四つの作り話
昼過ぎに公爵家を訪ねると、イルゼヴィーネ様は寝台ではなく、窓辺の長椅子にいた。
膝に毛布を掛けて、背もたれに体を預けている。顔色は、今朝よりもさらにいい。
「起きていらして、大丈夫なんですか」
「寝てばかりいると、かえって頭が痛くなるのよ」
そう言いながら、手元の器を卓に戻す。スープは、きれいに空になっていた。
――全部、飲んでくれてる。
それだけで、来た甲斐があったと思ってしまう。
「てっきり、明日の朝に来るものだと思っていたわ。……ずいぶん真剣な顔ね」
「……お話ししたいことがあって」
私は、ヴィルヘルム様のカードのことを話した。今朝の市場で、もう噂になっていたこと。倒れたことだけでなく、私が朝まで付き添っていたことまで。
イルゼヴィーネ様の顔から、すっと表情が消えた。
「あなたが朝までいたことを知っているのは、ほんの数人よ」
「はい。それで、考えていたんです。昨夜、この部屋の近くにいたのは、どなたなのか」
イルゼヴィーネ様は、指を一本ずつ折っていった。
「お母様。医者。湯を運んだ小間使い。あなたを迎えに行かせた従者と、御者。……それから、マルタ」
「マルタさん?」
「あなたがお茶を運んでもらっていた、あの侍女よ。私の乳母だった人」
イルゼヴィーネ様は、きっぱりと言った。
「マルタは違うわ。あの人を疑うくらいなら、自分を疑う」
迷いのない声だった。それだけで、二人の間に積み重なってきた年月が見える気がした。
「それから、お母様も除いていいわ。分家に話を漏らして得をすることなんて、一つもないもの」
「では、残るのは四人ですね。お医者様と、小間使いさんと、従者さんと、御者さん」
「その四人を、どうするの。一人ずつ問い詰める?」
「いいえ。問い詰めたら、きっと隠れてしまいます」
私は手帳を開いた。昼まで眠ったおかげで、頭はすっきりしている。
「一人ずつ、少しずつ違うお話をするんです」
「違う話?」
「はい。それも、漏らす人が思わず運びたくなるようなお話を」
漏らしている誰かは、きっと何でも外に出しているわけじゃない。分家や、その向こうにいる誰かが欲しがる話。イルゼヴィーネ様にとって、都合の悪い話だけを選んでいるはずだ。
「小間使いさんには『お嬢様は、まだお一人では立ち上がれない』と。従者さんには『会合の前にもう一度施術を受けないと、とても人前には出られないらしい』と。御者さんには『声がかすれて、まだうまくお話しになれない』と。お医者様には『会合で何をお話しになるか、まだ何も決められずにいらっしゃるらしい』と」
足と、施術と、声と、会合の支度。どれも別々の話だから、一つが外に出ても、ほかの三つにはつながらない。
前世で読んだ推理小説に、そういう話があった。漏れた話の中身を見れば、誰から漏れたのかがわかる。
「……わざわざ、私の弱みを自分から撒くの?」
「どれも、本当ではありません。会合の日に、イルゼヴィーネ様が施術なしで、ご自分の足で歩いて、はっきりとお話しになれば、それだけで嘘だとわかるお話です」
それに、と私は付け足した。
「もし分家の方々が、会合の席でそのどれかを持ち出してきたら。その時は、誰から聞いたのか、自分で白状しているようなものです」
「……どの話が出てくるかで、誰が漏らしたかがわかる、というわけね」
イルゼヴィーネ様が、ゆっくりと私を見た。
「あなた、案外、性格が悪いのね」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
言ってから、はっとした。初めてこの方に呼ばれた日にも、同じことを言った気がする。
イルゼヴィーネ様も、同じことを思い出したのかもしれない。扇の陰で、口の端がわずかに上がった。
「……今回は、褒めているわ」
――あの日は、「別に褒めてはいない」だったのに。
「でも、外の噂をどうやって拾うの。私は市場になんて行けないわよ」
「それは、少しあてがあります」
ヴィルヘルム様のお屋敷の、料理番さん。今朝の噂を、市場で拾ってきてくれた人だ。
「辺境伯家のヴィルヘルム様に、お願いしてみようと思います。……ただ、事情をどこまでお話ししていいか」
イルゼヴィーネ様は、少し考えてから言った。
「この屋敷の話が外に出ている。そこまでは話していいわ。誰を疑っているかは、言わないで」
「承知しました」
その日のうちに、三つの話は、それぞれの耳に入った。何気ない世間話のふりをして、マルタさんがそっと流してくれたのだ。残る一つは、翌日の往診の時に、お医者様の耳へ。
それから三日は、あっという間に過ぎた。
毎朝、公爵家の馬車が迎えに来る。そのたびにご近所の窓という窓から視線が飛んでくるけれど、もう気にしている余裕はない。
一日目と二日目は、塩気のあるスープと、柔らかく煮た野菜と、果物。少しずつ、日に何度も。マルタさんが厨房と私の間に立って、料理番に細かく伝えてくれた。
「お嬢様が、日に何度もお食事を召し上がるなんて。夜会の前は、お茶しか口になさらなかったのに」
マルタさんは、嬉しそうに目尻を下げた。
三日目からは、卵と鶏肉を足した。
「また卵? 昨日も出たわよ」
「肌の材料ですから」
「材料、材料って。私の顔は、煉瓦でできているの?」
文句を言いながら、イルゼヴィーネ様はちゃんと全部食べた。
昼には、二人で庭を歩いた。最初の日は、ゆっくり歩いて、薔薇の植え込みを一周しただけで息が上がっていた。二日目は二周。三日目には、少し遠回りをして、噴水のところまで行けた。
朝はカーテンを開けて、夜は決まった時刻に灯りを落とす。
「眠くないのに、寝なさいと言われても困るわ」
「朝に日を浴びると、夜にちゃんと眠くなるんです」
「……昨日は、本当に眠くなったわね。腹が立つほど」
三日目の夕方。
鏡の前に座ったイルゼヴィーネ様が、自分の頬に指先で触れた。
紙のように白かった肌に、ほんのりと血の色が戻っている。ひび割れていた唇も、もう滑らかだ。
「……戻ってきたわね」
「はい。あと四日です」
鏡越しに、灰がかった青い瞳と目が合う。
「エミーリア」
「はい」
「明日も、来るのでしょう」
「もちろんです」
イルゼヴィーネ様は、満足そうに小さく頷いた。その口元が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
まだ、名前を呼ばれるたびに、胸の奥がくすぐったくなる。
帰りの馬車に乗り込もうとして、踏み台に足をかけた時、目の前が一瞬だけ白くなった。
慌てて扉の縁をつかむ。
――あれ。
すぐに、何事もなかったように視界は戻った。
三日間、朝から夕方まで公爵家にいて、夜は家で翌日の献立を考えていた。眠ったのは、たぶん毎晩、いつもの半分くらい。
……まあ、大丈夫。あと四日だ。
座席に体を沈めて、私は目を閉じた。




