第12章:名前を呼ぶ家
第64話 頼まれたことだけをする
秋が深まる頃、日高家の朝は少し早く始まるようになった。
和彦が味噌汁を作り、智恵が弁当を詰める。結衣は自分の水筒に麦茶を入れる。
「お母さん、卵焼き少なめでいい」
「分かった」
智恵は理由を尋ねず、一切れ減らした。好みに合わせることを愛情だと思い、受け取られなければ傷ついていた頃とは違う。頼まれたことだけをする日があってもいい。
結衣の部屋のドアは、開いている日も閉じている日もあった。「ドアは開けておく」という決まりは作らなかった。夜中にドアの下から細い光が漏れていても、智恵はノックをしない。前を通るとき、足音を少しだけゆっくりにした。誰かが起きていると知らせるために。
短い言葉にも、名前を添えるようにした。
「結衣、おはよう」
「智恵、先に出る」
「お父さん、お弁当忘れてる」
最初のうち、和彦は「智恵」と呼ぶたびに目をそらした。結衣も「お母さん」の後ろに名前をつけようとして、口の中で言葉を転がした。慣れるまでにひと月かかった。慣れたあとも、呼ばれた名前に胸が痛むことがある。ノエルと崇められた夜々、本当は誰かにただ智恵と呼ばれたかったのだと、智恵は知っていた。
夕食のとき、和彦が箸を止めた。
「智恵、このほうれん草、少ししょっぱくないか」
「あなたが醤油をかけたからでしょう」
「……そうか」
結衣がふっと息を漏らした。笑ったのかもしれない。
和彦は醤油差しを食卓の端へ寄せ、「結衣、そっち取ってくれ」と言った。
結衣は「自分で取りなよ」と言いかけて口を閉じ、醤油差しを和彦の手に握らせた。
智恵が十五年、黙ってやってきた動作だった。
第65話 全部元通りにしなくていい
結衣は学校へ戻ったが、元の生活には戻らなかった。部活は退部し、仲のよかった友人の一人とは距離ができた。噂を耳にして教室に入れず、保健室で過ごす日もある。週に三日は教室へ行き、残りの日は別室で課題を進めた。
「全部元通りにしなくていいって、先生が言ってた」
夕食のとき、結衣が言った。
「これからどうするかを決めるんだって」
十月の最初の週、水野さんから智恵に電話があった。
「結衣さんが話してくれた『リク』と名乗っていた男の身柄が確保されました。二十九歳で、大学生ではありません。白い軽自動車も、同じ組織が使っていた車でした」
結衣には聞きたいかどうかを本人に確かめてあげてください、と水野さんは付け加えた。
その夜、智恵は結衣の部屋のドアの前に立った。
「結衣。水野さんから連絡があったの」
ドアが少し開き、結衣が廊下の暗がりに半分顔を出した。
「リクのこと?」
「捕まったって。二十九歳だったそうよ」
結衣はしばらく黙っていた。
「年、嘘だったんだ。十九って言ってた」唇を噛む。「私、バカみたい」
「バカじゃない。あの人は結衣がいちばんほしい言葉を正確に選んだ。才能じゃなくて、手口だった」
「お母さんも、そうだった?」
智恵は答えを探した。
「そうだった。ほしい言葉を言ってくれる人たちに囲まれたかった。それを私はノエルとして、他の人たちに与えてた」
結衣はドアを開けた。
「入る?」
「いいの?」
「ちょっとだけ」
壁のアイドルのポスターはなくなり、机の上には小さな観葉植物の鉢が置かれていた。二人はベッドの端と机の椅子に離れて座り、十分ほど何も話さなかった。
「もういいよ」
「うん。おやすみ、結衣」
「おやすみ、お母さん」
別室に通い始めて二週間が過ぎた頃、結衣はリュックから折りたたんだ紙を出して食卓に置いた。
「ロッカーに入ってた」
紙には丸っこい文字で、『また、話そ。ミナ』とあった。
「同じクラスの子。話したこと、ほとんどないんだけど」
「返事は?」
「まだ。何て書いていいか、分かんない」
智恵は「こう返したら」とは言わなかった。言葉はいくらでも浮かんだが、それは結衣の手紙ではなく、自分の手紙になってしまう。
「うれしい?」
「うれしい。……こわい、けど」
「うん」
「でも、返事は書く」
十月の第二週、審判の日が来た。和彦はネクタイを三回結び直し、智恵は結衣のブラウスに丁寧にアイロンを当て、結衣は玄関でスニーカーの紐を何度も結び直した。
家庭裁判所は思っていたより静かで小さかった。廊下の長椅子に三人で並んで座る。
「緊張する」と結衣が言った。
「私も」
「俺もだ」
結衣が口元を少しだけ緩めた。
審判の部屋は小さな会議室のようだった。裁判官は柔らかい声の五十代の女性だった。結衣は自分の言葉で話した。リクと出会ったこと。最初は優しかったこと。何を運んでいるのか分かりかけていたのに、やめられなかったこと。声は途切れたが、最後まで嘘を言わなかった。
「小野寺さんに手紙を書いたそうですね。どうして書こうと思ったんですか」
「書かないと、自分がなかったことにしそうだったから」
裁判官は頷き、小野寺さんの意見書を読み上げた。
「『あの子を許したとは、まだ言えません。ただ、あの日母親が走ってきてくれたことと、あの子が自分で手紙を持ってきてくれたことは、本当のことだと思っています。どうか、あの子がもう一度、誰かの孫のような顔で笑える日が来るようにしてやってください』」
結衣の肩が大きく震えた。和彦が椅子の背に手を置いた。触れはせず、ただそこに置いた。
決定は保護観察だった。家庭で暮らしながら、定期的に面接と指導を受ける。
「簡単には終わりません。これからが、あなたの本番です」
裁判官にそう言われ、結衣は頷いた。涙が膝に落ちた。
帰りの廊下で、結衣が立ち止まった。
「お父さん、来てくれてありがと」
和彦は言葉にならず、深く頷いて娘の頭へ手を伸ばしかけた。結衣はその手を避けなかった。
第66話 いい父親にならなくていい
和彦は週末、地域の子ども向けサッカー教室を手伝い始めた。贖罪のために突然善人になったわけではなく、最初の二回は疲れて帰り、家で機嫌が悪かった。三回目の前日、結衣が言った。
「無理していいお父さんやらなくてもいいよ」
「そう見えるか」
「ちょっと」
「じゃあ、月二回にする」
ある土曜、智恵は結衣と校庭の隅にビニールシートを敷いて座り、教室を眺めた。和彦は小学生に囲まれ、ボールの蹴り方を不器用に教えていた。「コーチへたくそ」と笑われて、「うるさい」と言いながら笑っている。
「お父さん、あんな顔するんだ」
「昔はしなかったね」
「小学生のとき、試合見に来てほしかった」
「知ってる」
「お父さんも、知ってる」
「うん」
「今見てるから、まあいいや」
結衣は膝に顎を乗せたまま、笑ったようだった。その笑顔はすぐに消えたが、引き留める必要はなかった。
十一月の初め、結衣宛てに封書が届いた。差出人は小野寺ふみ。結衣は封筒を持ったまま、しばらく開けられなかった。
「今読む。一緒にいて」
智恵は隣に座った。結衣が震える指で封を切る。便箋は一枚きりで、濃い青のインクの丁寧な字が並んでいた。
『結衣さん。お手紙、読みました。字が、きれいでした。
返事は書かないつもりでしたが、気が変わりました。
お金のことは、まだ気持ちの整理がつきません。でも、あなたがあの日、私の前に立ったことを、ずっと忘れることはないと思います。
来春、庭の梅が咲きます。もし気持ちが向いたら、お茶を飲みに来てください。お菓子はいりません。
小野寺ふみ』
結衣は手紙を膝に置いた。
「行っていいのかな」
「行っていい、とは書いてない。気持ちが向いたら、って。その日は結衣が決めて」
結衣は便箋を畳んで封筒に戻し、胸の前で両手で包んだ。その夜、手紙は机の引き出しにしまわれた。ミナへの返事の便箋が、その隣に一枚だけ置いてあった。
第67話 答えを渡さない仕事
智恵は地域の図書館で、週三日の仕事を始めた。返却本の処理、書架の整理、子ども向け行事の準備。誰かの人生に答えを与える仕事ではない。
「日高さん、この棚をお願いできますか」
「はい」
日高さんと呼ばれるたびに、智恵は足が床についているのを確かめた。失敗すれば注意され、作業が遅ければ同僚に助けてもらう。かつて最も恐れた平凡さだった。
先輩司書の杉本さんは十歳ほど年上の物静かな人で、智恵が返却本を逆の棚に戻しても怒らず、一緒に正しい場所を探してくれた。昼休みに、前は何をしていたのかと尋ねられた。
「専業主婦です。長い間。……いろいろありました」
「そう。ここは本を探す場所だから。人の事情は、棚に収まらないくらいあるの。無理に整理しなくていいのよ」
ある午後、目の下に濃いクマのある四十代くらいの女性が、カウンターに近づいてきた。
「あの、夫との関係で悩んでいて。相談に乗ってくれる本って、ありますか」
智恵は一瞬、息を止めた。かつて何百人もの女性から、同じ種類の目を向けられた。
「私は専門家ではありません。あなたの状況に合った答えは、お渡しできません。本はご案内できます。それから、地域の相談窓口の連絡先もあります。女性の相談員さんが、お話を聞いてくれる場所です」
引き出しから小さなリーフレットを出し、女性の手に載せた。
「急がなくていいと思います。気が向いたときに、一度見てみてください」
去っていく背中を見送った。答えを渡さなかったのが正しかったのかは分からない。ただ、渡さなかったことを、今は自分の選択として持っていられた。
第68話 まだ、あの味を覚えてる
十一月の風の強い夜、眠れずに台所で麦茶を飲んでいると、スマートフォンにニュースアプリの通知が届いた。「夫婦関係の悩みに寄り添う相談掲示板が人気」。無意識に開いた記事に、見知らぬ女性の投稿があった。
『夫が、私のことを、いないものとして扱います。私は、この家で、何なのでしょう』
返信は一件もない。
智恵の指が止まった。書けばすぐに届く。この女性がいちばん言ってほしい言葉を、智恵はまだ持っていた。何百回も使い込んだ文体の筋肉が、指の中で目を覚まそうとしている。
返信欄を開くと、カーソルが点滅した。
『はじめまして。あなたが本当に』
そこまで打って手が止まった。冷蔵庫のモーターが低く唸り、風がサッシを鳴らす。智恵は文字を一字ずつ消し、画面を閉じてスマートフォンをテーブルに伏せた。喉が乾いていた。腹の底で、飢えに似たものがかすかに鳴っている。
足音がして、寝間着姿の和彦が台所の入口に立っていた。
「眠れないのか」
「うん」
和彦は食器棚からコップを出し、麦茶を注いで向かいに座った。
「今、書きそうになった。知らない人の悩みに、答えを。あの頃みたいに」
「書いたのか」
「消した」
「そうか」
「怖かった。まだあの味を覚えてる」
和彦は息を吐いた。
「俺もあるよ。仕事で人を押さえつけたとき、あの気持ちよさを思い出す」
「同じかもしれない」
コップの氷が、からん、と鳴った。
翌週、智恵は久保先生にもらった名刺の番号に電話をかけた。紹介された地域の相談機関の小さな面談室で、最初の三十分はほとんど何も言えなかった。カウンセラーは急かさなかった。
「分からない、で大丈夫です」
「私、ありがとうって言われたかったんだと思います。ずっと」
「そうでしたか」
「それがあんなに簡単に手に入ると思わなかった。顔も知らない人たちから。そしたら、足りなくなったんです。いつまでも」
「あなたが特別に弱かったからではないと思います。多くの人が似たものを抱えています。ただあなたは、それを手に入れる方法を見つけてしまった」
「それがいけなかった」
「方法がいけなかった。欲しかったことは、いけなかったわけではありません」
頬を涙が伝っているのに、そのとき初めて気づいた。拭おうとしてやめた。誰かに「素敵だ」と言われるためでも、何かを書くためでもなく、ただ泣いた。
山下由香里の裁判が始まった。由香里は治療を受けながら司法の手続きに向き合うという。智恵は弁護士を通して必要な供述をし、傍聴には行かなかった。
ある夜、結衣が尋ねた。
「あの人のこと、かわいそうだと思う?」
「苦しかったんだと思う。でも、苦しかったことと、したことの責任は別だと思ってる」
「お母さんも?」
「うん。私も」
「私もだね」
「でも、十四歳のあなたと大人の責任を、同じにはしない」
結衣は不満そうに眉を寄せ、それから小さく笑った。笑顔が消えたあとも、智恵は台所の灯りをすぐには消さなかった。




