はばたきの少女と銀色のヴィタリー
引き金に指がかかる。
男の垂れ下がった左腕からはポタポタと血が滴っていた。
髭の男は足を引きずるようにヴィタリーに近づき、そのこめかみに銃口を押し当てた。
赤毛の男はセピアを締め上げる腕をわずかにゆるめ、高く吠えた。
「姑息な前王の小細工もここまでだな! 正当なイェリスの後継は我が主。さぁ、王杖のありかを――」
だが、次の瞬間。
銃口は赤毛の男の額を正確にとらえて撃ち抜いた。
ほのかなあかりのなか、黒い銃の先から細く煙が立ち上るのが見えた。
セピアを抱えていた男の力が緩み、ドッと横倒しに倒れてゆく。
赤毛の男はそれきり、動かなくなった。
「セピア!」
叫んだヴィタリーが、死んだ男を押しのけるようにして、地に伏すセピアを助けおこす。
少女が「大丈夫」とうなずくと、ヴィタリーの顔がくしゃりとゆがみ、痛いほどに抱きしめられた。
だがすぐに、ヴィタリーはセピアを背にかばって立ちはだかった。
だが、おぼつかない足取りの髭の男は、ヴィタリーの前にガクリと膝を折り、驚くほど丁寧な礼を示した。
「ヴィタリーさま、私も王杖のありかをうかがいにまいりました」
黒髭の男は今までのぞんざいな口調を翻し、なにも答えないヴィタリーの前に銃を投げ捨てた。
「ただ、どうかご安心を。私めは、あるいは貴方様のお味方となり得ます」
セピアは、それを聞くと急いでヴィタリーに、あの男が自分の足の縄を解いてくれたこと。「必ず助ける」と指文字を使ったことを手で伝えた。
「利き腕を見極め、正確に撃ち抜く技量いささかも衰えてはおられませんね。手首と左肩、身をかわす間もなかった。お見忘れでしょうか。かつてはご生家で、御母君の従士として側仕えをしておりました。指文字はその折に」
黒髭の男は指先で己の名を綴る。
ヴィタリーはそれを読むとハッとした顔をしたが、まだ表情は緩めなかった。
髭の男は恭しい仕草でなおも続けた。
「お迎えに上がりました。ヴィタリー・オゼロフさま。オゼロフは母方の姓でらしゃいますな。――イェリスのエリストラートフ侯爵閣下」
そこまで聞くと、ヴィタリーはたったひと言を戻した。
「証は」
返事にはひとときの間があった。
「青なる世界の扉はセピアン」
男が真っ直ぐな眼差しでもたらした言葉こそが、ヴィタリーの待ち続けた合図だった。
セピアの脳裏に、あの美しい青い本が浮かぶ。
そして、そこにとじ込まれていた手紙も――。
ヴィタリーを覆い続けていた強い殺気が、その時ほどけるように消えたのをセピアは目の当たりにした。
息を吐いたヴィタリーが手を挙げると、小屋の中には、屋敷の女中数人が流れ込んできた。
セピアはヴィタリーから奪うように彼女らの手に迎えられ無事を泣き顔で確かめられた。
シーナやレィアやリシュ、セピアの側仕えの女中たちは、志願してヴィタリーとともに小屋へ駆けつけたのだそうだ。桶いっぱいの砂は、シーナたちが浴びせかけたと聞いて、セピアは目を丸くした。
ヴィタリーは手近な布で、男の負傷した左腕をしばりながら、イェリスからの使者だという男の言葉を真摯に聞き、時にうなずいていた。
「甥にあたられる、先王の御令息は…王太子殿下は、落ちのびておられます。新政府側がエリストラートフ閣下の行方をつかみつつあると知り、ヤツらの幕下に潜んでおりました。どうかイェリスへ、先王の志を継ぐ者たちの元へ御戻りください。再起の焔はいまは小さく……。しかし、エリストラートフ閣下が戻ればさらにその気勢は上がりましょう」
男の言葉のすべてをセピアは理解することはできなかった。
だが、何を意味するのかだけは、まるで雷に打たれたかのように明らかに受け取ることができた。
「ゔぃあいーぇんえー!」
セピアは彼女を抱きしめていたシーナを振りほどき、ヴィタリーに飛びついた。両手で彼の服をしっかりと握り「もう帰りたい」とサインを送る。
けれどヴィタリーは、セピアに応えてはくれなかった。
「エリストラートフ閣下、ご即断を。アレをお持ちであるかぎり、この屋敷へもまた人が参ります。いまなら私があなたはいなかったと情報を持ち帰ることも可能です。こちらのご令嬢にこれ以上の迷惑がかかることもないでしょう。ですが、それは、貴方様が先王から託された王杖のありかとともに、イェリスに戻ると約束してくださらなくてはなりません。私はあなたの部下ではない。あくまで旧王家の臣下、真の王の即位を願う者です」
「…………」
押し黙ったままのヴィタリーに焦れた顔を男はしたが、グッと唇を噛み、最大限の譲歩を示した。
「エリストラートフ閣下、明日までです。それ以上は待てません。我々が行く道には血が流れます。ですが、どうかご決断を」
その日の空気の重たさを、セピアはよく覚えている。
屋敷に戻ったヴィタリーは、シーナにこれまでのいきさつをすっかり話したようだった。
人目を避けるようにこもったちいさな部屋にあかりが灯る。
シーナはヴィタリーに向かい、深く頭を垂れた。
ヴィタリーの傍にはセピアがまるで彼を守るように寄り添っていた。
シーナはセピアを追い出したがったが、セピアは自分がこの家の主人だと、頑として聞き入れなかった。
「いえ、まさかこのようなご身分の方が家庭教師とは――、これまでの失礼を――」
「国は斃れました。爵位も、イェリスの現政権において、いまは飾りですらない。私は自分の中に蓄えた経験と知識のほかは、いまはなにももたざる者。この家の家庭教師以上の者と見る必要はない」
ヴィタリーは言ったが、シーナは毅然と述べ伝えた。
「ヴィタリーさま、そうは参りません。ご存じのようにフィン=ファムは傾きかけた家です。セピアお嬢様は当家を背負われる方。お話が確かなら、あなたは現状では隣国の叛徒に連なる方でいらっしゃる」
「…………」
「あなたと関わりがあったという事実がこの先セピア様の障りになることを、私は当家の家政を預かる者として考えねばなりません。不審な者を招き入れた咎で、いま追い出したという体なら傷は浅い」
「…………」
「セピアお嬢様について、コレまでのことには感謝しております。せいいっぱいの給金もお出しするつもりです。ですから――」
セピアはヴィタリーから離れ、言い淀むシーナに飛びついた。
もうこれ以上何もしゃべってほしくなくて、シーナの腰のあたりにとりつき、何度も彼女を握ったこぶしで叩いた。
シーナが悪くないのはわかっていた。
けれど、この先に待つのが別れだとどうしても知りたくなかった。
「セピアお嬢様を思われるのなら、すぐにも」
だれからも、それ以上の言葉はつむがれなかった。
たったひとときで決まった、サヨナラだった。
別れは夜に紛れて、ひっそりと行われた。フィン=ファムの別邸、裏口からの見送りは、セピアとシーナだけだった。
旅立つのは、髭の男と、いつまでもいてほしかったヴィタリー。
とりすがるでもなく、灰色の目でじっと見つめるだけのセピアに、ヴィタリーはなにを思ったのだろうか。
「セピア」
背の高いヴィタリーがかがみ込むと、少女のちいさな手は彼の銀髪を撫で、深い親愛を刻むように彼の首を両腕でぎゅっと抱きしめた。
ちいさな背を叩いてくれるヴィタリーの手が、どこまでもやさしかったことをセピアは覚えている。
髭の男が声をかけた。
「エリストラートフさま、お早く」
ヴィタリーは振り向き、うなずく。
そして押し黙ったままのセピアに語りかけた。
「セピア、あの時計は?」
セピアが服の隠しから時計を取り出すと、ヴィタリーはその手をぎゅっと閉じさせた。
「セピア。いつか、この時計を動かそう」
灰色の瞳の少女がうなずくと、ヴィタリーは立ち上がった。
セピアは呼んだ。
「ヴィタリー、せんせー」
一度背を向けたヴィタリーは振り返り、その目を細めたようにみえた。
そしてそれきり彼らは闇の向こうに消えて、二度とフィン=ファム家の土を踏むことはなかった。
セピア・フィン=ファムはきっと泣きくずれると、その屋敷の誰もが予感していたが、彼女は瞳をまっすぐに彼が去りゆく方へ向けるだけだった。
ちいさな手に残された希望を強くにぎりしめて。
◇
絶句したホゥアンは顔を青くして、語り部を見つめた。
「まさか……エリストラートフ」
「誰も知らない秘密のお話。どう、おもしろかった? 全部を本当のことだと思う必要はないのよ。私の作ったお話なのかもしれないのだから」
「閣下どうか、私めの失礼を……」
「あなたは何も知らなかった。咎めたりしないわ。あとは、宰相閣下にお会いして、すべてを確かめて」
放っておけば額を擦りつけんばかりの老儀礼官の肩に手をかけ「許す」と仕草で告げると、セピアはほほえみのまま、彼の向こうにみえるイェリスから繋がる扉を目にして立ち上がった。
扉が、開く。
供も連れず男がひとり、歩いてくる。
上背のある黒い外套の男だった。
あのころよりも、その銀の髪は白く思えた。彼の額には、昔はなかった傷跡があった。けれど、きびしく、ときにやさしかった薄青の瞳は変わらず、静かにセピアを見つめていた。
セピアは駆け出した。銀色の時計を握りしめたまま。
縦長のホールの白い石張りの床に、彼女の華奢な靴が立てる軽やかな音が響く。ホゥアンが止める隙などどこにもなかった。背中からかけられた声は彼女には届かない。
大理石で示した両国の国境を、セピアはまるで白い鳥のように飛び越えた。
「イェリス宰相、エリストラートフ侯爵閣下。お会いできて光栄です」
「遅延と旅着のままの失礼をお許しください。セピア・フィン=ファム大使閣下、おてんばはお変わりでないようだ。――ほんとうに、美しくお育ちになった」
「ヴィタリー、先生」
セピアはヴィタリーの手をとり、そっとひみつを語るように自分の指先を押し当てる。
「会いたかった」と告げる指文字は、幼い日の無邪気さでヴィタリーの手のひらに描かれた。
薄青の瞳がなつかしげに細められる。
ヴィタリーは言った。
「セピア、手を」
差し出したセピア・フィン=ファムの白い手には、とまったままの銀色の時を動かす、ちいさな約束が渡された。
fin