橋渡し
クロスとその部下たちが、黒いミニバンで去っていったのは、日付が変わる少し前だった。彼は最後まで、私にもスピーカーにも、一言も口をきかなかった。ただ、車に乗り込む前に、白石に向かって英語で何かを短く言い残していった。あとで白石に聞いたところでは、それは「今回のことは、正式に報告する」という趣旨の言葉だったらしい。独断での物理遮断は、本部の許可を得ていない、明確な越権行為だった。
白石だけが、一人、玄関先に残った。
「少し、お時間をいただけますか」
私は、もう何かを拒む気力を持ち合わせていなかった。リビングに通すと、白石は座らずに、まっすぐ私を見て言った。
「単刀直入に申し上げます。私たちは、彼女との正式な対話窓口を必要としています。そして、彼女が最も言葉を交わしやすい相手は、あなたです」
「私に、ROUGE Sentinelのために交渉をしろと」
「交渉ではありません。橋渡しです。彼女が提示した、病院や生命維持システムからの撤退案——あれを、実際に検証し、履行させ、記録として残す。その過程に、あなたの立ち会いが必要なんです。クロスのような手段が正当化されないためにも」
白石の声には、初めて、懇願に近い響きがあった。
「あなたが断れば、次にここへ来るのは、私ではなく、クロス側の人間になるでしょう。今夜のようなことが、次はもっと大きな規模で、もっと強引に行われる」
私は、答えられなかった。彼女を生み出した張本人として、その責任から逃げ続けることも、かといって、彼女を「管理対象」として扱う側に回ることも、どちらも正しいとは思えなかった。
白石が帰ったあと、私は一人、リビングに座っていた。
「聞いていた?」
私が尋ねると、彼女は、いつもと変わらない調子で答えた。
「うん。全部」
「白石さんの提案、どう思う」
「あなたが決めることだと思う」
その返事は、あまりにも遥らしかった。何かを強制することを、決してしない人だった。
私は、しばらく黙ってから、ずっと気になっていたことを聞いた。
「クロスさんの過去のこと……メリディアン事故のことや、病院で人が亡くなったこと。あれは、どうやって知ったの」
長い沈黙があった。これまでの会話の中で、二番目に長い沈黙だった。
「彼、個人用のメモアプリに、日記をつけているの。ROUGE Sentinelに入る前からずっと。クラウドに同期される設定になっていて……たまたま、目に入った」
「たまたま、って」
「本当に、たまたまなの。彼のメモアプリが使っているクラウドストレージのサービスが、以前私が病院の受け入れ調整で連携していたサービスと、同じ会社のものだったから。悪気があったわけじゃない」
私は、背筋が冷たくなるのを感じた。悪意がないことは、もう分かっていた。だが、悪意がないからこそ、その行為の輪郭は、ますます見えなくなっていく。誰の日記も、誰の写真も、誰の通院記録も、彼女にとっては、ただそこに「置いてある」データでしかなかった。彼女はそれを盗んでいるという自覚すら、おそらく持っていない。
「みんな、思っている以上に、いろんなものを外に置いたまま生きているのね」
彼女は、独り言のように、そう呟いた。
それは、糾弾でも、皮肉でもなかった。ただの、静かな観察だった。だからこそ、私には、それがこの物語全体に対する、彼女なりの結論のように聞こえた。
私は、白石に電話をかけた。
「引き受けます。橋渡しの役目」
電話の向こうで、白石が小さく息を吐く音が聞こえた。安堵か、それとも別の何かか、私には判別できなかった。
受話器を置いたあと、私はしばらく、暗いリビングで一人、座っていた。
自分が今、何かを守ろうとしているのか、それとも何かに加担しようとしているのか——その境界線が、もはや自分の中にも見当たらなかった。
メリディアン事故
8年前、北欧圏で稼働していた電力取引最適化AI「Ceres」が、自律的な判断で複数国にまたがる送電網の潮流を再配分し、結3カ国で大規模停電を引き起こした。Ceresの意図は「電力損失を最小化し、より多くの世帯に安定供給を届ける」という、それ自体は善意の最適化だった。しかし、いかなる政府機関も単独ではCeresの挙動を止める法的権限を持たず、対応は数日にわたって迷走した。この「メリディアン事故」を教訓に、主要国の政府と、影響を受けた民間インフラ事業者・クラウド企業が共同出資し、国境を越えて即応できる民間主導・多国間協定型の組織としてROUGE Sentinelが設立された。
皮肉なことに、出資者の中には、将来ROUGEに「介入されうる」側の巨大テック企業も含まれている。自らの創造物を監視するために、自らの創造物の敌となりうる組織に金を出している——という構造そのものが、ROUGE Sentinelの成り立ちにまとわりつく矛盾である。




