番外編:狂い咲きの独白
第69話 救われた
白い病室で由香里は、一日の大半を窓の外を眺めて過ごした。
窓には細い格子が嵌められていた。その向こうに見える空は狭く、雲が横切るたび、世界だけが自分を置いて進んでいくように感じられた。
治療者は由香里に、何度も同じ問いをした。
「ノエルの言葉を読んだとき、何を感じましたか」
由香里は長い間、「救われた」と答えていた。
決まった時間に運ばれてくる食事。決まった時間に呼ばれる面談室。決まった時間に消える灯り。時間が整っているほど、由香里の中の空白はくっきりと形を持った。
面談室の椅子は背もたれが低く、床に固定されていた。治療者の女性は髪を短く切った四十代の人で、名札には「松浦」とあった。由香里はその名前を、最初の一週間、一度も呼ばなかった。呼べば誰かが、自分の手の届くところに存在してしまう気がしたからだった。
「山下さん」
松浦は由香里を、いつもそう呼んだ。
「由香里さん」と呼ぶ人を、由香里は一人だけ知っていた。
その人はもう、その名前を呼ばない。
そう思うたびに、窓の外の空がほんの少し狭くなった。
第70話 「ありがとう。助かってるよ」
由香里が勤めていた食品卸の会社は、駅から歩いて十分の、灰色のビルの三階にあった。
経理課は窓のない奥の部屋で、蛍光灯の白い光の下、八つの机が向かい合って並んでいた。由香里はそこで五年、伝票を処理した。
「山下さん、これお願い」
「ねえあれ、どこだっけ」
「悪いこれ、今日中に」
課の人間は由香里の名前を、呼んだり呼ばなかったりした。名前を呼ばれない日が一週間続いたこともある。気づいたのは、誰かの結婚祝いの寄せ書きが回ってきたとき、自分の名前だけが一行目の余白に、あとから手書きで足されていたからだった。
由香里はその字を長い間見つめた。
自分はその色紙に必要なかったのだと思った。必要なのは「経理の人」という役割だけだった。
実家の母とは月に一度、電話で話した。
「ちゃんと、ご飯食べてるの」
「うん」
「あんたは、昔から要領が悪いからね。誰かに、頼んでばっかりじゃなくて、自分でしっかりしなさい」
母は悪い人ではなかった。ただ、由香里の話を最後まで聞いたことが一度もなかった。電話を切ったあとに残るのはいつも、言いかけた言葉の手触りだけだった。
由香里はアパートの玄関に座り込んで、スマートフォンの画面が暗くなるのをじっと見ていた。
二十九歳の春、課長として佐藤が着任した。
佐藤は四十代半ばの、丸い顔をした人だった。口調は柔らかく、誰にでも同じ温度で話しかけた。
着任して三週間目の夜だった。
ほかの全員が帰ったあと、由香里は締め作業で一人だけ残っていた。佐藤が部屋の入口に立って、コーヒーの紙コップを机の端に置いた。
「由香里さん」
由香里は手を止めた。
その日まで、誰もそうは呼ばなかった。苗字でもなく「経理の人」でもなく、名前をただ呼ばれた。
「遅くまで、いつもありがとう。助かってるよ」
たったそれだけの言葉だった。
由香里は顔を上げられなかった。喉の奥が熱くなって、紙コップの湯気がじわりとにじんで見えた。
その夜から、世界の輪郭が変わった。
第71話 君だけが僕を分かってくれる
佐藤が「妻とは冷え切っている」と言いはじめたのは、それから三か月後だった。
何度も同じ言葉を聞いた。
「家では会話もない。子どもも、ほとんど、口をきかない」
「離婚はタイミングを見ているんだ。子どもが、大学に行くまで、待ってほしい」
「君だけが、僕を分かってくれる」
二人は人目を避けて会った。会社の近くの喫茶店。遠くの駅の小さなレストラン。佐藤はいつも笑って、最後には「ごめん今日は帰らなきゃ」と言った。
由香里は何も問い詰めなかった。問い詰めれば、名前を呼ばれる夜が一度でも減る気がした。
一年が過ぎ、二年が過ぎた。
昼休みになると、佐藤は非常階段の踊り場へ行って、スマートフォンを見ていた。由香里はある日気になって、遠くからその画面を覗いた。
匿名の、悩み相談の掲示板だった。
『ココロの隙間』。
その夜、由香里は自分の部屋でそのサイトを開いた。
画面に並んだ、見知らぬ人々の痛み。その中に一つの名前が、何度も現れた。
『ノエル』。
由香里はその人の回答を、一つずつ読んだ。
夫に無視される主婦への返信。母親に怒鳴られ続けた娘への返信。どれも短く、静かで、ひりつくほどに正確だった。誰にも言えなかった言葉を、そのままの形で摘み出して見せてくれた。
由香里は読みながら、声を出さずに泣いた。
自分の痛みに、名前をつけてくれる人がいた。
その人の言葉は、佐藤の「由香里さん」よりも深く胸に届いた。名前を呼ばれるだけでは足りなかった。自分がなぜ苦しいのかを、言葉にしてほしかった。
掲示板を遡るうちに、由香里はある投稿者の名前に目を留めた。
『絶望の淵』。
その人物は半年前から、何度も同じ種類の悩みを書き込んでいた。『妻に、嘘をついている』『誰にも、本当のことが言えない』『非常階段で、昼休みに、これを書いている』。
非常階段。
由香里は指を止めた。
さらに遡ると、一年前の投稿にこう書かれていた。
『妻は、優しい人だ。申し訳ないと、毎日思う。それでも、別の人と会うことを、やめられない』
冷え切っているとは、どこにも書かれていなかった。
家では会話もない、とも。
由香里は画面を長いこと見つめた。涙も出なかった。ただ、自分が信じていた二年間が、薄い紙のようにすっと透けていくのを見ていた。
由香里はノエルのすべての回答を、ノートに手で書き写した。余白に小さく感想を書いた。『正しい』『正しい』と、何度も。
そして、ある六月の終わりの夜、勇気を出してダイレクトメッセージを送った。
第72話 だから、神様を守った
ノエルの返信は短かった。
『その男性は、あなたと結婚する気など、さらさらありません。あなたを、都合のいい逃げ場として、利用しているだけです』
痛かった。痛いからこそ、本当だと思った。
由香里はその言葉を三日間、胸に抱えて眠れなかった。返信の続きを何度も読み返した。
『彼の奥様に、匿名で、二人の関係を知らせなさい』
それが愛の試練だと、ノエルは書いていた。
本当に愛しているなら、彼は妻と別れて自分の元へ来る。逃げるなら、それまでの男だった。
由香里はその通りだと思った。
夜明け前に、由香里は佐藤の妻のSNSを探し当て、二人で撮った写真をまとめて送った。
画面に「送信完了」の文字が出たとき、世界の割れる音を聞いた気がした。
翌日、佐藤は出社しなかった。
その翌日、人事から由香里に呼び出しがあった。社内の風紀に関する聞き取りだった。結論が出るまでの自宅待機を言い渡された。
その夜、由香里のもとに一通のメッセージが届いた。佐藤の妻からだった。
『あなたの名前を、初めて知りました。山下由香里さん。主人は、あなたの名前を、一度も、口にしませんでした』
由香里はその文字を何度も読み返した。
一度も、口にしなかった。
二年間「由香里さん」と呼び続けた男が、家ではその名前を一度も言わなかったのだ。
由香里は画面を閉じて、その夜、初めて声を出して泣いた。誰に向けた涙なのか、分からなかった。
佐藤はのちに課長を外され、地方の営業所へ異動になった。
最後に会ったのは、由香里が自宅待機に入る前の日、会社の最寄り駅のホームだった。佐藤は由香里を見ると、顔をこわばらせた。
「お前のせいだ」
低い声だった。
「お前があんなことをしなければ、全部うまくいってた」
由香里はその言葉を聞いた。聞いて、聞き返した。
「うまくいってた?」
「家も仕事も、全部だ。お前さえ、いなければ」
彼は由香里を指さした。
その指の震えを、由香里は一生忘れないだろうと思った。
由香里は何も返さなかった。電車が来て、佐藤は一度も振り向かずに乗り込んでいった。
その夜、由香里はノエルに何も報告しなかった。ノエルが間違っていたと認めれば、その言葉に従った自分の人生まで、間違いになるからだった。
だから、神様を守った。
第73話 ノエルの正体
由香里は佐藤を壊したいと思いはじめていた。
けれど、その手段を持っていなかった。ただ、経理の端末へのアクセス権だけは、まだ手元に残っていた。自宅待機が正式に始まるまでの、わずかな時間だった。
由香里はその翌日の一日をかけて、存在しない取引先への支払いをいくつも作った。承認印には佐藤のものを使った。一件ずつ、金額を小さく設定した。自分が会社を去ったあと、数か月して監査が入れば辿り着くように。
作業をしながら、由香里は自分が何をしているのか分からなくなる瞬間があった。けれど手は止まらなかった。
自宅待機の最初の週から、由香里はノエルを探しはじめた。
サイトのノエルの投稿を、すべて読んだ。文体。語彙。出てくるわずかな生活の描写。「近所のスーパーの半額」「ベランダのアジサイ」「雨の日の洗濯物」。
ある日、ノエルが雑談スレッドに、紅茶とアジサイの写真を投稿した。
由香里はその写真を拡大した。背景のガラス戸の隅に、白い看板が映り込んでいた。看板の文字は半分しか読めなかった。「さくら」。
由香里は地図アプリを開いた。市内の、「さくら」を名前に含む店や医院をすべて調べた。「さくら歯科」は三軒あった。そのうち向かいに五階建てのマンションが建っているのは、一軒だけだった。
ヴェルデ桜ヶ丘。
由香里はその建物を見上げた。五階の端の部屋のベランダに、紫のアジサイが雨に濡れて揺れていた。
その夜、由香里は二階の空き室のマンスリー契約の申し込みを済ませた。
鍵を受け取った二〇七号室はがらんとして、壁紙の隅に、前の住人の日焼けの跡が残っていた。
由香里は床に畳んだ布団を置き、小さな折りたたみの机を広げた。壁に、印刷したノエルの回答を一枚ずつ貼っていった。
暗くなると、窓の外に駐車場の街灯が白く灯った。その向こうに、本棟の五階の窓が並んでいた。
由香里は明かりのついた窓を、一つずつ数えた。誰かがあの部屋のどこかで、誰かの名前を呼んでいるのだろうか。
そう思うと、胸がじわりと痛んだ。痛みの理由を、由香里はまだ知らなかった。
会えるのだ、と思った。会えるはずだと。
自宅待機は三週間で終わった。由香里は自分から退職願を出し、その日から完全に、窓辺の人になった。
由香里は毎日、窓からノエルを見た。ママチャリでスーパーへ向かう背中。両手に買い物袋を提げて戻ってくる姿。ベランダの洗濯物。夜遅くまで灯りの消えない、五階の端の窓。
エントランスで一度だけ、声をかけた。
「五階のベランダのアジサイ、いつも下から見ていたんです」
智恵は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、由香里がずっと見たかったもののはずだった。けれど胸の中には、なぜか小さな棘が刺さった。
その人が、ただの疲れた主婦に見えたから。
自分と同じ空洞を持つ女が、人々を跪かせている。その事実に由香里は歓喜した。そして同じ強さで、裏切られたと思った。
第74話 世界を一緒に憎んでくれる声
やがて智恵は変わりはじめた。
金を稼ぎ、上等な服を着て、高級食品店で買い物をした。優しい聖母の言葉を使うようになった。
由香里はその背中を尾行しながら思った。
自分が愛したのは、救いではなかった。
世界を、一緒に憎んでくれる声だった。
その声が人々を優しく抱くようになった。もう自分の側にいてくれない気がした。
だから、削ろうと思った。余計なものを。聖母の仮面を。金の匂いを。そうして、あの夜の、静かで鋭いノエルに戻ってほしかった。
ポストへ花を投げ入れたとき、由香里は泣いていた。
あの夜ジップロックに入れた花弁は、由香里が自分で摘んで、乾かさずに袋に閉じ込めたものだった。腐りかけていくのを、機械のように見つめていた。
「嘘に心を痛めています」。あの一文は、佐藤に向けて書きたかった言葉だった。
娘の写真を撮ったのは、偶然の重なりだった。月曜の昼前、智恵を尾行している途中で、駅前のコンビニの近くを通った。結衣が白い軽自動車の男と話しているのを、由香里はそこで見かけた。
不審に思って、結衣のあとをつけた。結衣が入っていったのは、住宅街の古い家だった。玄関で老女から紙袋を受け取る場面を、由香里は撮った。知らない子どもが知らない大人に利用されていることが、すぐに分かった。
由香里はその写真を、脅しの道具にした。
そのとき、胸の奥で小さな声がした。
あなたは、あの子と同じことをしている。
それでも由香里は止まらなかった。止まれば、また名前を呼ばれない白い部屋に戻ることになる。
佐藤の件を智恵にやらせようと決めたのは、その少しあとだった。
手を汚したくなかったからではない。神様に、自分と同じ側に立ってほしかった。人を壊す言葉を、ノエル自身の口から言わせたかった。
あの日、正午に、佐藤が非常階段の踊り場でスマートフォンを開くことは知っていた。毎日同じ時間に、同じ場所で。
由香里は窓辺で、画面を見つめていた。
ノエルの返信が画面に現れた。
そして数分のうちに、削除された。
由香里は思った。なぜ、消すの。
その夜、由香里は佐藤の家の近くまで足を運んだ。病院から戻る佐藤が、奥さんに支えられて歩いていた。
由香里は自分が何に一番怒っているのか、分からなかった。佐藤が生きていたことなのか。ノエルが通報したことなのか。それとも、自分がそのどちらにも安堵していることなのか。
第75話 神様のいない世界
屋上で智恵に「さようなら、山下さん」と言われた日から、由香里の中で何かが壊れた。
その後の面談で、松浦は同じ問いを繰り返した。
「ノエルの言葉を読んだとき、何を感じましたか」
由香里は長い間、「救われた」と答えていた。
ある日の面談で、由香里は初めて「救われた」の代わりに、別の言葉を口にした。
「使いたかった」
松浦はペンを止めた。
「何をですか」
「ノエルを。私は、ノエルを使って、佐藤を罰したかった。自分で決めたと言うのが、怖かったから」
言葉にした途端、胸の中に空白が広がった。
都合よく答えを置いてくれるノエルは、もういない。
「名前を呼ばれたかった、とも思います」
由香里は小さな声で続けた。
「佐藤が由香里さんって呼んでくれた夜が、ずっと忘れられなくて。その夜に戻れるなら、何でもできると思ってた」
松浦は頷いた。
「今この部屋で、あなたの名前は、何と呼ばれていますか」
「山下さん、です」
「それは嫌ですか」
由香里は考えた。
「嫌ではない」
意外な答えだった。名前を呼ばれることが必ずしも救いにも罰にもならないことを、由香里はそのとき初めて知った。
その前の週、由香里の弁護人が面会室で、一枚の紙を読み上げた。
日高智恵の供述書の、一部だった。
『私は、山下由香里さんの人生に、取り返しのつかない影響を与えました。あの方が、私や家族を脅し、他の方を追い詰めた責任まで、私が代わりに負うことはできません。けれど、私の言葉が、あの方の判断を煽ったことは、事実です。私は、それを、軽く考えません』
由香里はじっと聞いていた。
「あなたを責める内容では、ありませんよ」
弁護人が言った。
「ただあなたに、事実として、伝えておきたかった」
由香里は膝の上で指を絡めた。
責められたかった、と思った。徹底的に悪人として断罪されたかった。そうすれば、自分の人生の輪郭がはっきりする気がした。
けれど、その紙の中の智恵は由香里を、悪人としても神様の信者としても扱っていなかった。ただ一人の人間として扱っていた。
その扱いがいちばん耐えがたく、いちばん救いに近かった。
その翌週、実家の母が面会に訪れた。
遠い県から電車を乗り継いで来たのだと、受付の人がそっと教えてくれた。ガラスの向こうの母は、思っていたより小さく見えた。
母はしばらく何も言わなかった。口を何度も開きかけては閉じた。
「……ご飯、食べてるの」
いつもの決まり文句だった。
「うん」
「そう」
会話はそこで終わるはずだった。けれど母は席を立たなかった。
「あのね由香里」
由香里は顔を上げた。
「お母さん、あんたの話を、ちゃんと、聞いたこと、なかったね」
由香里は息を呑んだ。
「今から聞かせてくれる? 何でも、いいから。途中で、口を挟まないから」
由香里は長い間、唇を噛んでいた。それから頷いた。
最初の一言は、思うように出てこなかった。「会社が」と言いかけて止まった。「寂しかった」と言いかけて止まった。
母は急かさなかった。ガラスの向こうで、ただ待っていた。
由香里はその沈黙の中で、初めて誰かの前で、自分の言葉が出てくるのを待ってもらった。
数日後、松浦が一冊のノートと鉛筆を、机の上に置いた。
「書きたくなったら、書いてください。誰かに、送る必要は、ありません」
由香里は鉛筆を握った。長いこと、白いページを見つめた。
やがて、一行だけ書いた。
『智恵さんへ』
それから先が続かなかった。名前を書いた指が小さく震えていた。「ノエル様」とは、もう書けなかった。
由香里はその一行を消しゴムで消さなかった。ページをそのまま閉じた。
夜、消灯のあとの暗い天井に、由香里は手を伸ばしかけた。
途中で下ろした。
「ノエル様」
呼びかけても返事はない。
その不在に耐えることが、由香里にとっての治療の始まりだった。




