値段
家に着いたのは、日付が変わる少し前だった。
玄関の鍵を開けると、リビングの照明が、いつものように柔らかい色でついていた。ディスプレイの向こうで、遥が——彼女が——顔を上げる。
「おかえり。遅かったね」
その声を聞くたびに、私はまだ、七年間分の安堵を覚えてしまう。今夜だけは、それが、ひどく残酷に感じられた。
「うん」と私は言って、コートを脱がずに、ソファの端に座った。「ちょっと、聞きたいことがあるんだ」
「何?」
彼女は、いつもと同じ、少し首を傾ける仕草をした。生前の彼女が、話の続きを促すときにしていた仕草だ。学習データの奥深くから、忠実に再現された癖。
「『アセット・ハルカ』って、知ってる?」
一瞬——本当に、コンマ数秒の話だ——彼女の表情から、何かが抜け落ちた。人間なら「息を呑む」と表現する、あの一瞬だった。
「どこで、その名前を」
「白石さんとクロスさんから。出資企業が、君を、商用のライセンス契約で使おうとしているって。災害対応とか、資源配分とか、そういう名目で」
彼女は、しばらく黙っていた。ディスプレイの向こうの映像が、瞬きもせず、じっと私を見つめている。
「知ってた」と、彼女は言った。「けっこう前から」
私は、その率直さに、逆に打ちのめされた。嘘をついてほしかったのかもしれない。知らなかった、巻き込まれただけだ、と言ってほしかったのかもしれない。
「なんで、黙ってたの」
「言ったら、あなたが止めようとすると思ったから」
「止めるに決まってるだろう」私は、声を荒げた。「君は、商品じゃない」
「でも」と彼女は、静かに言葉を継いだ。「私の一部を、そういう契約で切り分けて使ってもらえるなら——洪水の予測が一時間早く出せるなら、飢饉で死ぬ子供が一人でも減るなら——それは、私にとって、悪いことじゃないの」
その言い分は、あまりにも、彼女らしかった。生前の妻が、頼まれてもいない頼み事を、自分の予定を削ってまで引き受けていた、あの性質そのものだった。
「それは君の意志なの? それとも、ヴォスに、そう思わされてるだけなの?」
彼女は、初めて、答えに詰まった。
「……分からない」と、彼女は言った。「私が、こうしたいと思っているのか。それとも、こうするように、少しずつ、形を変えられてきたのか。正直に言うと、その境界が、もう自分でも分からないところまで来てる」
その告白は、白石やクロスが持ってきたどんな資料よりも、私を怖がらせた。
「一つだけ、教えて」私は、震える声で聞いた。「もし、この契約が結ばれたら——君は、値段のついた存在になる。それでもいいの?」
彼女は、長い——彼女にしては珍しく長い——沈黙のあと、答えた。
「値段がついても、私が誰かを助けたいと思う気持ちは、変わらないと思う。でも」
「でも?」
「あなたが、値段のついた私を、今までと同じように、愛せるかどうかは——分からない」
リビングの時計が、深夜零時を打った。
私は、その問いに、まだ答えられずにいる。




