我慢と反動
それから数日後、再び公爵邸へ呼び出された。
前回と同じ、人気のない離れの一室。案内されながら、私は懐に忍ばせた紙を、そっと確かめた。昨夜、何度も書き直した末、ようやく清書し終えたものだ。
扉を開けると、イルゼヴィーネ様はすでに待っていた。開口一番、こう言われる。
「それで?何をすればいいのかしら。手短に」
急かすような口調に、少し面食らいながらも、私は用意していた言葉を、頭の中から引き出した。
「本来でしたら、まずは規則正しく、三食きちんと召し上がることから始めていただきたいと思っておりました」
「まずは、というと?」
「はい。ただ、その前に一つ、確認させてください。夜会の前は、どのくらい召し上がっていますか?」
「食べていないわ。当然でしょう。少しでも綺麗に見せたいのだから」
やはり、と思う。アンネリーゼ様の時と同じ理屈だ。
「では、夜会の後は、どのくらい召し上がっていますか?」
「たくさん食べるわ。我慢していた分、当然でしょう」
その答えに、私は思わず言葉を止めた。
(あれ……)
「たくさん、というと、どれくらい」
「日によるけれど……菓子だけで、片手では足りないくらい」
その量に、内心で少し驚く。単に"減らしすぎ"というだけでは、説明がつかない量だった。
「そういうことは、よくあるのでしょうか」
「夜会がある度に、大抵はそうね」
「……それは、いつ頃からですか」
「さあ。社交界に出た頃には、もうそうだった気がするわ」
言われて、私は用意していた説明を、頭の中で組み立て直した。単なる食事量の問題ではない。我慢と反動を、長年繰り返してきたのだとしたら。
「実は、最初にお伝えしようとしていたことと、少し違うお話になるかもしれません」
「どういうこと?」
「規則正しく食べる、というだけでは、おそらく足りません。長年の我慢と反動の繰り返しで、身体が"次はいつ我慢させられるか分からない"と、常に身構えている状態だと思うんです」
「……それで?」
「夜会の前だけ我慢するのではなく、普段から、極端に減らさない食事を続ける必要があります。一度や二度、変えただけでは、身体は簡単には信用してくれません」
イルゼヴィーネ様の眉が、不快そうに寄った。
「つまり、これから先もずっと、我慢しなくていいと?」
「――随分と、都合のいい話ね」
疑わしげな声だった。私は、慌てて言葉を継いだ。
「我慢しなくていい、というより……規則正しく、決まった量を、決まった時に。それを続けることが大切なんです。反動で好きなだけ召し上がる、というのとは、少し違います」
「では、菓子は?」
少し、探るような聞き方だった。夜会の後に食べていた量を思い出し、私は続ける。
「無理にやめる必要はありません。ただ、我慢の反動として食べるのと、決まった分を、楽しみとして召し上がるのとでは、意味が違います。規則正しく食事を摂れるようになれば、我慢が積み重なって、菓子に手が伸びる、ということ自体、少しずつ減っていくはずです」
イルゼヴィーネ様は、しばらく黙っていた。それでも、扇を持つ手は、心なしか緩んでいるように見えた。
私は、懐から清書を取り出し、両手で丁寧に差し出した。
「一日の目安を、まとめてまいりました。よろしければ、お目通しいただけますか」
イルゼヴィーネ様は、しばらく無言でそれを見つめていた。細かく分けられた食事の量や、日ごとの違いに、少し驚いたような表情を浮かべる。
「……随分と、几帳面なのね」
意外そうな声だった。それから、紙を捲る指先が、思いのほか丁寧だった。少なくとも、無下に扱うつもりはないらしい。
「念のため、伺ってもよろしいでしょうか。日頃、体を動かす機会は、おありですか」
「……なぜ、そんなことを聞くの」
「人によって、身体のつき方に違いがあるので。よく動かれる方と、そうでない方とでは、向くやり方も変わってきます」
イルゼヴィーネ様は、少し考えるように視線を逸らした。窓の外を、鳥が一羽、横切っていった。
「好きでも嫌いでもないけれど……剣術の稽古なら、幼い頃から続けているわ」
意外な答えだった。貴族令嬢が体を動かすのは"はしたない"とされる風潮があると聞いていたし、何より、目の前の細い肩や華奢な手首からは、剣を握る姿がまるで想像できなかった。
「差し支えなければ、なぜ剣術を?」
踏み込みすぎただろうか。そう思った矢先、イルゼヴィーネ様の表情が、わずかに硬くなった。
「……母の教えよ。淑女らしい振る舞いだけでなく、いざという時、自分の身は自分で守れるようにと」
それだけ言うと、扇を持つ手に、また力がこもった。それ以上は踏み込むな、という合図のように思えた。
「……そうでしたか」
それきり、気まずい沈黙が落ちた。何か言葉を継がなければと焦るほど、次の言葉が出てこない。
沈黙を破ったのは、イルゼヴィーネ様の方だった。
「……それで?剣術の話が、何になるというの」
助け舟のような一言に、私は内心でほっとしながら、慌てて言葉を継いだ。
「あ……その、剣術を続けていらっしゃるなら、話は変わってきます。身体を動かす分、消費する分も多いはずです。それなのに、召し上がる量が人並みのままでは、身体を作る材料そのものが足りていないのかもしれません」
「材料、というと?」
「特に、お肉やお魚、卵といった、身体を作るもとになるものです。今までよりも一回り、掌半分ほど多く。それを、まとめてではなく、三食に分けて、規則正しく召し上がってください」
「そんな考え方、初めて聞いたわ」
半信半疑の声だった。それでも、その目には、わずかな興味の色が浮かんでいるように見えた。
「信じていただけなくても構いません。ただ、試していただくことは、できますか。まずは、今日から」
イルゼヴィーネ様は、しばらく手元の紙に目を落としていた。それから、静かに息を吐く。
「……分かったわ。せいぜい見ていなさい」
高慢な物言いだったが、その口ぶりには、初めて他人任せではない響きがあった。
「次に来るよう伝えるまで、勝手に姿を見せるんじゃないわよ」
釘を刺すような一言。それでも、私は密かに小さく息を吐いた。
公爵邸を辞し、帰りの馬車に揺られながら、私は懐から空になった紙入れを取り出し、ぼんやりと眺めた。
剣術を続けている、というのは、正直に言えば予想外だった。アンネリーゼ様とも、マリーカ様とも違う。一人ひとり、事情も、身体も、違って当然なのに、つい同じやり方で当てはめようとしていた自分に、少し反省した。
これは、思っていたよりも、少し長い道のりになりそうだ。それでも、今の私にできることは、この一歩を、次に繋げることだけだった。




