第6話 和解
「入らないのか?」
霧島蓮は隣に立つ山田真へ声をかけた。
真は答えない。
ただ目の前のビルを見上げていた。
義兄の井出彬が所有するビル。
その二十階。
今、そこにいる人物のことを考えているのだろう。
愛。
真の妻。
長い間、会うことのできなかった人。
「もう、二時間だぞ」
蓮は呆れながら言った。
「そろそろ入った方がいいんじゃないか?」
「……緊張する」
「今さらか」
「今さらだ」
世界を救った男とは思えない返事だった。
蓮は吹き出した。
「よし」
そう言うと真の腕を掴む。
「うおっ!?」
「行くぞ」
「待て待て待て!」
「待たない」
こういう時に背中を押してやるのも親友の仕事だ。
たぶん。
二人はそのまま一階の食堂へ入った。
昼時を少し過ぎている。
店内はかなり混み合っていた。
だが不思議なことに。
カウンター席が二つだけ空いていた。
「運命だな」
蓮が笑う。
「仕組んだだろ」
「なんのことだ?」
真が半眼になった。
席へ座る。
すると店員がやってくる。
「お客様、ご注文がお決まりになりましたらお声がけください」
聞き慣れた声だった。
真が思わず顔を上げる。
蓮も微笑む。
山田博樹。
エプロン姿の博樹だった。
本人は気付いていない。
客に変装した父親が目の前にいることに。
「のどぐろ定食を二つ」
蓮が注文する。
「かしこまりました!」
博樹は厨房へ振り返った。
「のどぐろ定食二つです!」
元気な声が店内に響く。
その姿を見た真は。
少しだけ泣きそうな顔をしていた。
やがて料理が運ばれてくる。
脂の乗ったのどぐろ。
炊きたての白飯。
味噌汁。
香の物。
「うまそうだな」
「うまいぞ」
蓮が先に箸をつける。
本当にうまかった。
その時だった。
「あなた」
女性の声。
真の身体が固まる。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは。
愛だった。
時間が止まったようだった。
周囲の音が消える。
会話も。
食器の音も。
何も聞こえない。
ただ。
二人だけが見えていた。
「お疲れさまでした」
愛はそう言った。
たったそれだけ。
たった一言だった。
だが。
真は泣いた。
愛も泣いていた。
ずっと待っていた。
ずっと信じていた。
それだけで十分だった。
愛は小さな鍵を差し出した。
「帰りましょう」
真は震える手で受け取る。
言葉が出ない。
何度も何度も頷いていた。
蓮は黙って焼き魚を食べていた。
二人を見ないように。
気を使っていた。
だが。
自分も泣いていた。
本当に良かった。
そう思った。
そこへ義兄の井出彬が現れる。
「おう」
相変わらず豪快な声だった。
「今は俺の料理を食べろ」
彬は笑う。
「そのあと上の家へ帰れ」
真は涙を拭きながら頷いた。
博樹とHEROは事情を知らない。
不思議そうにしている。
だが。
それで良かった。
こういう話は。
大人たちだけで十分だ。
食事を終えた蓮は立ち上がる。
「先に失礼する」
彬へ頭を下げる。
真へも軽く手を振った。
「じゃあな」
「……蓮」
「ん?」
真は少しだけ笑った。
「ありがとう」
蓮も笑う。
「どういたしまして」
それだけだった。
ビルを出る。
黒塗りの社用車が待機していた。
運転手がすぐにドアを開ける。
「お疲れさまです」
「どうだった?」
「何がです?」
蓮は肩をすくめる。
「のどぐろ定食」
運転手は笑った。
「最高でした」
「だろう?二つ星だからな」
蓮は後部座席へ腰を下ろす。
窓の外を見上げた。
今ごろ。
真は家へ戻っているだろう。
机の上にはきっと真だけの名前が書かれた離婚届。
愛は提出していなかったのだ。
博樹とHEROも帰宅する。
久しぶりの親子の再会。
気まずいかもしれない。
照れるかもしれない。
でも。
たぶん大丈夫だ。
だって親子だから。
「良かったな」
蓮は誰にともなく呟いた。
そして静かに目を閉じる。
長い冒険が終わった。
だから今日くらいは。
少しだけ安心してもいいだろう。




