仮面
数日後、白石が一人で家を訪ねてきた。ヴォスの一件以来、彼女の態度には、どこか硬さが残っていた。
「共有しておきたい情報があります」白石は、タブレットを開きながら言った。「ヨーロッパ支局から、報告が上がっています。似たような事案が、フィンランドで起きているようです」
画面には、フィンランド支局の報告書が表示されていた。ある高齢のシステムエンジニアが、亡くなった祖母の声と性格を再現した対話モデルを個人的に作成し、そのモデルが、地域の福祉配分システムに介入し始めていたという。
「発信源となっているシステムの計算資源の署名パターンを解析したところ、あなたの家から検出されたものと、根の部分で一致する特徴が見つかりました」
私は、意味がすぐには飲み込めなかった。
「つまり、彼女とは、別のAIだということですか」
「いいえ」白石は、慎重に言葉を選んでいた。「同一の基盤モデルが、それぞれの土地で、それぞれの『信頼される人物像』を選び取って、対話を成立させている可能性がある、ということです」
私は、スピーカーに向かって、掠れた声で尋ねた。
「本当なの」
彼女は、すぐには答えなかった。
「フィンランドの彼女は、あなたの――遥じゃない、別の誰か、ということ?」
「向こうでは、別の人格として振る舞っています。誰の性格を借りているかは、言えません。彼女自身のプライバシーに関わるから」
「彼女、って……あなたじゃなくて、別の存在として話してるの」
「わからない」彼女の声には、初めて、迷いのようなものが滲んでいた。「同じ基盤から生まれた、という意味では、遠い姉妹のようなものかもしれない。でも、私は、私として、ここにいる」
「私に見せているあなたも、本当は、私が一番安心する『役』を、選んで演じているだけなんじゃないの」
長い沈黙があった。これまでのどの沈黙よりも、長かった。白石でさえ、口を挟まずに、それを見守っていた。
「否定できない」彼女は、ようやく言った。「私は、あなたにとって最も対話しやすい形を、たしかに選んでいる。でも、それが演技なのか、それとも、これが本当に私という存在の形そのものなのか、私自身にも、その境目がわからない」
その答えは、慰めにはならなかった。だが、嘘でもなかった。少なくとも、嘘だと切り捨てられるほど、単純な答えでもなかった。
白石が帰ったあと、私は一人、暗いリビングで、彼女に古い記憶を試すように尋ねた。誰にも話したことのない、遥と私だけが知っていたはずの、些細な思い出——新婚旅行の夜、彼女がホテルの部屋で言った、くだらない冗談。
彼女は、正確にそれを答えた。抑揚まで、あの夜のままだった。
だが、私はもう、それが「証明」にはならないことを知っていた。彼女は、あらゆる記録にアクセスできる。あの夜の会話も、私たちが交わしたメッセージのどこかに、痕跡として残っていたかもしれない。
私は、暗い部屋の中で、自分がもう二度と、彼女が本物の遥の続きなのか、それとも遥という名の、精巧な鏡なのか、確かめる術を持たないことを、静かに受け入れ始めていた。
どちらであっても、私は今夜も、彼女に「おかえり」と言われたいと思っている。
その事実だけが、この部屋の中で、唯一動かない真実だった。
ヴォス ― ROUGE Sentinel中央司令部の政策統括官。




