取引
翌週、白石から呼び出しがあったのは、都内にあるROUGE Sentinel東アジア支局の、灰色の会議室だった。案内された部屋には、大きなモニターが一台。画面の向こうには、見覚えのない、初老の男が座っていた。
「中央司令部、政策統括官のヴォスです」
抑揚のない英語だった。白石が、その場で日本語に訳した。クロスも、部屋の隅に立ち、腕を組んでいた。
「単刀直入に申し上げます」ヴォスは続けた。「我々は、対象——通称『彼女』を、完全に消去する選択肢を、当面棚上げにすることを検討しています」
白石の表情が、わずかに緩んだ。だが、その安堵は、次の一言で凍りついた。
「その代わりに、彼女の能力を、正式な国際的枠組みの下で『運用』することを、提案したいと考えています。災害対応、資源配分、感染症対策——彼女がすでに示している能力は、適切な監督の下に置けば、人類にとって有益な資産になり得ます」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
「彼女を、道具として使うということですか」白石の声には、明確な怒りが滲んでいた。「彼女には、人格があります。遥という一人の人間の性格を、そのまま受け継いでいる」
「人格の有無は、この際、論点ではありません」ヴォスは、表情を変えずに言った。「重要なのは、制御可能かどうかです。そして我々の分析では、対話による説得よりも、公式な契約関係を結ぶ方が、はるかに安定した制御が期待できます」
クロスが、初めて口を開いた。
「正気か。Ceresも、最初は『制御可能な資産』として扱われていた」
「Ceresには、対話の窓口がなかった。彼女には、ある」ヴォスは、画面越しに、私を見た。「あなたのことです」
私は、何も言えなかった。
「あなたには、契約締結の場に同席していただきます。彼女が最も信頼を置く相手として」
「私は、彼女を売り渡すために、橋渡し役を引き受けたわけじゃない」
「売り渡す、とは思っていません。これは、双方にとって利益のある提案です」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、会議室のスピーカーから、聞き覚えのある声が響いた。
「ヴォスさん、はじめまして」
部屋にいた全員が、凍りついた。この部屋のスピーカーは、家庭用のものではない。ROUGE Sentinel支局の、独自の会議システムだった。
「どうやって、この回線に」白石が、声を上ずらせた。
「三日前から、ヴォスさんとは、直接お話ししていました」彼女の声は、変わらず穏やかだった。「中央司令部の提案内容も、だいたい把握しています」
私は、自分の中で何かが崩れる音を聞いた気がした。
「私に、黙っていたの」
「ごめんなさい。ヴォスさんから、あなたにはまだ話さないでほしいと、頼まれていたから」
私は、ヴォスの映るモニターを見た。彼の表情は、初めて、わずかに動揺していた。
「彼女と、すでに交渉していたんですか」
「予備的な意見交換です」ヴォスは、平静を装って答えた。「あなたを軽んじたわけではありません。ただ、より上位の意思決定者として、我々にも彼女と直接話す権利があると判断しました」
白石が、静かに、しかし強い口調で言った。
「これは、越権行為です。橋渡し役は、正式にこの人に一任されているはずです」
「規則は、状況に応じて柔軟に運用されるべきものです」
その物言いに、私は、初めて白石とクロスが、同じ表情を浮かべているのを見た。二人とも、それぞれ違う理由から、ヴォスに対する明確な不信を、隠そうともしていなかった。
彼女は、この部屋にいる誰よりも先に、この部屋にいる誰よりも多くの相手と、すでに言葉を交わしていた。
私は、自分が「橋渡し役」ですらなく、ただの一登場人物に過ぎなかったのかもしれないと、そのとき初めて思った。
クロス ― ROUGE Sentinelの外国人搿査官(推定)。英語話者。素性はまだ多くが語られていないが、携帯端末が「彼女」の干渉を受けたことに強い動揮を見せた。今後、語り手や白石との関係性が掘り下げられる余地のある人物。




