氷の薔薇の母
目を覚ますと、窓の外が白み始めていた。
寝台の脇の椅子で、いつの間にか眠ってしまったらしい。肩に、覚えのない毛布が掛かっていた。あの侍女さんが、掛けてくれたのだろうか。
寝台の上では、イルゼヴィーネ様がまだ眠っていた。頬の色は、昨夜よりずっといい。そっと手首に触れる。温かい。脈も、ゆっくりになっていた。
ほっと息を吐いた、その時だった。
扉が、ノックもなく開いた。
入ってきたのは、背筋のまっすぐな女性だった。結い上げた銀の髪には、一筋の乱れもない。灰がかった青い瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
――イルゼヴィーネ様と、同じ目。
公爵夫人だ。
慌てて立ち上がって、礼をとる。肩から毛布が滑り落ちた。
頭を下げたまま、言葉を待つ。何を言えばいいのか、とっさに出てこなかった。
「顔を上げなさい」
冷たい声だった。
「クラインリヒト子爵家の、四女ね」
「はい。エミーリアと申します。夜分に、お屋敷にお邪魔いたしました」
「娘が夜更けに馬車を出したと聞きました。行き先は、あなたのところだと」
夫人の視線が、寝台の脇の小卓に落ちる。空になった器と、水差し。
「あれは?」
「お砂糖とお塩を溶かした、お湯です。お体から抜けた水を、戻すための」
「医者は、寝ていれば治ると言いました」
「はい。お休みになるのは、何より大切です。……ただ、昨夜は手首がとても冷たくて、唇も乾ききっていました。寝ているだけでは、抜けた水は戻りません」
夫人の眉が、わずかに動いた。
「それで、あなたは何が言いたいの。施術がいけなかったとでも?」
――来た。
ここで「月影の雫が悪い」と言えば、どうなるだろう。社交界中の奥方が受けているものを、子爵家の四女が否定する。夫人のご友人も、もしかしたら夫人ご自身も、受けているかもしれないのに。
証拠は、何もない。あるのは、前世の記憶と、私の推測だけ。
言い方を間違えたら、二度とこの屋敷の門をくぐれなくなる。イルゼヴィーネ様に、もう会えなくなってしまうかもしれない。
私は、息を吸った。
「一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「……言ってごらんなさい」
「施術の前に、組合の方から、倒れることがあるとご説明はありましたか」
沈黙が落ちた。
夫人は答えなかった。けれど、扇を持つ指先が、ほんの少しだけ止まった。
契約の書面に、何か書いてあったのかもしれない。
前世で、親友が高額エステの契約書を見せてくれたことがある。うたい文句は大きな字で、ページいっぱいに。肝心なことは一番下に、目を凝らさないと読めないほど小さな字で。『効果には個人差があります』『施術後の体調の変化については、責任を負いかねます』。
もしかしたら、ここでも同じなのかもしれない。
「……あなたは、月影の雫を受けたことがあるの」
「いいえ。……お恥ずかしながら、我が家には少々、手の届かないものでして」
正直に答えると、夫人は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「受けたこともないのに、ずいぶん詳しいのね」
「受けた方の、そのあとを見てきました」
アンネリーゼ様の、こわばった頬。夜会を前に、菓子を見つめるだけだったイルゼヴィーネ様の目。
夫人は、黙って私を見下ろしていた。それから、ふいと視線を外す。
「……馬車を用意させましょう。ご家族も、心配なさっているでしょうから」
「お母様」
寝台から、かすれた声がした。
イルゼヴィーネ様が、目を開けていた。肘をついて、ゆっくりと体を起こそうとする。
「無理をなさらないでください」
「平気よ」
私の手を借りて背を起こすと、イルゼヴィーネ様は母親をまっすぐに見た。
「この人は、私が呼んだのよ。追い返すなら、私に言って」
夫人と娘。同じ色の瞳が、正面からぶつかる。
「……追い返すとは、言っていません」
先に目を逸らしたのは、夫人のほうだった。
「……会合は、来週です」
夫人は、窓の外へ視線を移した。
「分家の者たちは、昨夜のことをもう嗅ぎつけているでしょう。後継が施術ひとつで寝込むようでは、と言い出すのは目に見えている」
――昨夜、イルゼヴィーネ様が言っていたことと、同じだ。
「ですから、会合の場では、誰が見ても非の打ちどころのない姿でいてもらわなければなりません」
夫人が、私に向き直った。
「あなたの、そのお湯と、娘に勧めているという食事とやらで。一週間で、それができるの」
心臓が、大きく跳ねた。
一週間。月影の雫なら一瞬で変えてしまうものを、私のやり方で。劇的に変わるはずがない。
でも。
倒れたばかりの体を元に戻して、顔色を取り戻して、会合の席に最後まで背筋を伸ばして座っていられるようにする。それなら。
「劇的に痩せることは、お約束できません」
夫人の目が細くなる。私は続けた。
「でも、会合の日には、倒れる前よりも顔色が良く、肌にも張りがある状態にします。長い会合の最後まで、疲れた顔ひとつ見せずに、背筋を伸ばして受け答えができるように」
息を継いで、続ける。
「分家の方々が『施術ひとつで寝込む後継』を探しにいらしたなら、そこに座っているのは『倒れても一週間で立て直した後継』です。……どちらが手強く見えるかは、夫人のほうがよくご存じかと」
――言っちゃった。
公爵夫人を相手に、子爵家の四女が、思いきり見得を切ってしまった。背中を、冷たい汗がつうっと伝う。
長い沈黙のあと、夫人は短く言った。
「会合の朝、私がこの目で確かめます」
扉に手をかけて、振り返らずに付け加える。
「足りないと思えば、もう一度術師を呼びます」
扉が閉まった。
足から、力が抜けた。床に落ちたままの毛布の上に、へたり込む。
「……あなた、馬鹿なの?」
頭の上から、呆れた声が降ってきた。
「はい。たぶん」
「公爵夫人に、約束なんてして」
「イルゼヴィーネ様だって、お母様に言い返していらしたじゃないですか」
「……私は娘だから、いいのよ」
ぷい、と顔を背けられる。その耳が、ほんのり赤い。
「……それで。一週間で、何をするつもり?」
「まずは、朝ごはんです」
イルゼヴィーネ様が、ぽかんと口を開けた。氷の薔薇が、こんなに気の抜けた顔をするなんて。
「公爵夫人を相手に『一週間で』と約束しておいて、最初の作戦が、朝ごはん?」
「はい。具を柔らかく煮込んだ、塩気のあるスープ。それから果物を。昨日抜けてしまった分を、取り戻すところからです」
「……あなたって、結局いつもそこに戻るのね」
「はい。地味ですけど。近道をして倒れたのが昨日ですから。今度は、遠回りでも確実なほうで行きます」
イルゼヴィーネ様は、しばらく黙って私を見ていた。それから、ふっと小さく笑った。
扇の陰でも、口の端だけでもない。初めて見る、まっすぐな笑い方だった。
「……いいわ。付き合ってあげる、一週間」
それから、窓のほうへ顔を向けて、ぽつりと付け足した。
「頼りにしているわ。エミーリア」
――え。
今、名前。
初めて公爵家に呼ばれた日から、ずっと「あなた」だった。報告書を受け取る時も、作戦を立てる時も、昨夜、手首に触れた時でさえ。
聞き返したら、二度と呼んでもらえない気がした。だから私は、床に座り込んだまま、ただ頷いた。
「……はい!」
声が、思いきり裏返った。
一週間。
約束を果たせなければ、イルゼヴィーネ様はまた、月影の雫を受けることになる。今度はきっと、もっと強い術式を。
――絶対に、そうはさせない。




