博士の一番長い日
授賞式の次の朝のお話です。
昨日は少し飲みすぎた。普段はできるだけアルコールは控えている。やはり、頭の回転が鈍るのを避けたかった。飲みたい時は寝る前に少し。しかし、昨日は特別な日だった。何しろ私の愛娘が『アルバード特別賞』を受賞したのだから。ボルドー色のドレスを着たハイレーナの美しかったこと!金の刺繍が大理石の床に映えて、輝いていた。学院時代の友達とも再会して、楽しく過ごしたようだし、あの、少々生意気なグレン君と二度も踊ったのは気に食わなかったが。ああ、僕もハイレーナと踊れればよかった。昨日ほど、『ダンスは踊れた方がいい』という忠告に従わなかった自分を悔やんだことはない。昨日は何時に帰ったんだかあまり記憶にない。寝巻きを着ているところを見ると、ちゃんと帰って眠ったのだろう。起き上がってしばらくぼうっとしているとマーサが扉を叩いた。
「旦那様、午前中にグレンバルド様とハイレーナ様が、ご挨拶にいらっしゃるそうです」
「ハイレーナが?」
僕は慌てて、身支度を済ませた。昨日はそんなに話ができなかったから、会いに来てくれるのか。グレン君が一緒なのは少々気に食わないけれど、朝からハイレーナの顔を見られるとは、良い一日になりそうだ。
急いで階下へ降りる。早々に朝ごはんを食べ終え、サロンで二人の到着を待つ。ハイレーナの冷気を使った冷風機があるから、最近の夏はとても快適だ。やっぱり僕の娘は素晴らしい。
少しうとうとした頃に二人はやってきた。なんだか親密そうなのが少し癪だ。まあ、グレン君は確かに優秀な研究者だし、マルチインクの論文は評価に値する。将来有望な若者だけれど。今日のハイレーナは一段と美しい。やはり、研究成果が認められたことで自信がついたのかもしれない。しかし、最近ハイレーナはなかなか昔のように僕の腕の中に飛び込んで来てくれない。マーサには『大人になられたのですよ』と言われたけれど、まだまだ僕の可愛いハイレーナでいてほしい。
向かいのソファーに二人が並んで座る。なんだか距離が近い。しかも、二人とも僕と視線を合わせない。悪い予感がする。もしかして、ハイレーナがグレン君とラナスへ行くとか言い出すのではないか。
「ヴァロネス博士。昨夜、ハイレーナと……」
僕の娘を呼び捨てにするとは、いい度胸だ。
「婚約いたしました」
グレン君が左腕を持ち上げて、婚約腕輪を見せる。
「婚約!?」
一瞬理解が遅れた。どういうことだ、婚約って?そんな、まだまだ早い!思わず立ち上がって、大声が出た。
「だめだ!早すぎる!」
なんてことだ。せっかく仲良くなれたのに、一緒に過ごせるようになったのに、横から奪っていくなんて!そんなことが許されていいのだろうか。ハイレーナが研究者になって、一緒に仕事ができると思ったら、『名前を変えます。宿舎で暮らします』って言われて。僕はまた寂しい家に一人。昨日やっと『ヴァロネスの娘』と公的に認めてもらって、これからやっと『おとしゃまと一緒に仕事する』が叶うのに!
部屋の隅に控えていたマーサが歩き回る僕を押し留めるように前へ出た。
「お嬢様はもう、二十歳をとうに超えていらっしゃいますよ」
そうだったか?いや、そんなことはどうでもいい。僕にとってはいつまでも可愛いハイレーナなんだ。こんな理不尽なこと、許されない。それに。
「研究はどうするんだ。特別賞もらったとはいえ、研究者としてはこれからじゃないか!ハイレーナだって『もっと人の役に立つものを作りたい』って言ってたじゃないか」
じっとしていられない。部屋中を歩き回ってしまう。目の前のじゃもじゃ頭に苛立ちが抑えられない。
「グレン君、君には失望した。ハイレーナを誘惑するなんて!」
すかさずハイレーナが立ち上がった。
「お父様ったら、言っていいことと、悪いことがあるでしょう!」
その腕にグレン君と同じ腕輪が光っているのが目に入り、絶望的な気分になった。
「だって、ずうっと一緒にいたんだろう?」
「グレンに好きだって言ったのは私!」
頭をガツンと殴られた。いや、殴られた方が楽だったかもしれない。足元から力が抜けて、もといたソファーに崩れ落ちた。
「お父様より……お父様より好きなのか?」
「もう!」
ハイレーナは小さい頃のように顔を真っ赤にして地団駄踏んだ。
「お父様も好き。でもグレンは種類が違うの!わかるでしょう、お父様だってお母様大好きだったんだから!」
そうだけど、そうだけども。ああ、伯爵閣下は僕が『イレーネと結婚させてください』と言った時の気持ちがやっとわかった。閣下も肩を震わせて『爵位もない者に娘はやらん!』と怒っていらした。
ハイレーナは気まずそうにグレン君の隣に腰掛けた。ちらっと目を合わせている。けしからん。
グレン君は公爵家出身だし、今回の受賞で男爵位をもらったし、僕はどうしたら……。そうだ。
「許さないよ。研究者なんて、ハイレーナを幸せにできるのか?絶対苦労するに決まってる」
言いながら、自分も研究者だったと思ったけれど、後の祭りだ。
ハイレーナは僕を見つめて言った。
「お母様は、幸せでしたけど!」
ぐうの音も出ない。イレーネは幸せだったんだろうか。あんな短い人生で。病に苦しんで。いや、絶対に幸せだった。ハイレーナという素晴らしい娘を授かって。でもきっと、娘が結婚する姿を見たかったに違いない。そう思った時、ハイレーナが付け足した。
「それに、私、幸せにしてもらわなくていい。自分で幸せになりますから」
力強い言葉だった。ああ、僕たちの娘は立派に成長したよ。その時背中をマーサがとんとんと叩いた。
「旦那様。イレーネ様が旦那様とご結婚なさったのは十九歳でしたよ。今のお嬢様の年にはハイレーナ様がもうお生まれでした。よちよち歩きで可愛い盛りだったではありませんか」
そこで言葉を切る。本当にマーサは手強い。言葉が浸透するのを待って、もう一度口をひらく。
「お嬢様はもう、大人です」
「だけど……」
最後の抵抗を試みる。
「グレン君はラナス行きが決まっているだろう?」
我ながら弱々しい。
向かいのグレン君が身じろぎすると、僕に視線を合わせた。
「その件は二人で話し合いました。僕ら二人はお互いの研究の妨げにならないことで合意しています」
青い目が僕を見据える。
「僕は来月ラナスへ行きます。ハイレーナはアルバードに残ります。離れても僕の気持ちは変わりません。生涯この人だけです」
嘘偽りのない目だった。
「お父様、何も変わらないのよ。すぐ結婚式ってわけでもない。でも、婚約は許して欲しいの」
ああもう、どうしようもないのか。負けを認めるしかないのか。
「旦那様」
マーサが僕の肩の上に手を置く。
「イレーネ様の孫を抱いてみたいと、思いませんか?」
――孫?
「私は抱いてみたい。イレーネ様を初めてこの腕に抱いて、ハイレーナ様を抱いて、死ぬまでにもう一度」
「孫……!」
この腕に抱く?ハイレーナの赤ちゃんを?
あの小さなあんよに小さな手、あの奇跡をもう一度抱く?
「マーサ!赤ちゃんなんてまだ先!」
信じられない小さな爪が全部くっついていて、突けば壊れそうな小さな赤ん坊を、僕が?
向かいに座るグレン君がソファーの背もたれに倒れるようにのけぞっている。
「赤ん坊……」
「と、とにかく、私は研究所に残るし、お父様が望むならここから通っても良いんだから!」
ハイレーナが何かを言っている。ここで一緒に暮らす?そして、僕の腕に小さな赤ん坊。ハイレーナみたいな緑の目だろうか。ふわふわした髪が生えているのだろうか……。
「孫……」
「赤ん坊……」
気がつけば、マーサとハイレーナは部屋を出て、グレン君と僕が二人呆然と目を見合わせていた。




