付け焼き刃では臨めない
公爵邸からの帰り道、馬車に揺られながら、私はすでに、次の訪問のことを考え始めていた。
今日は、その場で思いついたことを、そのままお伝えした部分もある。次までに、もっと具体的な食事の内容や、日々の過ごし方まで、きちんと言葉にして用意しておかなければ。
窓の外を流れる景色を眺めながら、ふと、悪い想像が頭をよぎった。
もし、私が的外れな助言をして、イルゼヴィーネ様の不興を買ったら。
役に立たないと判断されれば、私自身が締め出されるだけでは済まないかもしれない。公爵家に楯突いた家、として、クラインリヒト家の名にまで、悪い噂が及ぶ可能性だってある。
これまでの相談は、いずれも相手の方から、藁にもすがる思いで頼ってきてくださった。それが今回は、勝手が違う。
家に戻ると、玄関先で母が出迎えてくれた。灯り取りの窓から差し込む夕日が、廊下を橙色に染めていた。
「あら、エミーリア。浮かない顔ね」
「……ううん、なんでもない。ちょっと、考えごと」
心配をかけまいと、努めて明るく答えた。それでも、内心では、いつも以上に慎重に、隙のない答えを持っていかなければ、という思いが強くなっていた。
夕食の席でも、私はほとんど上の空だった。父の代わりに家のことを取り仕切る母が、今日も帳簿を前に、あれこれと算段をつけている。その横顔を見ながら、もし私が公爵家の不興を買うようなことになれば、母のこの苦労も、水の泡になるかもしれない――そんな考えが、頭から離れなかった。
食事を終えると、私はすぐに自室へこもり、机に向かった。思いつく限りのことを書き出していく。何を、どのくらい。日によって変えるべきこと。体調が優れない日の対処法。
それだけでは、まだ足りない気がした。数日後に控えていた、小さなお茶会。そこにはマリーカ様も招かれていた。
庭に咲く薔薇を眺めながら、誰かが「今年は綺麗に咲きましたね」と口にした。
その一言に、私はふと思い出したふりをして、マリーカ様にだけ聞こえるよう、声を落とした。
「薔薇といえば……『氷の薔薇』って、社交界で呼ばれている方がいらっしゃいますよね。アーデルシュタイン家の」
「ああ、イルゼヴィーネ様ね」
「あまり存じ上げなくて。どんな方なのかしら、と」
マリーカ様は、少し声を潜めた。
「私もあまり詳しくは知らないのだけれど……最近、公爵家では分家との間で、何か揉め事があるらしいって、社交界でちらほら聞くわね。詳しいことまでは、私には分からないけれど」
漠然とした話だったが、無下にはできない。少しでも手がかりになるならと、私はその一言を、大事に持ち帰ることにした。
その日のお茶会には、私が最近、公爵家へ何度か足を運んでいる、という噂も、誰からともなく広まっていたらしい。
数日後、思いがけず、アンネリーゼ様から便りが届いた。
「エミーリア様が、イルゼヴィーネ様のところへ通われているという噂を耳にしました。差し出がましいとは思ったのですが……もしかして、私の時と同じように、お力になろうとされているのでは、と」
手紙を読みながら、私は思わず口元が緩むのを感じた。図星を、こんな形で言い当てられるとは思わなかった。
「もしそうなら、少しでもお役に立てればと思い、筆を取りました」
「実は先日の夜会で、イルゼヴィーネ様をお見かけしたのですが……誰かに体型のことで軽く話題を振られた際、一瞬、表情が固まるのが見えました。すぐにいつもの微笑みに戻られたので、他の方は気づかなかったと思うのですが」
ほんの些細な、一瞬の綻び。それでも、アンネリーゼ様は見逃さなかったのだろう。
「あの一瞬の顔つきが、ずっと気にかかっていて。もしかして、何か理由があるのではと思い、母に少し尋ねてみたのです」
「実は、母が昔、アーデルシュタイン家と多少の付き合いがございまして。イルゼヴィーネ様のお母様は、大変厳しい方だったと聞いたことがあるのです。物心つく前から、一日の大半を作法や教養の稽古に費やされていたとか。少しでも出来が悪いと、食事を抜かれることもあったそうです」
「今も、お母様の目は厳しいままだと聞きます。それに、来月には、公爵家で大きな夜会が開かれるとか。分家の方々も集まる、大切な催しだそうです」
それだけを書き記して、手紙は結ばれていた。
二通の手紙を並べて、私はしばらく考え込んだ。灯りの下で、便箋の端が少し丸まっているのに気づく。何度も読み返した証だった。
食事を抜かれる、という一節が、なぜだか頭から離れなかった。もし本当なら、彼女にとって「食べないこと」は、幼い頃から「正しくあるための我慢」として、身体に刻み込まれているのかもしれない。だとすれば、「たくさん食べてください」という助言は、私が思っている以上に、彼女の根幹に触れる話になる。
もちろん、あくまで噂に過ぎない。真偽は分からないし、この話を知ったからといって、態度を変えるつもりもなかった。私にできるのは、変わらず、目の前にある不調と向き合うことだけだ。
それでも――今度こそ、隙のない答えを、できる限り、丁寧な言葉で用意していかなければ。
そう思い直し、私は書きかけの下書きを、また一から見直し始めた。誰かの人生の一部に踏み込む以上、いい加減な言葉は、渡せない。
気づけば、夜はすっかり更けていた。それでも、明日イルゼヴィーネ様にお伝えする内容を、私は何度も書き直し続けた。




