名前のない紙
参加者は令嬢と殿方が五人ずつ。名札のカードを胸元に留めてもらい、最初の席に案内していく。令嬢方の表情は、どれも少し硬い。初めての方がほとんどだ。
「では、始めましょう!」
エーリヒ様が小さな鈴を鳴らした。企画係の晴れ舞台だ。鈴を持つ手が、誰よりも嬉しそうに震えている。
――この調子だと、仮面茶会の日は鈴じゃ足りなくて、太鼓を持ってきそう。……いや、さすがにそれはない。ない、よね?
鈴の余韻が消えると、庭がしんと静まり返った。
一巡目は、どの卓もお天気とお庭の話から先へ進まない。カップを持ち上げては、また置く音ばかりが響く。
――うん、ここまでは想定どおり。
けれど、名札の効果はすぐに表れた。
「『焼き菓子作り』……ご自分で、お作りになるのですか?」
「は、はい! 実は、今日も少し持ってきていて」
好きなことが一つ書いてあるだけで、最初の一言が生まれる。一言が生まれれば、次の話題が続く。
鈴が鳴るたびに、殿方が隣の卓へ移っていく。話し込んで鈴に気づかない方には、ヨーゼフ様がさりげなく声をかけている。
私は令嬢方の卓を回りながら、気づいたことを手帳に書きとめていった。誰と誰の話が弾んでいたか。どの卓で沈黙が長かったか。
話が途切れた卓には、そっとお題を置いていく。前世の婚活パーティーで、スタッフが沈黙した卓に差し出していた「トークテーマ」だ。今日は、卓の薔薇がその代わりになる。
「この薔薇の色から、何を思い浮かべますか?」
苺のジャム。夕焼け。姉の婚礼衣装。同じ色を見ていても、思い浮かべるものは人それぞれで、そこからまた会話が転がり出す。
二巡目、三巡目と進むうちに、令嬢方の肩が少しずつほどけていく。自分から話しかける方も出てきた。
三巡目あたりで、朱の卓の令嬢がふと花に目をとめた。
「このお庭の薔薇、本当に見事ですね。どなたがお世話を?」
すぐ近くにいたヴィルヘルム様が、びくりとした。私はにっこり笑ってそちらを手で示した。
「こちらの、ヴィルヘルム様です」
「まあ」
令嬢の視線を受けて、ヴィルヘルム様は一瞬だけ私を見た。それからちゃんと、令嬢のほうを向いた。
「……この朱は、日が傾くと少し色が深くなります。お帰りの頃には、違う色に見えるかもしれません」
「まあ、楽しみです!」
――話せてる。すごい、ちゃんと話せてる。
初めての合茶で、相槌を打つのが精一杯だった人が、今は誰かの「楽しみ」を作っている。
最後の鈴が鳴ると、エーリヒ様が一歩前に出た。
「皆様、本日はありがとうございました! 最後に、こちらの紙にご記入ください。ご自分のお名前と、もう一度お話ししたい方のお名前。それから、その方と次にお話ししたいことを一言! お互いのお名前が揃った方にだけ、幹事からそっとお伝えします!」
最後の一言の欄は、前日になってエーリヒ様が「そのほうが、次に会った時に話が早いでしょう!」と思いついたものだ。言い終えた顔が、誇らしげに輝いている。
集めた紙は奥の小部屋で、私とヴィルヘルム様が確かめることになっていた。
卓の上に手帳を広げて、一枚ずつ名前を照らし合わせていく。
「……あ」
「揃いましたね」
「こちらも、です!」
二組。二組も、お互いの名前が揃っていた。焼き菓子作りの令嬢と、それから、薔薇のお世話を尋ねていた朱の卓の令嬢だ。
一組目の紙を並べてみる。焼き菓子作りの令嬢は『次は、お好きな味を教えてください』。お相手の殿方は『次は、焼きたてをいただきたいです』。
――二人とも、もう次のお菓子の話をしてる!
思わず両手を握りしめて、ヴィルヘルム様を見上げる。ヴィルヘルム様もこちらを見ていた。
「よかったですね!」
「……はい。本当に」
急いで手帳に二組の名前を書きつける。
「では、お二組にお伝えしてきます!」
手帳を開いたまま、余った紙の束と一緒に卓に置いて、私は小部屋を飛び出した。後の片付けは、ヴィルヘルム様が引き受けてくれた。
揃わなかった方々にも、一人ずつお礼を伝えて回った。残念そうな顔の方もいたけれど、「また来たいです」と言ってくださる方もいた。それだけで十分だ。
揃った二組には、帰り際にそっと声をかけて、それぞれの卓の色の蕾を一輪ずつお渡しした。焼き菓子作りのお二人には薄紅を。もう一組には朱を。夕方の光の中で、朱の蕾は朝より少しだけ深い色をしていた。
焼き菓子作りの令嬢が、手のひらの蕾を不思議そうに見つめた。
「どうして、蕾なのですか?」
私が答えるより先に、隣のヴィルヘルム様が口を開いた。
「……蕾は、これから咲くものですから。お二人のご縁も、きっと同じです」
令嬢の頬が、ぱっと染まった。お相手の殿方が、照れたように咳払いをする。
「……では、この蕾が咲く前に。焼きたてを、いただきに伺っても?」
「は、はい!」
――え、待って。ヴィルヘルム様、そんなロマンチックなこと言えるの!?
お礼の手紙一通にも、あんなに言葉を探していた人が。
見送りながら、少しだけ目の奥が熱くなった。
隣を見ると、ヴィルヘルム様が耳まで赤くして、去っていく二組の背中を見つめていた。
皆様が帰ったあと、片付けをしていると、ヨーゼフ様が一枚の紙をひらひらと掲げた。
「幹事殿にも、一枚」
「運営は書かないって、申し上げましたよね!?」
「ええ。ですが、書いてはいけないという決まりはない、とも伺いました」
――あの「なるほど」、これだったの!
受け取った紙には、流れるような字でこう書いてあった。お名前の欄には、ご丁寧に飾り文字の署名まで入っている。
『お名前:ヨーゼフ
もう一度お話ししたい方:幹事のエミーリア様
次にお話ししたいこと:今日いちばん楽しそうに笑っていたのは、幹事のあなたでした。その笑顔を、今度は向かいの席で独り占めさせてください』
――独り占め。
少女漫画なら、ここで背景に花が舞うところだ。さすが社交界の方は、紙一枚でもさらりとこういうことを書く。
卓を畳んでいたエーリヒ様が覗き込んで、吹き出した。
「あっ、ずるい! 僕も書けばよかった!」
「エーリヒ様まで!」
私も笑いながら、紙を畳んだ。
「……では、次の打ち合わせの時にでも」
「光栄です、幹事殿」
ヨーゼフ様は、ないはずの帽子を胸の前でくるりと回して、芝居がかった一礼をしてみせた。
「もう、ヨーゼフ様ったら」
思わず、声を上げて笑ってしまった。
その向こうで、ヴィルヘルム様が空になった花瓶を黙って抱えていた。
家に帰り着いたのは、日が暮れてからだった。
自室の机に向かって、手帳を開く。忘れないうちに書き留めておきたいことが、たくさんあった。二組揃ったこと。名札の効果。ヴィルヘルム様の、蕾の言葉。
――今日は、本当にいい日だった。
ページをめくると、小さく畳まれた紙がはらりと落ちた。
――あれ、こんなの挟んだっけ。
開いてみる。今日、皆様に配ったのと同じ紙だ。
『お名前:
もう一度お話ししたい方:エミーリア様
次にお話ししたいこと:あなたご自身の、好きなことを』
お名前の欄だけが、空いている。
――ヨーゼフ様、二枚目?
思わず笑いかけて、手が止まった。
机の端に、胸元から外した名札が置いてある。結局、最後まで何も書けなかった。名前の下は、空いたままだ。
名前のない紙と、好きなことのない名札。
令嬢方にも、ヨーゼフ様にも、イルゼヴィーネ様にも、ずっと私が尋ねてきた問いだ。けれど、私が尋ねられたことは、一度もなかった気がする。
ヨーゼフ様の流れるような字とは、違う。一文字ずつ確かめるように、少しだけ不器用に並んだ字。
――この字、どこかで。
その時、廊下を駆けてくる足音がした。扉が勢いよく開く。
グレーテ姉様だった。顔が、真っ青だ。
「エミーリア、公爵家から急ぎの使いが来てる。すぐ玄関に」
玄関には見覚えのない若い従者が立っていた。息が上がっている。
「イルゼヴィーネ様が、お倒れになりました。美容術師の施術を、お受けになったあとで」
握っていた紙が、指の間でくしゃりと鳴った。
「……あなた様を、お呼びするように、と」




