素のままで
イルゼヴィーネ様のもとへ通うようになってから、二月ほどが過ぎていた。
その日、届いた一通の手紙の差出人を見て、私は思わず手を止めた。マリーカ様からだった。
そういえば、彼女の見合いは、もうとっくに終わっている頃合いだ。イルゼヴィーネ様の件にかかりきりで、すっかり結果を聞きそびれていたことに、今更ながら気づく。
封を切る指先が、少しだけ震えた。良い知らせであってほしい、と願いながら、私は便箋を開いた。
「エミーリア様、ご無沙汰しております。ご報告が遅くなり、申し訳ございません」
そう書き出された文字は、以前よりも、心なしか丸みを帯びているように見えた。緊張で震えていたあの日の筆跡とは、まるで別人のようだった。
「先日の見合い、無事に終えることができました。結論から申し上げますと、まだお返事をいただく段階ではないのですが……お相手の方から、次にお茶をご一緒しませんか、とお声がけいただきました」
思わず、便箋を持つ手に力がこもった。悪くない、どころか、上出来な結果だ。
「実を申しますと、私が恐れていたのは、痩せられないことそのものより、"また同じように失敗するかもしれない"ということでした。以前の見合いでは、緊張のあまり食事が喉を通らず、その後、体調を崩して寝込んでしまったことがあって……」
初めて聞く話だった。マリーカ様が抱えていたのは、単なる体型の悩みだけではなかったのだと、今更ながら気づかされる。
「今回は、そうならずに済んだこと自体が、何よりの収穫でした。エミーリア様に教えていただいた通り、朝からきちんと食事をとりました。おかげで、頭がぼんやりすることもなく、思っていたよりも自然に受け答えができた気がします」
「それと、当日は無理に自分を良く見せようとせず、相手の方の話に耳を傾けることを心がけました。何を話そうかと気を張りすぎず、"聞く側"に回ると、思いのほか肩の力が抜けるのですね」
手紙は、そこで一度言葉を切ったあと、また続いていた。
「お相手の方に、何か特別なことを申し上げたわけではありません。ただ、以前のように無理をしていなかった分、素の自分で話せたように思います。それが良かったのかどうかは分かりませんが、少なくとも、後悔のない見合いにはなりました。エミーリア様のおかげです。心より、感謝申し上げます」
読み終えて、私はしばらく便箋を見つめていた。窓の外では、庭木の葉が風に揺れている。
魔法のように、劇的に何かが変わったわけではない。それでも、マリーカ様は、自分の足で、次の一歩を踏み出せたのだ。
その事実が、じんわりと胸に染み込んでいく。
私が渡したのは、大した助言ではなかった。ただ、食事を抜かないこと。眠りを整えること。無理に自分を良く見せようとしないこと。それだけの、地味な積み重ねだった。
それでも、その積み重ねが、誰かの人生の分かれ道で、少しだけ力になれたのかもしれない。
私は机に向かい、返事をしたためた。喜びを分かち合う言葉に続けて、もう一つだけ、助言を書き添える。
「今後、緊張する場面の前は、消化に負担のかかる重いものより、温かいスープや、柔らかく煮た野菜のような、胃に優しいものを選ぶとよいと思います。緊張で胃の動きが鈍っている時に、重いものを詰め込むと、かえって体調を崩しやすくなりますから」
これも、前世でよく見聞きした、ちょっとした知恵の一つだった。便箋を二枚、丁寧に埋めていく。
「良い知らせ?」
不意に声をかけられ、顔を上げると、グレーテ姉様が部屋の入り口から、こちらを覗き込んでいた。私の相談事にいつも気づくのは、決まって彼女だった。他の姉たちが気にも留めない中、なぜかグレーテ姉様だけは、こうして時折、様子を伺いに来る。
「……ええ、まあ」
「随分、嬉しそうな顔をしているわよ」
からかうように言われて、頬が熱くなるのを感じた。人の幸せを、自分のことのように喜んでいるところを見られるのは、少し気恥ずかしい。
「そんなこと、ないと思うけど」
「あら、そう?」
姉は、それ以上は追及せず、小さく笑って部屋を出ていった。その気遣いに、密かにほっとする。
一人になった部屋で、マリーカ様の便箋を、もう一度眺める。
アンネリーゼ様、マリーカ様、そしてイルゼヴィーネ様。これまで関わってきた方々の顔が、順に頭に浮かんだ。
――一体、どれだけの令嬢が、あの雫に頼り、同じように苦しんでいるのだろう。
私が声をかけられたのは、ほんの数人に過ぎない。声を上げられずにいる人が、この社交界に、まだどれほど埋もれているのか。考え始めると、少し怖くなった。
マリーカ様への返事を書き終え、封をしたところで、机の端にもう一通、手紙が残っていることに気づいた。届いたのは数日前だったはずだが、忙しさに紛れて、まだ開けていなかったものだ。
差出人の名を見て、私は思わず手を止めた。
見覚えのない名だった。それも、これまで届いていた手紙とは違い、女性のものではない。
これまで舞い込んでいたのは、悩みを抱えた令嬢たちからの、決まって女性名義の手紙ばかりだった。男性から、それも見知らぬ名で手紙が届くことなど、一度もなかったはずだ。
手に取ったまま、しばらく開けられずにいた。
万が一、これまでの噂を聞きつけた誰かが、良からぬ意図で寄越したものだったら。あるいは、公爵家の一件のように、また何か厄介な話が待っているのだとしたら。
そんな想像ばかりが、次々と頭をよぎる。
窓の外では、日が傾き始めていた。橙色の光が、机の上の封筒を、じわりと染めていく。
いつまでも開けずにいるわけにはいかない。私は一度、深く息を吸ってから、ゆっくりと封を切った。




