氷の薔薇
「アーデルシュタイン公爵家のイルゼヴィーネ様、というと……」
招待状を手に、母が声を潜めた。
「社交界で『氷の薔薇』と呼ばれている、あの方でしょう。気に入らない令嬢は、扇の一振りで社交界から締め出してしまうとか」
「お気に召さない受け答えをした侍女を、その場で解雇したという話も聞いたことがあるわ」
グレーテ姉様までもが、青い顔で付け加える。
穏やかではない噂ばかりだった。それでも、断れるはずもない。
翌日、指定された時刻に、私は公爵邸へと向かった。馬車の窓から見える街並みが、いつもより遠く感じられた。
指定された応接間は、公爵邸の中でも人目につかない、離れの一室だった。廊下を歩くたび、足音が思いのほか大きく響いた。
扉を開けると、そこにいたのは――薔薇のように華やかな美貌に、氷のように凪いだ表情を浮かべた令嬢、イルゼヴィーネ・フォン・アーデルシュタイン、その人だった。
銀の髪をきっちりと高い位置でまとめ上げ、乱れ一つない。結い目には、青い薔薇をあしらった髪飾り。灰がかった青の瞳は、感情を映さず、真っ直ぐにこちらを見据えている。唇にだけ、深い紅が差されていた。
「あなたが、あちこちで妙な噂を広めている令嬢ね」
前置きも挨拶もなく、開口一番にそう告げられた。
「妙な、噂、でしょうか」
「アンネリーゼだの、どこぞの伯爵令嬢だのに、怪しげな健康法を吹き込んでいるという話よ。素性の知れない子爵家の四女風情が、いったい何様のつもりかしら」
扇の陰から覗く瞳が、値踏みするように私を上から下まで見る。侍女すら下がらせているのか、部屋には私たち二人きりだった。
冷ややかな口調に、背筋が凍る。噂通りの人だ。
「……申し訳ございません。差し出がましい真似をしたとお思いでしたら」
「別に、謝ってほしいわけではないのよ」
イルゼヴィーネ様は、扇をぱちりと閉じた。乾いた音が、静かな部屋に響く。
「それで?あなた、いったい何をしたのかしら。アンネリーゼのあの変わりよう」
咎めるためではなかったのか。戸惑いながらも、私は答える。
「特別なことは、何も。ただ、少しお身体に合ったやり方をお伝えしただけです」
「ふぅん」
興味なさそうな相槌。だが、視線だけはこちらから離れない。
(あれ……顔色、悪くない?厚化粧で隠してるけど、目の下、かなり……)
見ればイルゼヴィーネ様は、扇を持つ手とは反対の手で、ドレスの裾を強く握りしめていた。関節が白くなるほどに。
「……ちなみに聞くのだけれど」
しばらくの沈黙のあと、彼女は扇で口元を隠しながら、ぽつりと付け足した。
「『月影の雫』を、何度も受けている人間の話――あなた、何か知っていて?」
問いかけの声は、それまでの高慢さとは少し違って聞こえた。
なるほど、これが本題だったのか。
――ああ、この人も。
そう思うと同時に、心の奥で、小さな緊張が芽生えるのを感じた。
これは、アンネリーゼ様の時とは、少し違う。目の前にいるのは、社交界の頂点に立つ公爵家の令嬢だ。
うまくやれるだろうか。
不安と、それでも見過ごせないという気持ちが、綱引きをしていた。
「……知っている、というと語弊があります。ただ、似たような話を、何度か伺ったことはあります」
正直にそう答えると、イルゼヴィーネ様の眉が、ぴくりと動いた。
「似たような話?」
「はい。何度か施術を重ねるうちに、思うような効果が続かなくなった、という方が」
言い切ってしまってから、出過ぎたことを言っただろうかと、内心で身構えた。
扇を持つ手に、力がこもったのが分かった。
「……それだけ?」
「はい。他の方のことを、私の口から詳しくお話しするわけにはまいりませんので」
しばらくの沈黙があった。イルゼヴィーネ様は、探るように私を見つめている。
「――口は堅いのね」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
「別に、褒めてはいないのだけれど」
そう言いながらも、扇を持つ指先が、開いては閉じ、また開く。言うべきかどうか、迷っているようだった。
「……他の令嬢のことをぺらぺら話さないのなら、私のことも同じように扱ってくれるかしら」
「もちろんです」
「まあ、いいわ。あなたを信じたわけではないけれど――他に、聞ける相手もいないから」
そう前置きしてから、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
夜会のたびに施術を重ねていたこと。近頃は以前ほど効かなくなっている気がすること。それでも、やめる決心がつかないこと。
高慢な口調は、話すうちに少しずつ揺らいでいった。その揺らぎに、私はアンネリーゼ様の、あの震える声を重ねずにはいられなかった。
「今日のところは、これで十分よ」
一通り話し終えると、イルゼヴィーネ様は扇を開き、いつもの取り澄ました顔に戻っていた。
「せいぜい励むことね。次に呼んだ時、少しも役に立たないようなら――その時は分かっているでしょうね」
高慢な物言いだった。それでも、扉を出る間際、こちらを一瞥した瞳には、隠しきれない縋るような色が滲んでいた。
公爵邸を後にしながら、私は小さく息を吐いた。馬車の車輪が石畳を鳴らす音が、やけに大きく聞こえた。
――どうやら、次はもう少し、腰を据えてかかる必要がありそうだ。




