お守り代わり
それから、イルゼヴィーネ様とは、月に二度ほどの頻度で顔を合わせるようになった。
その日、応接間に通されると、イルゼヴィーネ様は、いつものように扇を弄びながら、窓の外を眺めていた。何を考えているのか、こちらに視線を向けようともしない。
「……いらっしゃい」
素っ気ない挨拶だった。それでも、いつもの刺々しさが、心なしか薄い。
「失礼いたします。あれから、お身体の調子はいかがでしょうか」
「特に、何も」
短い答えが返ってくる。それでも、以前のように、こちらの言葉を遮るような勢いはなかった。
「だるさや、肌の調子はいかがでしょうか」
「……少しだけ、朝の目覚めが楽になった、気はするけれど」
だが、イルゼヴィーネ様は、卓上の焼き菓子に手をつけないまま、ちらちらと窓の外へ目をやっていた。心ここにあらず、という様子だった。
「差し出がましいことをお伺いしますが……何か、気になることでも?」
思い切って尋ねると、扇を持つ指先が、ぴたりと止まった。
「……来週のことよ」
「来週、と申しますと」
「公爵家の夜会。分家の方々も、皆いらっしゃる」
一月前、アンネリーゼ様の便りにあった一文が、頭をよぎる。分家との揉め事、という漠然とした噂も。
「……今回の夜会は、私にとって、少し大切な意味があるの」
イルゼヴィーネ様は、扇を持つ手で口元を隠した。
「あなたには関係のない、家の事情よ。詳しくは話せないけれど」
「差し支えなければ、体調面だけでも整えられるよう、お手伝いさせてください」
「……そのつもりで呼んだのだけれど」
短く答えると、イルゼヴィーネ様は、初めて自分から続きを口にした。
「あの夜会で、どう見られるかが、色々と関わってくるの。今更、慌てて何かを変えられるとも思えないけれど」
声に、普段の高慢さとは違う、切羽詰まった響きがあった。
「夜会までの残り日数で、無理に劇的な変化を起こそうとするのは、おすすめしません。かえって体調を崩しかねません」
「では、どうしろと?」
「今できるのは、今までの積み重ねを、崩さないことです。それに――当日、少しでも身体が軽く感じられるよう、前日の食事と眠りだけは、念入りに整えましょう」
イルゼヴィーネ様は、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐く。窓の外の雲が、ゆっくりと形を変えていた。
「……随分と、消極的な話ね」
「はい。付け焼き刃で取り繕うより、今の積み重ねを信じていただく方が、確実だと思っています」
「信じる、か」
呟くように繰り返すと、イルゼヴィーネ様は、窓の外に視線を戻した。
「眠りにくい夜が、続いているの。考えることが、多すぎて」
初めて聞く、弱さの滲んだ声だった。私は、踏み込みすぎないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「よろしければ、当日までの間、眠る前に温かいものを。それだけでも、少しは違うと思います」
「温かいもの?」
「はちみつを溶かした、白湯のようなものです。難しいものではありません」
イルゼヴィーネ様は、少し呆れたように眉を上げた。
「本当に、地味な話ばかりね」
「はい。本当に、地味なことしかできませんので」
その返しに、イルゼヴィーネ様は、ふっと小さく息を漏らした。笑ったのか、呆れたのか、判別のつかない表情だった。
「今日のところは、これで十分よ」
辞去の礼をして、私は部屋を後にした。扉を閉める間際、振り返る。
イルゼヴィーネ様は、卓上に残された焼き菓子を、じっと見つめていた。
公爵邸を後にしながら、私は小さく息を吐いた。
――来週の夜会が、何か大きな分かれ目になる。
それが何なのか、まだ全てを聞かせてもらえたわけではない。それでも、少しずつ、彼女の抱えているものの輪郭が、見え始めていた。
家に戻ってからも、その言葉が頭から離れなかった。
「あの夜会で、どう見られるかが、色々と関わってくる」――あれは、単なる社交辞令とは思えない響きだった。
迷った末、私はアンネリーゼ様に、それとなく手紙を書いた。「来週の公爵家の夜会について、もし何かご存知でしたら」と。
数日後、届いた返事には、こうあった。
「詳しいことは分からないのですが……あの夜会、分家の方々が本家の後継について、正式に意見を申し立てる場になる、という話を耳にしました。真偽のほどは分かりませんが」
手紙を読みながら、私は小さく息を呑んだ。
もし本当なら、イルゼヴィーネ様にとって、あの夜会は――ただの社交の場ではなく、家の未来を左右する舞台なのかもしれない。
だとすれば、私にできることは、あまりにも小さい。眠る前の白湯一杯、規則正しい食事。それだけで、彼女の抱える重圧が軽くなるとは、到底思えなかった。
それでも。
「今できることを、きちんとやる」
そう自分に言い聞かせながら、私は次の訪問に向けて、当日の過ごし方を、もう一度丁寧に書き出し始めた。
食事と眠りだけでは足りない気がした。緊張で頭が真っ白になりかけた時、まず息を最後まで吐き切ること。吸うことよりも、しっかり吐き切る方が大切だと、前世でよく目にしていた。手のひらを強く握って開く動作を繰り返すと、幾分か落ち着きを取り戻せること。前世で、大事な場面の前によく調べていた、些細な知識の数々だった。
こんなものが、本当に役に立つのだろうか。正直、確信はない。それでも、何もしないよりはましだと、自分に言い聞かせた。
数日後、次の訪問で、私はその紙をイルゼヴィーネ様に差し出した。
「当日、もし緊張で息苦しく感じたら、これを」
イルゼヴィーネ様は、怪訝そうに紙を受け取った。
「……深呼吸をしろ、と?そんなことで、何が変わるというの」
「大きくは変わらないかもしれません。ただ、吸うことより、まず息を全部吐き切ることを意識してみてください。緊張していると、知らないうちに息を止めがちなので」
「正直に言うと、それだけで劇的に楽になるとは限りません。それでも、何もせず不安に飲まれるよりは、少しはましだと思います」
イルゼヴィーネ様は、しばらく紙を見つめていた。窓辺に落ちる西日が、紙の端をわずかに照らしていた。それから、折り畳んで、そっと懐にしまった。
「……お守り代わりに、持っておいてあげるわ」
突き放すような口調だった。それでも、その仕草には、以前にはなかった素直さが混じっていた。




