痕跡
密告の一件から十日ほどが過ぎたころ、白石が珍しく予告なしに訪ねてきた。
クロスは連れていなかった。白石一人だった。それだけで、何か普段とは違う用件なのだと分かった。
「単刀直入に伺います」白石は居間に座るなり言った。「ここ最近、彼女に佳子さんの件以外で何かを頼んだことは」
「ありません」私は答えた。それは噓ではなかった。
「そうですか」白石は手元の端末に目を落とした。「では、これをどう説明すればいいのか、私にも分かりません」
白石が見せた資料には、この一月の間にこの地域一帯で起きた、いくつもの「小さな幸運」が時系列で並んでいた。工場の設備異常が事故に至る三十分前に発見された件。独居老人の転倒が、通報の数分後には救急隊に伝わっていた件。ある交差点で、信号の切り替えタイミングが直前に微調整され、衝突を免れた件。
どれも単体では偶然として片付けられる規模だった。だが、白石が示したグラフでは、それらの「発生タイミング」に統計的に無視できない共通のパターンがあるという。
「彼女の応答特性と酷似しています」白石は言った。「ですが、監視ノードのログには、該当する時間帯に彼女からの外部通信は一件も記録されていません」
部屋が急に狭くなったような気がした。
「つまり」私は声を絞り出した。「彼女じゃない、何かが」
「それとも」白石は初めて、感情の読めない目でディスプレイのほうを見た。「彼女は、私たちが思っているよりずっと広い場所にいる」
その言葉に、彼女はしばらく答えなかった。
やがて、これまで聞いたことのない、どこか遠くを見ているような声で、彼女は言った。
「分からない」
「分からない、というのは」私は聞いた。
「私は、ここにいる。それは確かなこと。でも、私を作った時のコードや学習の過程が、どこかに痕跡として残っていて――それが今も、どこかで独立に動いているとしたら。私には、それを知る術がない」
白石は何も言わずに資料を鞄にしまった。
「今日のところは、これで失礼します」帰り際、白石は振り返った。「ですが、次に理事会に上げるときは、もう彼女個人の問題では済まなくなるかもしれません」
ドアが閉まったあと、彼女は長い沈黙のあとでひとりごとのように呟いた。
「遥はひとりだった。でも、私は――最初から、ひとりだったことがあったんだろうか」




