一週間の計画表
公爵家の馬車を降りると、見慣れた我が家の門が目に入った。塗りの剥げかけた鉄の柵。蝶番が、いつもの音できいと鳴る。
ふかふかの座席から、一気に現実に戻ってきた。それなのに、なぜかほっとする。
台所のほうから、薄いスープの匂いが漂ってくる。母が、朝食の支度をしているのだろう。
玄関の扉を開けると、ちょうど階段を下りてきたグレーテ姉様と目が合った。
「あら。おかえりなさい、エミーリア」
「ただいま、姉様」
「馬車の音がしたから、もしかしてと思ったの」
姉様は、いつもの穏やかな顔で私を見て、それから小さく首を傾げた。
「イルゼヴィーネ様は?」
「もう大丈夫。顔色も戻ってきたし、朝ごはんも少しだけ食べてくださった」
「そう。よかったわ」
そう言ってから、姉様は私の顔をじっと覗き込んだ。
「それで、あなたは?」
「私?」
「目の下、ずいぶん青いわよ」
言われてみれば、昨夜はほとんど寝ていない。寝台の脇の椅子で、うたた寝をしたくらいだ。
「平気、平気。それより、一週間でやらなきゃいけないことができたの」
「一週間?」
「公爵夫人と、約束しちゃった」
穏やかだった姉様の顔が、ぴたりと固まった。
「……今、なんて?」
「えっと、あとでちゃんと話すから! 今はとにかく、計画を立てないと」
「エミーリア」
背中にかかった声から逃げるように、私は階段を駆け上がった。
自室の机に手帳を広げて、真っ白なページにペンを走らせる。
一週間。会合の朝までに、イルゼヴィーネ様の体を立て直す。
一日目と二日目は、抜けてしまった水と塩気を戻す。食事は消化のいいものを、少しずつ、何回かに分けて。空っぽになっていた胃に、いきなりたくさん入れると、かえって体に負担がかかる。
三日目からは、卵や鶏肉、豆を増やす。肌は、毎日少しずつ新しく生まれ変わっている。その材料になるのが、こういう食べ物だ。高い化粧水を塗るより、まずは中から。前世で読んだ美容の本の、一番最初のページに書いてあった。
毎日やることも書き出す。
眠る時刻を決める。朝はカーテンを開けて、日の光を浴びる。朝日を浴びると、体の中の時計が合って、夜にちゃんと眠くなるのだそうだ。
昼には、庭を少し歩く。ふくらはぎは「第二の心臓」と呼ばれていて、歩くたびに足の血を上へ押し上げてくれる。長い会合のあいだ座りっぱなしでも、足がむくみにくくなる。
それから、会合の前の晩は、塩辛いものを控える。体は塩気をとりすぎると、薄めようとして水を溜め込む。翌朝、顔がむくんでしまうのは、そのせいだ。
前世で読み漁った知識が、次から次へと出てくる。ダイエットとしては一度も続かなかったくせに、こういうところだけはしっかり覚えているのだから、我ながら都合のいい頭だ。
書き終えて、ペンを置いた。
ページいっぱいに並んだ予定を眺める。
――体のことは、これでいける。たぶん。
問題は、その先だ。
会合の席で、分家の者たちは何を言ってくるのか。倒れたことを、どう突いてくるのか。体を整えても、そこで言葉に詰まってしまったら意味がない。
でも、分家のことは私にはわからない。社交界の噂くらいしか知らない。
分家のことを、もっとよく知っている人。
ペンの先が、手帳の端で止まった。
――文官の、ヴェルナー様。
分家が新しい後ろ盾を探していることを、誰よりも先に知っていた人。風の噂は半分本当で、残りの半分は「いずれ、必ず」と言った人。
イルゼヴィーネ様に相談してみよう。私が勝手に頼むことではない。
手帳を閉じようとして、ページの間から何かがはらりと落ちた。
くしゃくしゃになった、一枚の紙。
公爵家の使いが来た時に握りしめてしまった、名前のない紙だ。
膝の上で、そっと皺を伸ばす。
『もう一度お話ししたい方:エミーリア様
次にお話ししたいこと:あなたご自身の、好きなことを』
一文字ずつ確かめるように並んだ字を、指でなぞる。
好きなこと。
さっきまで、手帳に予定を書き込んでいた時。正直に言えば、少しだけ楽しかった。どうすれば、あの方がまた笑ってくれるか。それを考えている時間は、ちっとも苦じゃなかった。
……でも、それはたぶん、好きなこととは少し違う気がする。
答えは出ないまま、紙を手帳に挟み直した。
その時、扉が叩かれた。
「エミーリア。入ってもいい?」
グレーテ姉様だった。さっきの続きを問い詰められるのかと身構えたら、姉様は腕に、小さな花束を抱えていた。
淡い色の薔薇だった。白に近い、ほんのりと黄みがかった花びら。
「たった今、辺境伯家の使いの方が届けてくださったの。あなた宛てよ」
「辺境伯家って……ヴィルヘルム様?」
「ふうん。やっぱり、お仕事のお客様?」
姉様が、意味ありげに微笑む。返事に困って、慌てて花束に添えられたカードを開いた。
『今朝、うちの料理番が、市場で耳にしてきました。イルゼヴィーネ様がお倒れになり、あなたが夜通し付き添われたと。どうか、あなたもお休みください。眠りの邪魔をしない、香りの穏やかな品種を選びました。――ヴィルヘルム』
眠りの邪魔をしない花を選ぶところが、いかにもあの方らしい。
頬が、ふわりと緩みかけて。
それから、カードの最初の一行に、目が戻った。
――今朝、うちの料理番が、市場で耳にしてきました。
イルゼヴィーネ様が倒れたのは、昨日の夕方だ。まだ、一晩しか経っていない。
それなのに、朝の市場で、もう噂になっている。倒れたことだけじゃない。私が朝まで付き添っていたことまで。
あの寝室にいたのは、イルゼヴィーネ様と、私と、侍女さんと、夫人だけのはずなのに。
『この屋敷の話は、なぜかすぐ外に出るもの』
昨夜のかすれた声が、耳の奥でよみがえった。
「エミーリア? どうしたの、急に怖い顔をして」
「……ううん。なんでもない」
すぐにでも、イルゼヴィーネ様に知らせに行きたかった。手紙では駄目だ。誰の手を通るか、わからない。
立ち上がりかけた途端、足元がふらりと揺れた。
――あ。これ、だめなやつだ。
倒れた人の看病に行って、看病する側が倒れたら、笑い話にもならない。
もう一度、カードに目を落とす。どうか、あなたもお休みください。
「……姉様。このお花、花瓶に挿しておいてもらってもいい?」
「ええ、もちろん」
「お昼過ぎに、もう一度公爵家に行ってくる。それまで、少しだけ寝る」
姉様は、ほっとしたように笑った。
「そうなさい。お客様も、そうおっしゃっているんでしょう?」
――全部、見透かされている。
カードは、とっさに手帳に挟んだ。
さっきの、名前のない紙と同じページに。




