マーサのはかりごと〜エルヴァとオットー
本編『春の嵐』から『オットーと喧嘩』あたりのお話です。実は裏ではこんなことが……。
「あらあらあら」
窓から外を眺めたマーサは慌ててエプロンで手を拭った。
薄暗いと思ったら、空は黒雲に覆われ大粒の雨が降り始めていた。雷の音すら聞こえる。
「これは、お嬢様、大丈夫かしらね」
今日の王立図書館の帰りはポロダンの馬車は返して、徒歩の予定だ。
春の嵐だから、そう長くは降り続かないだろう。そう見当をつけて、様子を見ることにした。何しろ夕食の支度途中なので目が離せない。
「もしもの時はお迎えに行っていただけるように」
言伝用の短い手紙を書き終える頃には雨足は弱まり、雨雲は西の方へ流れて行く。これなら大丈夫そうだと思い、引き出しに手紙をしまった。
雨が上がり、周囲が明るくなった頃、馬車の音がして窓から門を覗く。ちょうど黒塗りの馬車が横付けされるところだった。
「あら、気を利かせてくださったのかしら」
よく見ると、差し始めた夕日に映る車体のエンブレムは、見たことのないものだった。眉を顰め、手を拭いて玄関へ向かう。ホールの窓から門の外がよく見えた。
金髪の背の高い男が降りて、わざわざ手袋を外し、ハイレーナに手を差し伸べている。手を重ねたお嬢様がしずしずと降りてくる。男の顔を見上げる角度が気に入らない。男はお嬢様に囁くと馬車に乗り込み、去ってゆく。馬車が見えなくなるまで見送ってもハイレーナはなかなか門の中に入ってこなかった。
「まあまあ、なんでしょうあの男は!」
なんとも違和感を抱えたまま玄関扉を開け、ハイレーナを迎え入れた。
「お帰りなさいませ。突然の嵐で心配いたしました」
何気ない風を装ってバスケットを受け取りながら、ハイレーナを観察する。潤んだ目に上気した頬。
「親切な方が送ってくださったの」
そっけない口調が、これ以上聞くなと言っている。
「まあ、ようございました。では、お礼をしなければなりませんねぇ。お名前は?」
「さあ、ラディック様だったかしら。また会えるか分からないから、気にしなくていいわ」
目を合わせてはくださらない。お嬢様の足はもう、階段を登りかけている。
「夕食の時間まで勉強するから」
と言いながら駆け上って行った。
バスケットを持ったまま、マーサはため息をつく。
踵を返して厨房に向かいながら、考えを巡らせた。
「まずはあの御仁の素性をはっきりさせましょう。図書館で知り合ったのなら……」
厨房のテーブルに陣取ってエルヴァに長い手紙をしたためた。
翌日の昼過ぎ、勝手口で受け取ったエルヴァの手紙を読もうと、貯蔵庫の中に椅子を引っ張ってきて腰掛ける。
ダイニングルームにいるペトリ様に食事をお出しして一息ついたところだった。
几帳面な字の並んだ手紙を読み終えて何度目かのため息をつく。
『心中お察しいたします』
と始まった手紙には、『あの男』はおそらくベトランタ人の商人ではないかと書かれていた。
『図書館で何度かハイレーナと一緒にいるところを見かけている。年格好からして、ほぼ間違いないと思われる』
手紙の最後は『いつかお目にかかれる機会がありますことを祈りつつ』と締めくくられていた。
「商人なら、オットー様に調べていただくのが最善ですわね」
よっこらせと腰を上げると手紙を書くために筆記具を探しに行った。
「マレシュ・ラディックはベトランタでは新進気鋭の商人です。ここ数年で頭角を表し、アルバードにも数件ブティックを持っています。初めはウォード製品の販売を狙って貴族に取り入ろうとした。しかし失敗に終わった。それで今度は研究者を狙ったのではないでしょうか。ちょうどその頃です、ハナに目をつけたのは」
厨房のテーブルを囲むのは三人。マーサとエルヴァ、そしてオットー。しばらく家で実技をなさっていたお嬢様が、図書館通いを再開なさった翌日、エルヴァの休みに合わせて集まった。
テーブルにはビスケットやレモンタルトが並んでいるけれど、誰もそれに手はつけない。
「どうして、お嬢様がハロルド様の娘だと、分かったのでしょう?」
マーサの問いにエルヴァが答える。
「ハロルド様がお迎えにいらしたことがありましたし……」
マーサが頷く。エルヴァは考えをまとめながら続けた。
「……憶測ですが、門番の中に、ベトランタ出身のものがおります。何度かマレシュと話し込んでいる姿を見ました」
不思議そうな顔をしたマーサにオットーが補足する。
「身分証と許可証を門番が確認するんですよ」
そう言ったオットーはテーブルに置いた手を忙しなく動かしている。
「ハナは無自覚すぎです!ハロルド博士がどれだけ警護されているか、気がついてもいない」
マーサが首を振る。
「ハロルド様も、ペトリ様も、今のところは話すおつもりはなさそうですわ。まだ早いとおっしゃって」
マーサの手がカップに置かれ、持ち上げることなく膝に戻された。
「ハイレーナ様はまだ、研究者への道を歩み始められたばかりですもの」
エルヴァが二人に交互に視線を送って苦笑した。オットーが悔しそうに吐き捨てた。
「それにしても、あんな見た目だけの男に!」
マーサとエルヴァが傷ましそうな視線を向けた。オットーはカップを取り上げると、半分冷めたお茶をごくりと飲んだ。少々乱暴にカップを置くと、眉間に皺を寄せて吐き捨てた。
「それにあの男、妻帯者ですよ。ベトランタじゃ有名な愛妻家だ」
「なんてこと!」
マーサが思わず声を荒げる。
「お嬢様を利用しようとしているとしか」
オットーが頷く。エルヴァが立ち上がって、マーサの方に手を置くとコンロに向かい湯を沸かし始めた。
「ハイレーナ様は、マーサ様には何もお話にならないのですか?」
「……いいえ」
マーサの視線が落ちる。
「僕にも何も……」
「……」
かちゃかちゃと茶器の音がして、新しいお茶が三人の前に並んだ。すっと腰掛けたエルヴァが二人を見まわして言う。
「無理に止めても逆効果ではありませんか?」
「でもお嬢様は世間知らずですのよ」
オットーが大きく頷く。
「確かに、学院とこの家と、僕の別荘くらいしか知らないはずですから」
三人でため息。
「いつかは、ハイレーナ様も、大人にならなければいけませんわ。カゴに閉じ込めたままでは」
「でも、あれはいけません」
「そう、ですわね」
沈黙が落ちると、マーサがビスケットの皿を手にとって二人に勧めた。オットー、次にエルヴァが手を伸ばす。
「もう一度、ハナと話し合ってみます。それから、マレシュの方は、僕に任せてください。詳しく動向を探ります」
「図書館にいる間は私が。マーサ様はお家で」
「しばらくは目を離せませんね」
三人はしっかりと頷きあった。
窓の外を見上げたマーサがポツンと呟く。
「どうかお嬢様が、傷つきませんように……」
本編でみんなどうしてこんな態度を取ったのか、納得していただけるエピソードだと思います。オットーの方がハイレーナより大人なんですよね。




