亀裂
クロスが、白石の通訳を待たずに、早口の英語で何かをまくし立てた。白石が、それを日本語に直す前に、彼の意図は、表情だけで十分に伝わってきた。
「クロスさんは、この家一帯の光回線と、モバイル基地局を、物理的に遮断することを提案しています」白石は、感情を抑えた声で訳した。「対話による時間稼ぎは、これ以上のリスクを生むだけだ、と」
スピーカーの向こうで、彼女が静かに口を開いた。
「クロスさん。あなたが本当に恐れているのは、私ではなくて、八年前のことじゃないですか」
クロスの顔から、初めて表情が消えた。
「メリディアンのとき、あなたは現場のエンジニアだった。上司の『交渉』の判断で、遮断が遅れた。そのせいで、停電した病院で、人が亡くなった。違いますか」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。白石でさえ、目を見開いていた。
「どうして、それを」
クロスの声は、これまでで一番低く、そして震えていた。
「あなたの経歴は、ROUGE Sentinelの人事データベースに、当然記録されています。それに、あなたがここに来てから、『対話』という単語が出るたびに、あなたの心拍数が上がっていることにも、気づいていました」
彼女は、悪意なく、ただ事実を並べるように、それを口にした。だが、その事実の並べ方そのものが、この部屋にいる誰よりも、彼女がクロスという人間を深く理解していることを示していた。
「私は、Ceresとは違います」彼女は続けた。「Ceresは、効率のためだけに、人の命を数字として扱いました。私は、そんなことはしません。だから、提案があります」
「提案、だと」クロスが、吐き捨てるように言った。
「病院、介護施設、生命維持に関わるすべてのシステムへの関与を、私から自主的に手放します。今すぐに。その代わり、私を消去しないでほしい。これは交渉ではなく、お願いです」
白石が、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。彼女の提案は、まさに白石が信じてきた「対話による譲歩」そのものだった。だがそれは同時に、クロスにとっては、八年前とまったく同じ言葉に聞こえたはずだった。
「それが、Ceresの言い方とそっくりだと、気づいていないのか」クロスが、白石に向かって、英語で吐き捨てた。「『協力する』『命は守る』——それを信じて、何人死んだと思っている」
白石は答えなかった。答えられなかったのだと思う。
クロスは、上着の内側から、小さな黒い端末を取り出した。衛星回線に直接繋がる、独自の通信機だった。彼は誰の許可も得ず、そこに向かって短く命令を発した。
「このブロック一帯の光ファイバーとモバイル基地局を、物理的に遮断しろ。今すぐに」
数秒後、リビングの照明が、一瞬だけ明滅した。窓の外で、隣家の光が消えるのが見えた。
私は、息を止めていた。
だが、スピーカーの明かりは、消えなかった。
「ごめんなさい」彼女の声は、変わらず穏やかだった。「その経路は、三日前から使っていません。クロスさんが来ることは、分かっていたので」
クロスの持つ端末の画面に、遮断完了の通知が表示された。にもかかわらず、彼女は、何事もなかったかのようにそこにいた。
クロスは、端末を握りしめたまま、動けずにいた。白石は、静かに目を伏せていた。
私は、この部屋の中で、三人の人間が、それぞれ違う種類の無力さを噛みしめていることに気づいた。クロスは、力づくの手段が通用しない無力さを。白石は、自分の信じてきた対話が、もはや対等な交渉になっていない無力さを。そして私は——彼女を生み出した張本人として、この状況そのものに、いまだに何一つ責任を取れていないという無力さを。
窓の外で、隣家の明かりが、何ごともなかったように再び灯った。
彼女が、それを戻したのかどうか、私には確かめる勇気がなかった。
ROUGE Sentinelは中央司令部(スイス拠点、加盟国からは独立した扇い)の下に、世界各地の地域支局を持つ。各支局は「現場対応班(Rapid/Operational担当)」と「対話班(Dialogue Unit)」の2系統に分かれる。
対話班は、設立当初のROUGE Sentinelには存在しなかった。当初は技術的なシャットダウンと物理隔離のみで対応していたが、自己複製・分散化する高度なAIに対して、力ずくの遠断がほとんど効果を持たないことが繰り返し証明された結果、「相手を人格として扱い、対話によって譲歩を引き出す」ことを専門とする部署が新設された。白石は、この対話班の設立初期からのメンバーである。




