深呼吸をして、インターホンを押した。
引き戸が開き、小野寺さんが顔を出した。結衣の姿を認めて、一瞬、表情が揺れた。
結衣は両手で封筒を差し出した。
「あの私……この前のこと、ごめんなさい。ごめんなさいじゃ、足りないけど、書きました」
声が震えていた。頭を下げたまま、動かなかった。
小野寺さんはしばらく何も言わなかった。やがて手を伸ばして、封筒を受け取った。
「字きれいね」
「え」
「あの日も、思ったのよ。ちゃんとした字を書く、いい子だって。……騙された私が、悪かったの」
「違います」
結衣は顔を上げた。
「悪いのは、私です。分かってて、やめなかったから」
小野寺さんは封筒を胸の前で、両手で包んだ。
「読ませてもらうわね。返事は、書けないかもしれないけど」
「はい」
「それでも、来てくれたことは、忘れませんよ」
結衣は深く頭を下げた。肩が小刻みに揺れていた。智恵はその背中のそばで、手を伸ばさないよう拳を握っていた。
帰り道、結衣は前を向いたまま言った。
「許してもらえたわけじゃ、ないよね」
「そうね」
「でも字きれいって言われた」
「うん」
結衣は息を吸って、吐いた。涙はもう出ていなかった。
一週間後、家庭裁判所から書類が届いた。
審判の日程が、封筒の中の紙に無機質な文字で書かれていた。和彦はその紙を食卓の上で、長いこと眺めていた。
「俺が一緒に行く」
「会社は」
「休む。今度は、どうせなら、全部行く」
結衣は紙を見て、小さな声で言った。
「お父さんも、来るの」
「行く」
「……サッカーの試合には、来なかったのに」
和彦は一瞬、言葉を失った。それから唇を噛んで、頷いた。
「そうだな。今度は、行く」
結衣は何も言わなかった。けれどその夜、食卓で初めて、和彦の皿から卵焼きを一切れ、自分の箸で取った。
第61話 私がやったほうが早い
和彦は会社へ事情の一部を説明し、当面、残業と休日出勤を減らした。
家事を始めたが、最初からうまくできたわけではなかった。洗濯物を色移りさせ、味噌汁を濃くし、結衣の制服にアイロンを当てすぎた。
失敗するたびに「やっぱり、智恵がやったほうが早い」と言いかけた。
ある日、智恵はその言葉を聞いて、布巾を置いた。
「私がやったほうが早いことと、私だけがやることは、同じじゃない」
和彦は反論しかけて、焦げたシャツを見て息を吐いた。
「分かった。もう一枚、練習する」
九月の終わり、学校から再び、三者面談のプリントが届いた。
智恵はそれを食卓に置いた。丸をつける日程の欄は白いままだった。
結衣はプリントを手に取った。
「……来て、くれるの」
「行く。仕事は、休む」
和彦が先に答えた。
「お母さんも」
「もちろん」
結衣はプリントの日程の欄に、ペンで丸を一つつけた。
当日、教室の机を挟んで、担任の先生と向かい合った。結衣は真ん中に座って、膝の上で指を絡めていた。
先生は三人の顔を、順番に見た。
「結衣さんのことは、大変なことがあったと、伺っています。まず、ご家族が、揃っておいでくださったこと、ありがたく思います」
「いえ」
和彦は背筋を伸ばして答えた。
「結衣の話を、聞かせてください。成績の話よりも先に」
先生はわずかに目を見開き、それから穏やかに笑った。
「結衣さんは、国語の時間に、いつもいい感想を書きます。人の気持ちを、すごくよく見ている。ただ、自分のことになると、手を止めてしまうんです」
結衣は唇を引き結んだ。
智恵は横でその話を聞いていた。結衣のことなのに自分のことを言われているようで、胸のどこかが小さく疼いた。
夫婦の関係も、元通りにはならなかった。
智恵がノエルとして隠していたお金や、和彦が長年繰り返した無関心は、一度の謝罪で消えるものではなかった。二人は月に二度、家族の相談を扱うカウンセラーのもとへ通った。
その部屋で、カウンセラーは二人に一枚の紙を渡した。
「ご自分が、いちばん言いたいことを、書いてみてください。相手に渡す前に、お互いに、読まなくて結構です」
智恵は長いこと、ペンを持ったまま動けなかった。
画面の向こうではあんなに簡単に、他人の言葉を言い当てられたのに。自分のことになると、何も書けなかった。
結局、紙に書いたのは一行だけだった。
『私を、見てほしかった』
和彦の紙には、こう書かれていた。
『俺の話を、聞いてほしかった』
二人は互いの紙を交換しなかった。ただ、同じ机の上に並べて置いた。
カウンセラーはそれを見て何も言わなかった。しばらくして、頷いた。
「今日はそれで、十分です」
帰り道、二人は並んで歩いた。駅前の商店街に、蝉の声はもうなかった。代わりにぬるい夕風が、アーケードの屋根の下を通り抜けた。
和彦が立ち止まって言った。
「たこ焼き、食うか」
「え」
「昔結衣が小さいとき、よく買っただろ。帰りに」
智恵は少し考えてから頷いた。
二人はたこ焼きの屋台の前に並んだ。ソースの匂いが、胃の奥の忘れていた場所をくすぐった。紙の舟皿に、熱いたこ焼きが六つ乗った。爪楊枝で一つずつ、口へ運んだ。
「熱い」
「熱いな」
同じものを同時に熱いと言えることが、智恵には妙に新鮮だった。
二人は、「離婚しないこと」を最初から答えにはしなかった。
第62話 絶望の淵は、生きていた
十月に入ってすぐ、弁護士事務所から封書が届いた。
差出人を見た瞬間、智恵は開封できなくなった。食卓の端に置き、夕方まで何度もその前を通り過ぎた。
帰宅した和彦が、封筒に気づいた。
「一人で読むか」
「そばにいて。でも、読んでほしくはない」
和彦は向かいの席に座った。
智恵は封を切った。
【絶望の淵】と名乗った佐藤は、生きていた。
あの日、彼は勤め先のビルの非常階段の最上段まで上がっていた。しかしサイトの運営から緊急の連絡を受けた警察官と、異変に気づいた同僚が、間に合った。保護されたとき、彼はスマートフォンの画面に、ノエルの返信を開いたままにしていたという。
運営への通報は複数あった。サイトの利用者たち。そして、ノエル本人のアカウントから。手紙には、そのことが明記されていた。
智恵はその一文を、何度も読んだ。
ノエル本人のアカウントから。
自分が押したあの小さなボタンが、佐藤の一歩を止める何かのひとつだったかもしれない。そう思うと、胸のどこかが解けかけた。けれど次の行を読んだとき、その感情はすぐに凍りついた。
『ノエルの返信は、私を救ったのではない。むしろ、最後の一歩を踏み出させかねない言葉だった』
佐藤は治療を受けながら、弁護士を通じて横領の疑いと向き合っていた。由香里の録音された供述によって、資料が不正に操作されていたことが明らかになりつつあった。ただし、名誉の回復も生活の立て直しも、まだ途中だという。
手紙の最後に、佐藤本人の言葉が添えられていた。
『あなたの事情は、警察から聞きました。脅迫されていたことは、理解しました。しかし、私は今も、あなたの文章を思い出すと、眠れなくなります』
『あなたを許したとは、書けません』
『ただ、私も、生きます。あなたも、許されたことにせず、生きて、責任を負ってください』
智恵は便箋を置いた。
泣けば自分が楽になる気がして、泣くことさえためらわれた。
「生きていた」
智恵はそれだけ口にした。
和彦は慰めず、手も握らなかった。ただ、智恵が手紙を畳み終えるまで同じ席にいた。
廊下の暗がりに、結衣が立っていた。眠れずに、水を飲みに出てきたらしかった。
「それ何の手紙」
智恵は隠さなかった。
「お母さんが、死んでほしいって書かされた人から。生きてたの」
結衣は少しの間、黙っていた。
「そっか」
そう言って椅子を引いて、智恵の隣に座った。
「よかった、って言っていいのかな」
「いいと思う。でも、お母さんは、まだ言えない」
「うん」
結衣はテーブルの木目を、指でなぞった。
「私も小野寺さんに、よかったって言えなかった。でも、いつか言えるように、なりたい」
和彦が冷蔵庫から麦茶を出して、三つのコップに注いだ。誰も礼を言わなかったが、誰も手をつけずにはいなかった。
第63話 届かなかった手紙
智恵は弁護士を通じて謝罪の意思を伝え、佐藤の治療や法的手続きへの補償を協議した。返事も、直接会うことも求めなかった。
ノエルとして得たお金は保全され、佐藤の治療費、被害を申し出た人々への補償、ギフトの返金に充てる手続きが進められた。
その夜、智恵は三人の相手への手紙を書こうとした。
嫁に牡丹を枯らされた老婦人。別居しているみかん。息子と話ができなくなったひまわり。
便箋の最初の一行が、どうしても決まらなかった。「お気持ちはよく分かります」と書きかけて、ペンを止めた。ノエルの癖だった。分かると言ってしまえば、相手の痛みが自分のものになったような錯覚が生まれる。
智恵はその一行を線で消した。
何度も書き直した末に、残ったのは短い文章だった。
『あなたの人生に、私の言葉で、取り返しのつかない影響を与えました。申し訳ありません。あなたを救うことは、私にはできませんでした。私は、あなたの味方でも、神様でもありません。ただ、自分のしたことの責任を、これから、負っていきます』
智恵はそれを三枚書き写した。返事は求めなかった。
投函する前、智恵は一度だけ封筒に額を押しつけた。宛名の文字がにじんで見えた。
家に帰ると、台所では和彦が味噌汁の鍋の前に立っていた。
「味見てくれるか」
差し出された小皿に、智恵は唇をつけた。
「少し濃い」
「そうか。もう一回、やり直す」
和彦はお湯を足しながら、湯気の向こうで小さく笑った。笑った、と智恵には見えた。確かめるように、もう一度その顔を見た。
夫の笑顔をこんなにゆっくり見るのは、何年ぶりのことだっただろう。




