見ていれば
四日目の朝、辺境伯家に短い手紙を出した。お願いしたいことがあるので、少しだけお時間をいただけませんか、と。
昼前に、マルグレーテ様の名前で返事が届いた。
『夕刻なら、息子が庭でお待ちしておりますわ』
流れるような字の最後に、小さな薔薇の絵まで添えてある。
――マルグレーテ様、絶対に楽しんでいらっしゃる。
夕方、公爵家からの帰りに、辺境伯家の門の前で馬車を降りた。
薔薇の庭は、前に来た時よりも少しだけ色を変えていた。咲き終わった花が切り落とされて、代わりに新しい蕾がいくつも膨らんでいる。
白いベンチの前で、ヴィルヘルム様が待っていた。
「お待ちしていました」
「お忙しいところ、すみません。それから、お花をありがとうございました。枕元に飾らせていただいています。淡い色がとても優しくて、部屋に戻るたびにほっとするんです。香りも、本当に穏やかで」
「……いえ」
ヴィルヘルム様は、短く答えて目を逸らした。耳の先が、少しだけ赤い。
枕元に飾ってはいるけれど、毎晩ほとんど眠れていない。せっかく眠りの邪魔をしない花を選んでくださったのに。それは、言わないでおくことにした。
私は、イルゼヴィーネ様に許された範囲で、事情を話した。公爵家の中の話が、なぜか外に漏れていること。市場で、どんな噂が流れているのかを知りたいこと。
「それで、料理番さんに、市場で耳にした噂を教えていただけないかと思って。特に、イルゼヴィーネ様のお体のことや、会合のことを」
「わかりました。伝えておきます」
即答だった。理由を、それ以上聞こうともしない。
「……何も、お聞きにならないんですね」
「……あなたが、意味のないことを頼む方だとは、思っていませんから」
ヴィルヘルム様は上着の内側から小さな手帳を取り出すと、ペンを走らせ始めた。料理番に渡す覚え書きらしい。
公爵家。お嬢様のお体。会合。
一文字ずつ確かめるように、丁寧に並んでいく字。
――あれ。この字、どこかで……。
考えようとした途端、文字の輪郭がふわりとにじんだ。
慌ててまばたきをする。にじみは消えない。立っている地面が、ほんの少しだけ傾いた気がした。
「エミーリア様」
すぐ近くで、声がした。
顔を上げると、ヴィルヘルム様がペンを止めて、こちらを見ていた。見えているほうの緑の瞳が、いつになく真剣だ。
「……少し、座ってください」
「え? いえ、大丈夫です。あと三日ですから」
「大丈夫な方は、立ったまま目を閉じたりしません」
――閉じてた?
自分では、まったく気づいていなかった。
ヴィルヘルム様は、私の腕にそっと手を添えて、ベンチまで連れていった。袖の上から、ほんの指先で触れるだけ。それだけのことだけれど、いつものヴィルヘルム様なら、きっと触れることさえためらったはずなのに。今日は、少しも迷わなかった。
「ここに来るまでに、二度、足が止まっていました。目の下も、前にお会いした時より暗い」
「……そんなところまで、見ていらしたんですか」
顔が、かっと熱くなる。気づかれないように、ちゃんと歩いていたつもりだったのに。
「……見ていれば、わかります」
言ってから、ヴィルヘルム様ははっとしたように口をつぐんだ。それから、ふいと薔薇のほうへ視線を逸らす。耳が、さっきよりも赤い。
いつもは言葉を探して俯いてばかりの人が、こんなにはっきり言い切るなんて。
胸の奥が、また小さく鳴った。
ヴィルヘルム様は庭師小屋のほうへ足早に向かうと、すぐに湯気の立つ木の杯を手に戻ってきた。
「ゲオルクが、いつも飲んでいるものです。……ただの、蜂蜜を溶かした白湯ですが」
「ありがとうございます」
両手で杯を包むと、指先から、じんわりと温かさが広がっていく。
ひと口飲んだら、張りつめていたものが、少しだけほどけた。
「……本当は、少しだけ怖いんです」
気づいたら、口からこぼれていた。
「公爵夫人と、約束をしてしまって。会合の日までに、イルゼヴィーネ様を立て直すって。もし間に合わなかったら、イルゼヴィーネ様が、また無理をなさることになる。……私が、大丈夫だなんて言ったから」
言ってから、慌てて口をつぐむ。こんな話、ヴィルヘルム様には関係ないのに。
ヴィルヘルム様は、ベンチの端に、少し間を空けて腰を下ろした。
しばらく、黙っていた。それから、薔薇の植え込みのほうを見たまま、ぽつりと言った。
「……あなたは、いつも誰かのために走り回っていますね」
「そう、でしょうか」
「合茶の時も。今も」
ヴィルヘルム様は、言葉を探すように少し間を置いた。
「ここでは、走らなくていいです」
それだけだった。
それだけなのに、杯を持つ手に、ぎゅっと力が入った。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ震えた。
「少しだけ、ここで休ませてもらってもいいですか」
「はい。日が沈むまで、まだあります」
夕方の風が、薔薇の香りを運んでくる。隣から聞こえる、ページをめくる小さな音。
少しだけ。ほんの少しだけ、目を閉じるつもりだった。
目を開けると、空が茜色に変わっていた。
肩に、覚えのある重みが掛かっている。見下ろすと、深い緑の上着だった。ヴィルヘルム様が、さっきまで着ていたものだ。
「……っ!」
飛び起きると、ベンチの反対の端で、ヴィルヘルム様が手帳を閉じたところだった。
「起きましたか」
「わ、私、どのくらい……!」
「半刻ほどです」
半刻。人様のお庭で、半刻も寝ていた。しかも、上着まで掛けてもらって。
――淑女として、あるまじき失態。打ち合わせの時の前のめりより、ずっとひどい。
「す、すみません! 上着、お返しします!」
慌てて差し出すと、ヴィルヘルム様はそれを受け取って、少しだけ目元を緩めた。
「顔色が、少し戻りました」
その一言で、頬が一気に熱くなった。
帰りの馬車の中で、私はずっと両手で顔を覆っていた。
上着に移っていた薔薇の香りが、まだ指先に残っている。
今夜は、久しぶりによく眠れそうな気がした。




