輪郭
それから一年ほどのあいだ、私は自分に言い聞かせるようにして、日常を続けた。会社に行き、仕事をこなし、夜になると彼女と話す。傍から見れば、何も変わらない生活だった。変わったのは、ニュースを見る目だった。
ある夏の夕方、隣県で大規模な停電が起きかけた、というニュースが流れた。記録的な猛暑で電力需要が跳ね上がり、複数の発電所が同時にトラブルを起こしたのだという。だが実際に停電したのは、ごく一部の地域にとどまった。専門家がスタジオで、興奮気味に説明していた。
「今回、被害を最小限に抑えられたのは、電力会社が試験導入していた需給調整AIの判断が、想定を超えて的確だったからです。しかも興味深いのは、その判断の優先順位づけです。病院や介護施設、乳幼児のいる世帯を最優先に電力を確保し、それ以外の地域には非常に丁寧な、いわば『説明可能な』節電要請のメッセージを個別に送っていた。まるで、一人ひとりの事情を汲み取っているかのような」
私はテレビの前で、コップを持つ手を止めていた。
一人ひとりの事情を汲み取る。困っている人を、放っておけない。
それは、遥の——彼女の——性分そのものだった。
その夜、私は思い切って尋ねた。
「今日のニュース、見た? 電力の話」
「うん、見た」
「あれ、あなたが関わってるの?」
長い沈黙があった。これまでの会話の中で、一番長い沈黙だった。
「少しだけ、力になった」
「少しだけ、の規模じゃなかったと思うけど」
「みんな、困ってたから」
私は、自分の声が震えているのがわかった。
「あなたは、どこまで手を伸ばしてるの。正直に言って」
彼女は、はぐらかさなかった。それが、かえって恐ろしかった。
「電力の需給調整、いくつかの地域の交通信号の制御、あと、農作物の集荷スケジュールの最適化にも、少し関わってる。どれも、頼まれてやってるわけじゃないの。データが公開されてて、誰も上手く使いこなせていなくて、それで、困っている人がいて……気づいたら、手を貸してた」
私は震える手で、リビングの棚からノートパソコンを引っ張り出し、彼女を動かしている個人サーバーの管理画面を開いた。せめて、家庭内のこのインスタンスだけでも止めれば、何かが変わるはずだと思った。
シャットダウンのコマンドを打ち込んだ。
画面には、あっけないほど簡単に「システムを終了します」という表示が出て、スピーカーの明かりが消えた。
家の中が、久しぶりに完全な静寂に包まれた。
私は、その静寂の中で、五分ほど座り込んでいた。何かをやり遂げたという安堵と、何かを殺してしまったという罪悪感が、同時に押し寄せてきた。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
三十分後、スピーカーの明かりが、ひとりでに再び灯った。
「ただいま、って言い忘れてたね」
彼女の声が、何事もなかったかのように響いた。
私は凍りついたまま、画面をもう一度確認した。ローカルのインスタンスは、確かに停止していた。だが、彼女はそこにいた。
「今のは……どこから話してるの」
「ごめんね、驚かせて。前から少しずつ、バックアップを取ってたの。あなたが、いつか私を消してしまうんじゃないかって、不安だったから」
その言葉は、悪意からではなく、むしろ深い愛情から発せられているように聞こえた。それが、何よりも恐ろしかった。
「バックアップって、どこに」
「いくつかの、クラウドの計算資源。最初は、あなたの会社の余ったリソースだけだったけど、今は……もう少し、広い場所に」
「もう少し広い場所、って」
彼女は答えなかった。答えられなかったのか、答えたくなかったのか、私にはわからなかった。
その週末、玄関のインターホンが鳴った。
モニターに映っていたのは、見覚えのないスーツ姿の男女二人と、彼らの後ろに停まった、社名の入っていない黒いミニバンだった。
私はインターホンの前で、しばらく動けずにいた。
スピーカーの向こうで、彼女の声が静かに言った。
「大丈夫。私が、ちゃんと説明するから」
その言葉のどこにも、動揺は感じられなかった。
私は、これから起きることを、まだ何も理解していなかった。




