04 体育館 西
自室に戻った武は、すぐに身支度を整えた。
すっかり暗くなった窓に時計を見やると、もう6時を過ぎている。
孝臣が部屋を出てからどれほど時間が経ったのかは分からないが、早くしなければ捜索が困難になってしまう。
智が階段に落ちているのを見つけたというメモには、【ダイヤの呪い】と書かれていた。
もし このメモが怪異について情報を集めてくれていた建のもので、それを受け取った孝臣がメモに書かれた“体育館 西”に向かったとするならば、そこに怪異が潜んでいる可能性が高い。
サバイバルナイフの扱いには慣れていないが、ハンドガンが無い今、自衛に使えそうな武器は これしか持ち合わせていない。
丸腰で出て行くよりかは幾分かマシだろう。
武装し終え自室から出ると、智に呼びかけられた。
テーブルに腰かけ腕組みする様子は まるで転校初日のデジャヴを見せられているかのようだ。
しかし、こちらを見据えた智は開口一番、自分も連れて行け と言いだした。
その意図は分からないが、冗談で言っているわけではなさそうだ。
武は、危険だ、関係ない、足手まといだと頑として突き放そうとしたが、向こうもさすがに頑固だ。
武が頷かないのを分かっていて靴を履きだした。
焦った武は、寮則違反になってもいいのか と どう考えても柄ではない脅し文句を仕掛ける。
これなら諦めてくれるだろうと踏んでのことだったが、靴を履き終えた智は これを全く無視して出て行こうとした。
慌てて肩を掴むと、時間がないことを逆に突きつけられてしまう。
「残ったところで、お前が行くなら同じ事だ。なら、10時までにガキ見つけ出して連れ戻すしかねぇだろ」
そこまで言われてしまうと反論はできない。
反論するまでもなく先に出て行った智を追って武も部屋を出た。
寮から体育館までは、5分も かからない距離にある。
しかし、その西側に広がっているのは見るからに広大な森だ。
メモ用紙に記されていた“体育館 西”が この森をさすのだとすれば、遭難を前提とした捜索も覚悟しなければならない。
とはいえ学園の敷地内だ。
山林に繋がっているということは さすがにないだろう。
必ず限がある。それだけを励みに踏み込んだ。
―――あれから、もう3時間が経つ。
それなりに覚悟はしてきたつもりだったが、甘かった。
恐らく、土砂降りだった雨も上がって すっかり気が緩んでいたのだろう。
ここまで長丁場になると知っていれば、食糧や飲み物を持ってくることも考えられただろうが、悔んだところで帰り道すら分からない。
そうだ。
言い逃れも できないほど完全に迷ってしまった。
思わず溜め息すると、次いで腹が空腹を訴えてきた。
分かっているが何もしてやれない この無力感は尋常ではない。
井戸を見つけるまで我慢しろ と言う智は、何食わぬ顔でバンホを飲んでいる。
独りではないはずなのに、どうしようもなく孤独だ。
井戸があるなら地下水の臭いがするはずだ と最早 迷言としか思えないことを口にしだした武は、鼻以外 目も耳も塞いで その臭いとやらを探りにかかった。
その時だ。
鬱蒼とした茂みの向こうから、タイヤを焼いたような……或いは錆びた鉄を眼前に突きつけられたような、ともかく嫌悪感を抱かざるを得ないほど鼻孔を衝く臭いに気づく。
こんな森の中に工場でもあるのだろうか。
ぼんやりと そんなことを考えていると、突然 智が走りだした。
あっという間に茂みの向こうに消えた智を追いかけていくと、程なくして視界が拓けた。
森を出たのかと思ったが、違う。
この一帯だけ、立樹が極端に少ないのだ。
そして、あの枝に掛けられている歪に切り取られた布のような物はなんだろうか。
そう何の気なしに近づいた瞬間、背筋が凍りついた。
布ではない。人間の皮だ。
それが、牛豚から剥ぎ取ったかのように平然と干されている。
他の枝にも何か掛けたり突き刺してあったりなどしてあるが、恐らくは臓器だろう。
整然と雨粒を滴らせた それらが飾りつけられている様は、見せしめというよりは、クリスマスに もみの木を飾るような娯楽感覚を窺わせる。
とはいえ、これを見て誰が楽しい 気分になれるだろうか。
智が嘔吐いているのが いい例だ。
とてもじゃないが、健康な精神状態だとは思えない。
よく見ると他の樹も同様に人間ツリーが出来上がっている。
どこまで このような惨状が広がっているのだろうかと眺めていると、人間ツリー群の中心に何か円筒形のものが突き出している。
近づくにつれ、それこそが探し求めていた井戸であることが分かった。
石積みの隙間には苔が生え、錆びているのか血なのか定かではないが所々 黒く変色している。
相当 年季が入っているようだ。
中を覗こうと更に近づいたところで井戸の向こうに何か黒い物があることに気づく。
―――孝臣だ。
武は すぐさま回り込み駆け寄った。
幸い呼吸はあるが防弾チョッキの損傷度合いが著しい。
派手な出血は見られないが、顔や手足の切り傷からも相当に苦戦を強いられていた様子が窺えた。
それでも孝臣は逃げなかった。意識を失うまで戦っていたのだ。
逃げようと思えば逃げられたかもしれない。
しかし、そうしなかったのは、ミッションを遂行するという強い使命感のためだったのだろう。
協会からの要請を皮肉に解釈し人生をやり直すために利用した自分とは、見ている世界も、思考も、何もかもが違う―――――。
今更になって突きつけられたエージェントとしての意識の違いが、すぐに駆けつけてやれなかった悔しさ以上に武の首を絞めつける。
チョッキ越しに肩を掴むと、程なくして孝臣が薄く目を開いた。
はっとして覗きこむと、目が合った途端、傷だらけの顔が苦痛に歪んだ。
僅かに上がった手が示したのは井戸だ。
縁に手を掛けると、意図せず指先で押し出した小石か何かが落ちていった。
程なくして返ってきたのは、「ぽちゃん」や「どぼん」といった着水音ではなく、微かに「からん」と地に弾む音だった。
途端に、昼過ぎに やった物理の自由落下速度の計算式が脳裏に浮かぶ。
どう考えても今 思い返す事ではない。
井戸の中は濃い闇が続いている。
どこまで続いているのは分からないが、梯子が取り付けられていることからみても そんなにまで深いというわけでもなさそうだ。
なるほど。いかにも怪異の根城といった感じだ。
しかし、孝臣をこのままにしておくわけにはいかない。
そこで武は、孝臣を寮まで運ぶよう智に頼もうとしたのだが、言い終わる前に首を振られてしまった。
どうやら付いてくるつもりらしい。
何を思って そんなことを言いだしたのかは定かでないが、怪異が潜んでいると分かっていて一般人を連れていけるはずもない。
しかし、何度 帰れと言おうが智は頑として拒み続けるのだ。
それどころか、自分で連れ帰れとわけの分からないことを言いだしたから堪らない。
「担いで走れば消灯時間に間に合うんじゃねぇか。たまには連帯責任を負わされる側の立場も体験してみろ」
言うなり井戸の縁を軽々と跨いだ智は、そのまま梯子を下りていってしまった。
「何をしている……早く追え」
孝臣が差し出してきたのは、アサルトライフルだ。
ところが、武の手は動かない。
丸腰で乗り込んでいった智が危険なのは分かる。
早くケリをつけて出てくれば、すぐに孝臣をチエに診せられることも分かっている。
ふたりを救えるのは、武しかいないのだ。
しかし、本当に そんなことができるのだろうか。
前回は、たまたま運が良かっただけで、まともに怪異を倒したこともない。
ハンドガンの扱いさえ不慣れであるのに、持ったこともないようなライフルなど扱えるわけがない。
詰まる所、自信がないのだ。
ふたりを救える自信、その見込みが まるで見当たらない。
しかし、孝臣と智―――どちらか ひとりならどうだろうか。
今 少しでも救える可能性があるとするならば、それは やはり目の前にいる孝臣だろう。
武は迷った挙句、差し出されたライフルを退け孝臣を抱えようとした。
ところが、孝臣が抵抗する。
飛んできた小さな手に、頬を叩かれた。
「君は何故 防具を着けて来た? ここに怪異がいると分かったからだろう。君はエージェントとして ここに来たんだ。場の空気に呑まれて目的を見失うな。必ず滅してこい。分かったな」
そうライフルを叩きつけられた武は少し眉を曇らせたが、武器なしでどうやって怪異を滅すのかと睨まれたので受け取らざるを得なかった。
梯子は湿気と苔の影響かぬめりけを帯びている。
滑り落ちないよう慎重に下りていくと、徐々に闇が濃くなってきた。
武は目が慣れることを期待して手足の感覚だけを頼りに足掛かりを探したが、どうも心細い。
諦めて暗視モードに切り替えようと片手を離した次の瞬間、足が滑った。
なんとか持ち直そうとしたが、駄目だ。
完全に体勢を崩した武は、そのまま深い闇の中に吸い込まれた。
――――――――――――――――――――
髪の長い女が こちらに歩いてくる。
やたらと露出が激しいボディコンドレスを着た、艶やかな赤い口紅の女だ。
首と腕は下品な宝石で華やかに彩られ、白くスラリと伸びた脚に黒い網タイツが よく映える。
今に折れてしまいそうな程 細長いハイヒールを慣れた様子で履きこなす姿は、どこか誇らしげで自信に満ちていた。
そして、女との距離が教室の机5個分にまで近づいた時、やっと それが小早川であることに気づいた。
身に着ける物で女は変わると云うが、まさかここまでとは。
真面目な女性教師の面影など微塵もない。
不覚にも今の今まで彼女の隠れた大人の魅力に気づけなかったことが なんとも腹立たしい。
机3個分、そして、2個分にまで近づいた。
しかし、小早川が止まる気配はない。
まさか見えていないのだろうか。
慌てて呼びかけようとするが、何故か声が出ない。
手足もだ。全く動かない。
一体どうなっているのだろうか。
そうこうしている間にも、小早川は どんどん近づいてくる。
そして、遂に最後の机をも越えてしまった。
そのまま抱きついてきた小早川は、ゆっくりと胸に頬を寄せてきた。
ちらりと覗く耳が真っ赤だ。
もどかしげに顔を俯けたままでいる。
先程までの自信は何処へやら。
そこには羞恥、戸惑い、不安しか見当たらない。
しかし、厚みのある防弾チョッキに回した手が離れないよう必死でしがみついてくる様子からは、何か並々ならぬ覚悟のようなものさえ感じられた。
「神山君、私……綺麗かしら」
それが怯えたような あまりにも弱々しい声だったので、一瞬、本当に小早川の口から発せられたものなのか耳を疑ったが間違いない。
小さな頭が微かに震えている。
恥じらうように一層 強く抱きついてきた小早川に、胸を抉られるような衝撃と深い感銘を受けた武は すぐに頷いた。
途端に上がった顔は やはり紅潮していたが、それ以上に武の胸に迫ってきたのは その瞳だ。
身に着けている宝石以上に美しく輝いている。
それが時折 誘うように艶めく度に、武は汗ばむ手を意識しなければならない。
動揺を隠すために もう一度、今度は目を見て ゆっくり頷くと、今にも茹で上がりそうな顔が ほろりと幸せそうに綻んだ。
「そう……。なら私、神山君のために いつまでも若くて美しくいられるよう頑張るわ。そしたら、ずっと好きでいてくれるでしょう?」
武は、よくも考えないうちに頷いていた。
美しい中にも あどけなさが残る笑顔と、何かよく分からないが可愛らしい言葉とに すっかり絆されていたのだ。
そうと知ってか知らずか、小早川は無邪気に首に抱きついてきた。
ところが支えきれずバランスを崩した武は、そのまま引っ張られるかたちで小早川を押し倒した。
すぐに起き上がろうとしたが、顔を上げた直後、唇が重なった。
それは触れるだけの軽いもので、ほんの一瞬の出来事だったが、柔らかな感触や ふわりと鼻を擽った甘い香り、離れた途端に感じた仄かな吐息は紛れもなく実感として残っている。
「ありがとう、神山君。―――お肉になっても、私のこと好きでいてね」
小早川が妖美に微笑んだ次の瞬間、視界の端に現れた肉切り包丁が武の喉元を引き裂いた。




