終章:名前のある明日
第76話 一年後
一年後。
山下由香里に、執行猶予付きの有罪判決が下された。保護観察と、専門的な治療の継続が条件だった。
智恵は弁護士からの電話で結果を聞いた。受話器を置いたあと、台所の窓から秋の薄い日差しをしばらく眺めた。
その夜、食卓で短く伝えた。和彦は箸を置き、結衣はご飯をよそう手を止めた。
「そう」
結衣が最初に言った。
「ちゃんと続くんだね。あの人の人生」
「うん」
「私たちの人生も続くのと、同じで」
年相応とは思えない言い方に、智恵は結衣の横顔を見た。結衣は味噌汁のお椀を両手で持ち上げ、息を吹きかけた。湯気が顔を隠した。
「憎むほどの元気は、今はないや。でも、好きにもなれないけど」
「それでいい」
和彦は何も言わず、結衣のお椀に豆腐を足した。
智恵自身は二か月前、自殺教唆の疑いで書類送検され、起訴猶予となっていた。脅迫されていた事情、直後の緊急通報、その後の捜査協力が考慮されたと弁護士は説明した。
「ただ、不起訴は無罪という意味ではありません。書いた事実が消えるわけでもない」
「はい」
通知書は、手紙の束をしまっている引き出しのいちばん下に入れた。
佐藤との補償協議も終わった。横領の疑いは晴れ、別の街で働き始めたという。二人は一度も顔を合わせていない。
協議の最後の日、弁護士が小さな封筒を差し出した。
「佐藤さんから預かりました。読むかどうかは、あなたが決めてください」
夜、一人で封を切った。便箋は一枚だった。
『この春、娘が中学を卒業しました。式の日、家族で写真を撮りました。前の年の春、私は家族の中にいませんでしたが、今はこうしてここにいます。
私は、あなたを許していません。けれど、あなたを憎み続けることにも疲れました。
憎しみを手放すことと、許すことは違います。私は、手放すほうを選びます。
どうか、元気で。 佐藤圭一』
智恵は便箋を折り目どおりに畳んだ。涙は出なかった。手が小さく震えていた。
ひと月後、弁護士から封書がもう一通転送されてきた。差出人は山下由香里。開けるまでに三日かかった。
薄い鉛筆の文字が、便箋にびっしりと並んでいた。
『智恵さんへ。
ノエル様、と書きかけて、やめました。あなたの名前を書いていいのか、まだ分かりません。
私は、あなたに救われたと、ずっと思っていました。治療の中で、少しずつ違うと気づきました。私は、あなたを使いたかった。自分で決めたと言うのが、怖かったから。
あなたの家族を怖がらせたことを、謝ります。許されることではないと、分かっています。
返事はいりません。書かないでください。もし書かれたら、私はまた、それを答えだと思ってしまうから。
由香里』
返事は書かなかった。書かないことが、由香里の望みにも智恵の決意にも合っていた。最後の一字まで読んだ。それが智恵にできる唯一の返事だった。手紙は引き出しの奥へ、ほかの手紙と同じ場所にしまった。捨てることは、まだできなかった。
第77話 自分で選ぶ未来
結衣は中学三年生になった。今も月に二度、カウンセラーと話している。男性の多い電車を避けることがあり、過去を知る同級生と顔を合わせるのを怖がる日もある。それでも自分で選んだ高校を受験すると決めて、机に向かっていた。
秋の夜、リビングの食卓で問題集を広げる結衣に、風呂上がりの和彦がタオルを首にかけたままプリンを差し出した。
「夜食」
「いらない」
「いるよ。糖分がないと頭が回らないって、会社の後輩が言ってた」
結衣は受け取って、スプーンを入れた。
「……おいしい」
「だろ」
「どこの」
「コンビニ」
結衣が噴き出し、洗い物をしていた智恵も笑った。笑いは小さな泡のように台所で弾けて消えた。消えたあとも、空気は少しあたたかかった。
ミナとは、少しずつ親しくなった。放課後、図書室で並んで宿題をしている姿を、智恵は仕事帰りに一度だけ見かけた。結衣は気づいていなかった。二人の間には短い言葉しかなかったが、その空気は静かで軽かった。
春、小野寺さんの庭の梅が咲いた。結衣は三月の終わりに一人で訪ねた。智恵はついていかなかった。結衣がそう決めたからだ。
帰ってきた結衣は、頬を赤くしていた。
「お茶飲んだ。梅の花、見た。小野寺さん、何も言わなかった。ただ『ようこそ』って」
「そう」
「でも帰り際に、『また来週もいらっしゃい』って」
「行くの?」
「行くと思う。お菓子はいらないんだって」
弁償は弁護士を通して続いていた。小野寺さんは受け取るたびに、丁寧な領収書を書いてくれるのだという。許されたわけではない。けれど領収書が一枚増えるごとに、結衣は少しずつ自分の足で立っていった。
夏の終わり、水野さんが日高家を訪ねてきた。リビングのテーブルに紙コップのお茶を置き、四人で座った。
「リクの組織は、先月まとめて摘発されました。結衣さんが提出してくれたやり取りと振り込みの記録が、大きな手がかりになりました。結衣さんと同じように勧誘されていた子どもが、ほかに三人いました。うち二人は、実際に動く前に保護できました」
結衣の目が見開かれた。
「あの日、『別の子が呼ばれるかもしれないから』って言ってくれましたよね。それが現実になりました。結衣さんのしたことの責任は消えません。でも、あのとき自分で選んだことは、確かに誰かを守りました」
「……ほんと、ですか」
「本当です」
結衣は両手で顔を覆った。和彦がティッシュの箱をテーブルの端へ押した。智恵は結衣の背中に手を伸ばして、止めた。
「お母さん、背中、触っていいよ」
智恵はそっと手を置いた。思っていたよりずっと細く、温かい背中だった。肩甲骨の下で、呼吸が浅く速く動いている。あの路地で「触らないで」と言われた背中に、今は触れていた。水野さんは何も言わず、お茶を一口飲んだ。
ある夜、結衣が言った。
「高校行ったら、図書委員やりたい。お母さんの職場、ちょっといいなって思って」
「いいと思う。でも、私の真似じゃなくて、結衣が好きだったら」
「うん。だから、まず見学するよ」
結衣は笑った。その笑顔は、以前より少しだけ長く続いた。
第78話 答えを作らない夫婦
和彦と智恵は、夫婦として暮らし続けることを選んだ。元の関係に戻ったのではない。家事の分担表は何度も書き直され、言い争いもある。和彦が仕事を言い訳にすると、智恵は黙って従わなくなった。智恵が相手の気持ちを決めつけると、和彦は「答えを作らないでくれ」と言った。
結衣の進学先をめぐって、二人が激しくぶつかった夜があった。和彦は偏差値の高い高校を勧め、智恵は結衣が通いたいと言った少し遠い小さな私立を支持した。
「結衣のためを思うなら、環境のいいところを選ぶべきだろう」
「結衣がどこなら息ができるかを、まず聞くべきよ」
「お前はいつも甘いんだ」
「あなたは、いつも先に答えを決めてしまう」
言ってから、智恵は口を押さえた。かつてのノエルのような、断定する口調になっていた。和彦もはっとした顔で黙った。
翌朝、食卓にメモが一枚置かれていた。
『昨日の続き、今夜、話そう。結衣にも聞こう。 和彦』
智恵はそれを冷蔵庫のドアにマグネットで貼った。その夜、三人で話した。結衣が考えをゆっくり話し、和彦は何度も口を挟みかけて唇を噛み、最後まで聞いた。結論はすぐには出なかった。ただ、答えを急がずに話を続ける夜が、家の中にひとつ増えた。
洗濯物を畳みながら、和彦がぽつりと言った。
「この前の、『私がやったほうが早いことと、私だけがやることは同じじゃない』って、あれ効いたな。何度も再生してる」
「私もあなたの言葉をよく思い出すわ。『疲れてるんだよ、俺も』って。あの、チキンカツの夜の」
和彦は手を止めた。
「そんなこと、言ったか」
「言った」
和彦はしばらく考えて、「覚えてない」と言い、苦笑した。
「でも、疲れてたのは本当だ」
「うん」
「聞いてくれて、よかった」
家族相談のカウンセラーのもとへは、今も月に二度通っている。ある日、カウンセラーが一年前に二人が書いた二枚の紙を机に出した。
「今なら、お互いに渡せるかもしれませんね」
二人は紙を取り替え、同時に読んだ。
『私を、見てほしかった』
『俺の話を、聞いてほしかった』
「これ、十五年前に書けてたらよかったな」
和彦が小さな声で言った。
「書けなかったと思う」
智恵は答えた。
「書けなかったから、今書けた」
和彦は紙を畳んで胸ポケットにしまい、智恵も同じようにした。帰りの電車で、二人は並んで座った。窓の外を夕方の街が流れていく。和彦の肩が智恵の肩に触れた。どちらも離さなかった。
第79話 もう答えは求めません
『ココロの隙間』は、一年前に神カウンセラー枠の制度を廃止し、ダイレクトメッセージの機能も閉じた。規模を縮小して残っているらしい。智恵は一度も開いていない。
ノエルの収入として保全されていたお金は、一年をかけてすべての手続きが終わった。佐藤の治療費、被害を申し出た三人への補償、ギフトを送ってくれた人たちへの返金。それらを差し引いた残りはわずかで、智恵は弁護士に、特殊詐欺の被害者を支える団体と子どもの相談窓口へ、半分ずつ寄付したいと伝えた。
「領収書や感謝状は、いりませんか」
「いりません。感謝されたい気持ちが、まだあることは知っています。でも今回は、それを受け取らないことにしたいんです」
手続きが済んだ夜、智恵はゼロに近い通帳の数字を長いこと眺めた。
例外がひとつだけあった。夏の終わりに、弁護士を通じてみかんから短い手紙が届いたのだ。
『ノエルさんへ。
いえ、どう呼べばいいのか、分かりません。
あのとき、あなたの言う通りにして、夫が謝ってくれたことは事実でした。ただ、そのあと、うまくいかなくなりました。今は別居しています。
でも、手紙を読んで気づいたことがあります。私は、あなたの言葉に従っただけでした。自分で決めたわけではなかった。
今、私は自分で決めることにしました。夫ともう一度話し合うのか、離れるのか。どちらでも、自分で決めます。
あなたに、もう答えは求めません。ありがとうございました。』
智恵は台所のテーブルで読み、窓の外を見た。返事は書かなかった。手紙は、引き出しの束の一番上に置いた。
第80話 「あとで聞く」
その日の午後、図書館のカウンターに、制服姿の少女がおずおずと近づいてきた。
「あの、友達がちょっと困ってるみたいで。何か渡せる本って、ありますか」
「友達は、あなたに相談した?」
「いえ。なんとなく、そう見えるだけで」
「じゃあ、本はもう少しあとで選んでもいいかもしれません。その前に『何か手伝えることある?』って聞いてみるのは、どうでしょう」
「それだけで、いいんですか」
「それでいいと思う。答えを探さなくていいの。聞くだけでいい」
少女は「やってみます」と頭を下げて去っていった。後ろから杉本さんが声をかけた。
「今日の日高さん、よかったわよ」
「何もしてません」
「そう。それが、よかったの」
智恵は笑った。誰かに褒められる快感は、かつて毒に変わった。今は小さな温かい水のように、胸の奥へ染みていく。
秋の夕方、仕事を終えてスーパーでサンマとスダチを買った。レジの店員は顔も上げずに「ありがとうございます」と言い、智恵も同じ言葉を返した。軽くて、嘘のない言葉だった。
ママチャリで坂を上りきると、マンションの五階に明かりが見えた。以前は自分だけが家族を待っていた部屋だ。今は誰かが智恵の帰りを待っている。
二階の一番奥の窓には別の家族が住み、玄関に子どもの靴が二足並んでいた。そのドアの前を通るとき、智恵は一度だけ足を止め、目を閉じる。
エレベーターで五階へ上がり、玄関を開けた。
「ただいま」
廊下の奥から、結衣の声が返った。
「お母さん、おかえり」
続いて台所から、和彦が顔を出した。
「智恵、味噌汁、これくらいの濃さでいいか?」
名前を呼ばれて、智恵は台所へ向かった。
湯気の向こうで、和彦が味見用の小皿を差し出す。結衣は自分の部屋から参考書を持ってきて、食卓の端に広げた。結衣の部屋のドアは閉じていた。けれど、閉じたままでも呼べば声が届くことを、三人は知っていた。
智恵は左手の薬指の、傷のついた指輪に触れてから、小皿に口をつけた。温かい味噌汁が舌の上に広がった。
「少し薄いかな」
和彦が味噌を足す。
「お父さん、入れすぎないでね」
結衣が台所まで声を飛ばした。
「分かってる」
「前もそう言って、濃くしたじゃん」
何でもない会話が、部屋の中を行き来する。
結衣が参考書の下から、薄い文庫本を一冊引き抜いた。
「お母さん、これ読んで。図書室の先生が勧めてくれた。感想聞かせて。長くなってもいいから」
智恵は受け取った。表紙は日焼けして、角が丸く擦れていた。誰かが何度も手に取った本だった。
「読むわ。ゆっくり」
「うん。急がなくていい」
智恵はエプロンを結び、買ってきたサンマを流しに置いた。
「結衣、今日は学校どうだった?」
「あとで話す。長くなるから」
「うん。あとで聞く」
窓の外で、夕暮れの色がゆっくりと薄れていった。三人の声が、台所と食卓のあいだを行き来していた。




