だから呼んだの
公爵家の馬車は、夜の石畳を飛ぶように走った。
膝の上で握りしめた手が、まだ震えている。くしゃくしゃになった紙は、慌てて手帳に挟んできた。
――美容術師の施術。まさか、月影の雫?
イルゼヴィーネ様は、決まった分の菓子を楽しめるようになっていた。顔色も、肌も、前よりずっと良くなっていた。それなのに、どうして今。
通されたのは、いつもの離れではなく、母屋の奥だった。
寝室の前で、年配の侍女が待っていた。離れで何度か、お茶を運んでくれた人だ。
「お嬢様は、今は落ち着いておられます」
ほっと息をつきかけたところで、侍女が声をひそめた。
「施術を終えて、寝台から起き上がられた途端に、ふらりと……。しばらくは、お呼びしてもお返事がなくて」
「お医者様には?」
「はい。こちらでいつも診ていただいている先生が。ただ……」
侍女は、言いにくそうに目を伏せた。
「美容術の施術のあとには、よくあることだ。寝ていれば治る、と。それだけおっしゃって、お帰りに」
――よくあること。
倒れて、呼んでも返事がなかったのに。それで済ませていいはずがない。
寝台の上のイルゼヴィーネ様は、驚くほど小さく見えた。
いつも高く結い上げている銀の髪が、枕の上にほどけている。唇の深い紅は落とされて、肌は紙のように白い。
それなのに、私の顔を見るなり、彼女は眉をひそめた。
「……遅いわ」
「申し訳ありません。これでも、最速です」
「当然よ。公爵家の馬車だもの」
声はかすれているのに、言っていることはいつも通りだ。膝から力が抜けそうになった。
――よかった。いつものイルゼヴィーネ様だ。
寝台の脇に膝をついて、そっと手首に触れる。冷たい。脈は速くて、浅い。唇が乾いて、ひび割れている。
「お水は、召し上がりましたか」
「……少し。気分が悪くて、あまり」
――この感じ、知ってる。
前世で一度だけ、断食ダイエットに挑んだことがある。三日目の朝、ベッドから起き上がった瞬間に、目の前が真っ暗になった。三日坊主どころか、三日目で倒れたのだ。
冷たい手。速い脈。からからの唇。駆け込んだ病院で言われた。脱水症状ですね、と。
月影の雫は、断食のような急な変化を体に起こすものだと、ずっと思ってきた。もしかしたら、食べないのと同じだけじゃない。水まで、一気に抜いてしまうのかもしれない。
そんな体で急に起き上がれば、頭まで血が回らずに倒れてもおかしくない。
「すみません、お願いがあります」
振り返って、侍女に頼む。
「水差しに一杯分、人肌くらいに冷ましたお湯をお願いします。そこに、お砂糖を大きな匙で四杯半。お塩は、小さな匙に半分。きっちり量ってください。それと、毛布をもう一枚」
「お砂糖と、お塩……ですか?」
「体から水がたくさん抜けると、塩気も一緒に抜けてしまうんです。そこにお水だけ飲んでも、体がうまく受け取ってくれません。塩気と甘みがちょうどよく入っていると、水が体に染み込みやすくなります」
あの時、病院の看護師さんが作り方を教えてくれた。水一リットルに、砂糖四十グラム、塩三グラム。多すぎても少なすぎても、体にうまく入っていかない。
点滴の管を見上げながら聞いた、あの情けなさと一緒に。分量は、今でもはっきり覚えている。
侍女は頷いて、すぐに部屋を出ていった。
運ばれてきた器を、イルゼヴィーネ様の口元に添える。
「一気に飲まないでください。ひと口ずつ、ゆっくり」
「……しょっぱいのに、甘いわ。変な味」
「あとで、甘いものをお持ちします」
「子ども扱いしないで」
文句を言いながらも、ひと口、またひと口と飲んでいく。半分ほど減った頃、白い頬にほんの少しだけ色が戻ってきた。
足元に丸めた毛布を入れて、足を少し高くする。部屋の灯りを一つ落とす。
寝台の脇に座り直して、私は器を見つめた。何から聞けばいいのか、わからなかった。
先に口を開いたのは、イルゼヴィーネ様のほうだった。
「……せっかく、月影の雫に頼らずにやってきたのに」
天井を見たまま、ぽつりと。
相談を受けるようになってから、月影の雫の話は一度も出なかった。聞かなかったし、聞く必要もないと思っていた。肌の色が良くなっていくのも、菓子を一つ楽しめるようになったのも、ちゃんと見ていたから。
「……どうして、今日は」
「お母様よ」
扇のない手が、毛布の端をきつく握った。
「来週、分家の者たちとの会合があるの。後継として、隙を見せるわけにはいかない。だからきちんと整えておきなさい、と。組合から術師を呼んだのも、お母様」
公爵夫人。夜会の前に、娘から食事を取り上げたという噂の人。
「お母様は、月影の雫がどういうものか、ご存じなのですか」
「知らないわ。ここ何年かで、社交界の奥方たちの間ではすっかり当たり前になったもの。お母様のご友人も、皆受けているわ。夜会の前に受ける、手軽な痩身術くらいにしか思っていないわよ」
イルゼヴィーネ様は、小さく息を吐いた。
「あれでも、私を守っているつもりなの。分家の前で、私が見劣りしないように」
――守っている、つもり。
厳しい方だとは聞いていた。でも、公爵夫人もまた、組合が「わざわざ言わない」ことを知らずにきた一人なのかもしれない。
「断ったわ。一度は」
イルゼヴィーネ様は続けた。
「でも、術師が言ったの。『新しい術式で、以前よりずっとよく効きます』と。『しばらくお休みされていた方にこそ、お勧めです』と。……お母様の前で、それ以上断る理由が見つからなかった」
毛布を握る指に、力がこもる。
「結局、断れなかった。……情けないわね」
「情けなくなんか、ありません」
思ったより、強い声が出た。
「お母様の前で、一度でも断れた。それだけで、すごいことです。それに、イルゼヴィーネ様がここまで続けてこられたことは、今日のことでなくなったりしません」
「……」
「お休みしていた分、体がびっくりしただけです。明日から、また一緒に戻しましょう。お食事も、眠りも」
イルゼヴィーネ様は、しばらく黙っていた。それから、毛布を握っていた指が、ゆっくりとほどけた。
「……あなたを呼んだのは」
「はい」
「お医者様は『よくあること』としか言わなかったわ。お母様は、会合に間に合うかどうかばかり気にしていた」
灰がかった青い瞳が、ようやくこちらを向いた。
「あなたは、部屋に入ってくるなり私の手首に触れたわね。何があったのかも、誰のせいなのかも聞かずに」
「あ……失礼、でしたか」
「いいえ」
イルゼヴィーネ様は、少しだけ目を細めた。
「あなたなら、きっとそうすると思ったのよ。だから呼んだの」
いつもの張りのある声とは違う。か細くて、驚くほど柔らかな声だった。
――ずるい。
目の奥がじんと熱くなって、慌ててまばたきをした。
「……はい。何度でも、駆けつけます」
声が震えないように、それだけ言うのがやっとだった。
器が空になる頃、イルゼヴィーネ様のまぶたが重たそうに落ちてきた。
そっと立ち上がろうとした時、寝台から小さな声がした。
「……あの術師、最初に何と言ったと思う?『施術は、ずいぶんお久しぶりでございますね』よ」
「以前にも、その方の施術を?」
「いいえ。初めて見る顔だった。……それなのに、私が最後にいつ受けたのか、ちゃんと知っていたわ」
背筋が、すっと冷たくなった。
誰が、いつ、どれだけ施術を受けたのか。いつから来なくなったのか。組合は、それを全部覚えている。そして、来なくなった客のところへ、「新しい術式」を持って戻ってくる。
――来た客は、一人も逃がさない。そういうこと?
「来週の会合」
閉じかけたまぶたのまま、イルゼヴィーネ様が続けた。
「後継が施術ひとつで倒れるようでは、と。分家の者たちは、きっとそう言うわ。……この屋敷の話は、なぜかすぐ外に出るもの」
会合の、ちょうど一週間前。分家にとって、これ以上ない時に。
――偶然、なんだろうか。
振り返ると、イルゼヴィーネ様はもう、静かな寝息を立てていた。




