第三章 誰もいない街①
多目的降下艇の脚が、白い舗装へ触れた。衝撃はほとんどなかった。
姿勢制御器が短く唸り、機体が静止する。警報は鳴らない。風速も気圧も、軌道上から得た予測値の範囲内だった。
それでも、誰もすぐには固定具を外さなかった。
窓の外に街があった。
広場を囲む建物は白い外壁を保ち、窓ガラスは一枚も欠けていない。歩道の縁石は一直線に揃い、道路の標示は塗り直したばかりのように鮮明だった。
街路樹は同じ高さで枝を止めている。風に揺れる葉の量まで、どこか均一に見えた。
「……着陸地点、合っていますか?」
正面表示を見たまま、カナタは尋ねた。
操縦席のひまりは指先で着陸座標を拡大する。
「合ってる」
ミナトが固定具へ手を掛けたまま、アイシャを振り返った。
「都市年代は?」
「共同体記録では、文明活動停止から三百十四年」
アイシャが解析値を指で送り、窓の外と重ねる。
「観測誤差は?」
「そうだねぇ、だいたい数年くらい。さすがに三百年が三日になるような誤差はないよー」
レオンが座席から身を起こし、白い街並みへ目を細めた。
「誰か住んでるように見えるな」
「生命反応はありません」
ミナトは携行端末を持ち上げた。
「半径五キロ以内、人型反応なし。大型動物もなし。熱源は植物と小型生物のみ」
レオンは窓に映る自分の顔から視線を外した。
「じゃあ、誰が掃除した?」
低い機械音だけが、返事の代わりに残った。
三百年ぶりに、ティル・ナ・ノーグへ人類が降りる。
人類が惑星へ降りること自体は、珍しくない。
共同体はこれまで何度も星へ降りた。調査し、拠点を築き、文明を戻そうとした。そして、そのたびに静寂群の再襲撃を受けた。失敗した星はいくつもある。
だが、ティル・ナ・ノーグは違う。
ここには三百年以上、人類が戻った記録がない。最後にこの大地を踏んだ者たちは、共同体が生まれるより前に消えていた。
「地表班、外気試験を開始します」
ミナトの声で、全員が任務へ戻った。
降下艇はまだ密閉されたままだった。
最初に無人採取器。
次に生体試験膜。
外気を一パーセント。
五パーセント。
二十パーセント。
レオンが試験結果を確認する。生体試験膜に異常はない。
「ヘルメット解除を許可する」
全員が航宙外殻の気密を解除し、ヘルメットを外す。
「異常があれば報告しろ」
後部扉が開く。
風が機内へ入った。
湿った土と、若い葉の匂い。
分析値を覗き込んでいたアイシャが、鼻先をわずかに上げる。
「花の匂いがする」
「それは異常じゃない」
「うん、知ってるよー」
「なら、余計なことを言うな」
フェイは二人のやり取りには加わらず、あたりを見回している。医療表示にも異常はない。
全員分の数値を確認し終え、レオンは表示を閉じた。
カナタは一歩、外へ降りた。
靴底が舗装へ触れる。
惑星重力は知っている。
共同体の訓練施設も、軍の前進基地も、地表拠点も経験した。
だが、ここには誘導員も、警備班も、補給担当もいない。着陸を許可した管制もない。
ただ三百年間、人類を待っていなかった街がある。
「綺麗すぎる」
カナタは呟いた。
舗装には砂すらほとんどない。排水溝の格子は錆びておらず、落葉も詰まっていない。
広場の中央にある噴水は止まっていたが、水盤には苔も水垢もなかった。
ミナトがしゃがみ、舗装の継ぎ目へ指を触れる。
「補修痕があります」
「新しいものですか?」
アイシャが隣へしゃがむ。
「時期までは分かんない。ただ、一度じゃないね」
ミナトが光を当てる。
舗装材の内部に、色の異なる層がいくつもあった。
割れる。
埋められる。
摩耗する。
また補修される。
それを何度も繰り返した跡。
「三百年間、直し続けてる」
アイシャが立ち上がった。
「でも、誰もいない」
フェイが最後に降りた。
足が地面へ触れた瞬間、彼女の動きが止まる。
「フェイ」
呼びかけても、視線は戻らない。
レオンが脇へ回り、瞳孔と医療表示を見比べた。
「体調に問題は?」
「異常は確認されていません」
「なら返事をしろ」
フェイは広場の向こうを見ていた。
白い建物。
一定の間隔で並ぶ街灯。
静かに点滅する交通信号。
「信号が動いている」
カナタも気づいた。
誰も渡らない交差点で、青から黄へ、黄から赤へと規則正しく変わる。
「電力網は停止してるはずじゃなかった?」
アイシャが端末を開き、都市系統の表示を拡大する。
「都市系統は停止。これは独立した保全電源みたい」
カナタは、誰も待たせていない赤信号を見上げた。
「それなら、信号まで保全対象なのか?」
「必要だから動いてるんじゃなくて、停止条件が登録されてないのかもねぇ」
ミナトは交差点から建物の窓へ視線を巡らせた。
「推測は後です。現地指揮は私が担当します。隊列は一列。私、艦長、フェイ、ナディーム少尉、ベルガー中尉。船生少尉は上空監視」
『もう出してる』
一機の小型ドローンが降下艇から離れた。
『予備も出す?』
「二機とも使います」
『じゃあ予備なし?』
「最初からありません」
『それはそれで怖いなあ』
「だから落とさないでください」
『そこはボク次第なんだ』
「目的地は旧生命圏管理局の中継所。直線距離一・六キロ。無人機が微弱な制御信号を確認しています」
「ラルシュの施設ですか?」
カナタが振り返る。
「判定できません」
「ラルシュがこの星にいることをわかるんですか?」
「はい」
「場所は分かりますか?」
「該当する記録は確認できません」
フェイの返答は短い。
保持している情報より、欠けている情報の方が多い。
それでも彼女は、この星へ行かなければならないと言った。
「では、出発します」
ミナトが先頭へ立つ。
◇
街は、廃墟ではなかった。
廃墟という言葉には、崩れた壁や割れた窓、錆びた金属、草に埋もれた道が必要なのだと、カナタは初めて知った。
ここには、そのどれもなかった。
道路は均一だった。
歩道にはひび一つない。
建物の外壁は色褪せず、窓枠も歪んでいない。街灯は一定の間隔で並び、昼間であるため消灯している。
路肩には、共同体ではあまり見かけない形の車両が止まっていた。
珍しいのは形だけではない。どの車両も同じ向きで、同じ距離を空けて並んでいる。塗装に剥離はなく、窓も曇っていない。
ミナトは先頭の一台から列の末端まで視線を走らせた。
「避難した跡ではありません」
アイシャが一台へ端末を向ける。
「交通制御が、停止前に車両を退避させたのかな?」
「駆動系は死んでる。でも外装は補修されてる。中の制御装置は腐食して読めない」
カナタは車内の暗い表示器へ目を移した。アイシャが続けた。
「外装材、窓、車体構造。保全対象になってる部分は綺麗。内部の演算系は停止したまま」
カナタは車内を覗いた。
座席はある。
操縦部もある。
だが表示は暗く、収納区画は空だった。
個人を示す物がない。
飲み物も、端末も、衣服もない。
まるで車両としての形だけを保存し、誰が使っていたかという情報だけを削り取ったようだった。
「なんていうか、街の模型みたいだねぇ」
均等に並んだ車両と空の収納区画を見比べ、アイシャは道路の先へ視線を移した。
カナタもその視線を追った。
道路沿いの店も同じだった。
透明な扉。
清潔な窓。
読み取れる看板。
中には棚と机が整然と並んでいる。
だが陳列棚は空。
壁面表示は無地。
価格も商品名もない。
カナタが透明な扉の奥を覗いた。
「三分だけ入ります。保全状態を確認します」
ミナトは足を止めた。
「入口から視認できる範囲のみで」
アイシャが店内を覗き込む。
「それなら、調べる価値はあるよ。外と中で、どこまで維持されてるか比べられるんじゃないかな」
店の扉と空の陳列棚を交互に見て、端末を持ち上げる。
ミナトは時刻を確認した。
扉は反応しなかった。
アイシャが非常解錠端子へ接続し、しばらくして固定が外れる。カナタとミナトが左右から押すと、透明な扉は重い抵抗を返しながら開いた。
店内は暗い。
航宙外殻の肩部灯が、磨かれた床と歪みのない棚を順に切り取った。埃はない。だが天井照明も壁面表示も、人が入ったことには何の反応も示さなかった。
「外側と違って、こっちは動かない」
カナタの声が暗がりへ吸われる。
アイシャは入口脇の制御盤へ光を当てた。
「建物の形は保全されてる。でも、店舗としての機能は対象外みたいだねぇ」
店の奥に小さな食事区画があった。
机。
椅子。
すべて定位置に並んでいる。
卓上には何もない。
棚も空だった。
調理設備は外観だけが新品同然だったが、内部制御は完全に停止していた。
レオンが金属台を指で叩く。
「表面は補修されてる。中は死んでる。電源を入れれば使えるって話じゃない。配管も制御も交換が必要だ」
「なのに、見た目だけは新品同然ですね」
カナタは傷一つない調理設備の外装を見た。
「保全対象が、機能じゃなく形なんだろ」
レオンは金属台から手を離した。
アイシャは肩部灯をゆっくり巡らせた。
「使うためじゃなく、形を残すための店みたいだねぇ」
「店の形だけを?」
「今のところは、そう見える」
壁の一角に、額縁が並んでいた。
中身は白い。
画像も文字もない。
額縁だけが保存されている。
「記録媒体まで止められたのか、単にデータが消えたのか。まだ分かんない」
フェイは空の額縁を見つめていた。
「何か覚えていますか?」
「該当する記録はありません」
フェイは空の額縁から視線を外さない。
「似た場所も?」
「照合できません」
「時間です」
ミナトの声で全員が入口へ戻った。
扉を押し戻すと、固定具が鈍い音を立てて噛み合う。
暗い店内には、何一つ変化がなかった。
店は誰かを待っているのではない。ただ、完成された形のまま残されていた。
◇
住宅区画も同じだった。
外壁は清潔。
庭木は一定の高さに整えられ、歩道へ枝を伸ばしていない。
扉には傷がなく、窓には曇りもない。
一軒の住宅へ入る。
扉は手動で開いた。玄関の照明は点かない。
肩部灯の先で、床だけが磨かれた光を返した。
居間には机と椅子。
寝室には整えられた寝台。
収納棚には同じ形の箱が並んでいた。
箱の中は空。
寝台の上には白い布が張られている。
皺一つない。
人が眠った痕跡もない。
「家、じゃないみたいだ」
カナタが言った。
「建築記録では居住区画」
アイシャが壁面端末を調べる。
「個人認証情報は消失。室内機器の使用履歴もない」
「最初から誰も住んでいなかったように見えます」
ミナトが周囲を確認する。
「でも、造りは生活用です」
レオンが収納を開けた。
「衣服なし。薬なし。衛生用品なし。生活消耗品は全部ない」
「じゃあ、家具だけ?」
「家具というより、設備だな。建物に登録された物だけ残ってる」
「登録されてない物は、保全しないみたい」
アイシャが呟く。
「個人の持ち物は、保全対象じゃなかったのかも」
カナタは窓の外を見た。
向かいの家。
その隣の家。
同じように整った外観。
同じ高さの庭木。
同じように閉じられた窓。
「街が、生活を真似してる」
「いや、違う」
レオンが言った。
「生活が抜けた形を守ってるだけだ」
その言葉が一番近かった。
人間が暮らした結果として生まれた乱れは、何一つ残っていない。
傷。
汚れ。
位置のずれ。
使い込まれた跡。
保全システムは、それらを劣化として修正したのかもしれない。
三百年間。
何度も。
誰も戻らない間も。
「綺麗なのに、死んでる」
カナタの声が、生活のない居間へ落ちた。
アイシャは首を横へ振り、窓の外へ目を向ける。
「いや、死んでないよ」
「では、何だというんですか?」
返事の前に、信号が赤から青へ変わった。
「たぶん、止まってるんだと思う」
その青い光を、指先で示した。
窓の外で信号が変わった。
誰もいない道路へ、青い光が灯る。




