見知らぬ差出人
一度、深く息を吸ってから、私はゆっくりと封を切った。
中には、几帳面な文字で綴られた便箋が一枚。差出人の名を、改めて確認する。
――ヴィルヘルム・フォン・ライテンベルク。
辺境伯家の名だった。社交界の噂で、名前だけは耳にしたことがある。跡継ぎの長男でありながら、社交の場にはほとんど姿を見せない、変わり者だと。
辺境伯家といえば、公爵家にこそ及ばないものの、通常の伯爵家とは一線を画す、特別な家格だ。国境の守りを担う責任の重さゆえに、爵位以上の発言力を持つとも聞く。そんな家から、よりにもよって、没落しかけの子爵家の娘である自分に、いったい何の用件だろう。
「突然のお手紙、失礼いたします。エミーリア・クラインリヒト嬢に、折り入ってお願いしたいことがございます」
書き出しの丁寧さに、少しだけ緊張が緩む。少なくとも、からかい目的の手紙ではなさそうだ。
「不躾ながら、あなた様の評判を、伝手を通じて伺いました。婚活のお力添えをされている、と」
婚活の、お力添え。
一瞬、何のことか分からなかった。心当たりといえば、体調を崩した令嬢たちに、食事や眠りについて助言してきただけのはずだ。人違いだろうか、そう思いかけて、続きに目を通す。
「私の母は、ヴァイセンベルク侯爵夫人と幼馴染だそうで。アンネリーゼ嬢の縁談が、ここ最近で良い方向に動いたと、大変な喜びようで話しておりました。その経緯に、あなた様が深く関わっていらっしゃるとか」
ああ、そういうことか。
体調を整えるお手伝いをしただけのつもりが、いつの間にか"婚活のお力添え"として、こんな遠くの家にまで伝わっていたらしい。自分の知らないところで、評判が形を変えて広まっていく感覚に、めまいにも似たものを覚えた。
「加えて、聞くところによれば、あのアーデルシュタイン公爵家のご令嬢にも、内々にお力添えをされているとか。あの家が、そう易々と外部の人間を頼るとは思えません。それほどまでに、確かな信頼を得ていらっしゃるのだろうと、拝察いたしました」
イルゼヴィーネ様の名までもが、こうして一人歩きしていることに、背筋が冷えた。あれほど「内密に」と念を押されていたのに、社交界の情報網は、私が思うよりずっと精巧に張り巡らされているらしい。
手紙は、さらに続いていた。
「単刀直入に申し上げます。私自身、縁談について悩みを抱えております。これまで、幾度か見合いの席を設けていただきましたが、いずれも上手くいったことがございません」
「原因は、私自身にあると自覚しております。恥を忍んで申し上げますと、私は、人と話すことがどうにも苦手なのです。何を話せばよいのか分からず、黙り込んでしまう。相手が気を遣って話しかけてくださっても、うまく言葉を返せず、場をしらけさせてしまう。そうしたことの繰り返しで、これまでの見合いは、ことごとく立ち消えになりました」
思わず、口元が緩んだ。
――ああ、こういう人、前世でもよく見た気がする。
悪気があるわけでも、相手を軽んじているわけでもない。ただ、単純に、人との距離の詰め方が分からないだけの人。そういう人を、私は何人も知っていた。
「差し出がましいお願いとは存じますが、一度、お目にかかってご相談させていただくことは叶いますでしょうか」
これまでの相談とは、明らかに性質が違う。体調や食事の話であれば、前世の知識という土台があった。けれど、恋愛や婚活に関する悩みとなると、勝手が違う気がした。
――いや、本当にそうだろうか。
考えてみれば、前世でも、似たような話は嫌というほど読み漁っていた。「話が続かない」「初対面で何を話せばいいか分からない」、そんな悩み相談も、数え切れないほど目にしてきた気がする。身体の知識ほど、体系立てて調べたわけではない。それでも、頭の片隅には、断片的な知識が残っているはずだった。
「原因は、私自身にあると自覚しております」という一文も、頭から離れなかった。自分の至らなさを、他人事にせず、まず自分の言葉で認めている。そんな人を、無下に断る気にはなれなかった。
その晩、夕食の席で、私はつい上の空になっていた。
「エミーリア、さっきから箸が止まっているわよ」
母に指摘され、我に返る。
「……ごめんなさい。少し、考えごとをしていて」
「珍しいわね。何かあったの?」
「ちょっとした、相談事が舞い込んで。少し、勝手が違うお話だったから」
「勝手が違う、というと?」
母は箸を置き、こちらをまっすぐに見た。誤魔化しを許さない、そんな眼差しだった。
「その……体調の相談ではなく、今度は、婚活そのものの相談で。私に務まるかどうか、正直、自信がなくて」
「あら」
母は少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと表情を緩めた。
「でも、あなた、ここのところ、随分と色々な方のお力になってきたじゃない。今更、自信がないなんて」
「今までとは、勝手が違うから」
「そうかもしれないけど」
母は、こちらをまっすぐに見つめた。
「エミーリア。あなたが迷っているときは、大抵、やる前から答えを決めているものよ。本当に嫌なら、最初から断っているでしょう」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
「……そう、かもしれない」
そう答えながら、ふと思い出す。前世で読み漁った、あの数え切れない体験談の数々を。もしかしたら、あれも、今度こそ役に立つのかもしれない。
「無理はしないでね。それだけ、忘れないで」
母のその一言に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
食後、自室に戻った私は、改めて便箋に向き合った。何を書けばいいのか、迷いはまだ残っていた。先ほどよりは、少しだけ前向きな迷いに変わっている気がした。
それでも、ペンを置くことはできなかった。何度か書いては消し、消しては書き直し、ようやく短い返事をしたためる。「力になれるかは分かりませんが、まずはお話を伺わせてください」――そう書き終えて、後日、お目にかかる旨を書き送った。
指定された日、辺境伯家の別邸へと向かう馬車の中で、私は密かに緊張していた。
窓の外を流れる景色は、見慣れたはずの王都の街並みなのに、今日はやけに遠く感じられる。
いったい、どんな方なのだろう。
手紙の文面からは、実直そうな人柄がうかがえた。それでも、実際に顔を合わせてみるまでは、何も分からない。もし想像とまるで違う人物だったら。そう考えるだけで、指先が冷たくなる気がした。
馬車が停まり、私は案内されるまま、応接間へと通された。
扉の向こうに、待っていたのは――




