小さな棘
打ち合わせから十日後。合茶の朝、辺境伯家の庭では、庭師のゲオルクさんたちが朝摘みの薔薇を籠に入れて運んでいた。
紅、朱、臙脂、薄紅、白。卓ごとに違う色の花が活けられて、庭が少しずつ華やいでいく。指示を出しているのは、袖をまくったヴィルヘルム様だった。
水を張った大きな桶を、ヴィルヘルム様がひょいと持ち上げる。その腕に、思わず目が止まった。
細身だとばかり思っていたのに、まくった袖の下には、しっかりと筋が浮いている。桶の縁を握る手のひらには、硬そうなたこまであった。
「……剣だこですわ」
いつの間にか隣にいたゲオルクさんが、ぼそりと言った。
「坊ちゃんは、夜が明ける前に剣の稽古を済ませてから、庭に出てきなさる。ちいさい頃から、一日も休んどらんです」
それだけ言うと、ゲオルクさんはまた黙って籠を運んでいった。
一日も。
手紙でも、合茶でも、そんな話は一言も聞いたことがない。誰にも言わずに、毎朝。
いつもは言葉を探して、俯いてばかりの人なのに。
――どうしよう。ちょっと、かっこいい。
胸の奥が、とくんと鳴った。
――って、いやいやいや。何を見とれてるの、私。今日は幹事。仕事中!
「その薄紅は、入り口の卓に。陽が当たりすぎないように、少し奥へ」
ヴィルヘルム様の声に、慌てて顔を上げる。
迷いのない声だった。どの花をどこに置けば一番きれいに見えるのか、この人はちゃんと知っている。自分の手で育ててきた花だから。
見ているこちらまで、なんだか誇らしくなった。
手が空いた隙を見て、私はそっと隣に並んだ。打ち合わせの日から、ずっと気になっていたことがある。
「ヴィルヘルム様。運営を引き受けてくださって、本当に助かっています」
「……いえ」
「ただ、その。前回は参加者でいらしたのに、今回はご自分から運営に、と伺って」
少し迷ってから、思い切って続けた。
「もし、婚活に疲れてしまわれたのでしたら、無理はなさらないでくださいね。少しお休みするのも、大事なことですから」
ヴィルヘルム様が、目を瞬かせた。何を言われたのか、わからない。そんな顔だった。
「……疲れて、いません。まったく」
それから、少し不安そうに眉を寄せる。
「……どうして、そう思われたのですか」
「ご自分から言い出されたと、お母様から伺ったので。何かあったのかと、少し心配で」
少しの沈黙。ヴィルヘルム様は手元の花に目を落として、ぼそりと答えた。
「……今は、会いたい方に、ちゃんと会えているので」
会いたい方に、会えている。
頭に浮かんだのは、ゾフィー様の顔だった。最初の合茶で本の話をして以来、二人の貸し借りは今も続いていると聞いている。本を貸して、返して。会う理由が、ちゃんとある。
――そっか。そういうこと、か。
胸の奥が、ほんの少しだけきゅっとなった。
……なんで? お世話している方に良いご縁があるなら、喜ぶところなのに。
慌てて、アドバイザーの顔を作り直す。
「素敵だと思います。焦って探すより、もう近くにあるご縁を大事にするほうが、ずっとうまくいきますから」
ヴィルヘルム様が、ぱっと顔を上げた。
「……近くに、ある」
「はい!」
見えているほうの緑の瞳が、まっすぐに私を見る。唇が、何かを言いかけて動いた。
「……エミーリア様、それは」
「ゾフィー様、きっと喜ばれますよ」
ぴたり、と。ヴィルヘルム様の動きが止まった。
「……ゾフィー、様」
「本のやり取り、まだ続いていらっしゃるんですよね?」
「……はい。続いて、は、います」
ヴィルヘルム様は、ゆっくりと目を伏せた。それから手にしていた臙脂の薔薇を、そっと卓に置いた。
――あれ。また何か違った?
次の一輪を渡そうと茎を握り直すと、指先がちくりとした。棘だ。
……さっき胸がきゅっとしたのも、きっとこのくらいの、なんでもない痛みだ。
ヴィルヘルム様は小さく頭を下げて、奥の卓へ花を運んでいった。その背中を見送ってから、私はぶんぶんと頭を振った。
――切り替え、切り替え。もうすぐ皆様がいらっしゃる。
手帳を開いて、今日の段取りをもう一度確かめる。席の順、鈴の合図、紙を配る時機。ページの余白には、昨夜書き込んだ前世の知恵がびっしりと並んでいる。この手帳は、仲人を始めてからずっと私の相棒だ。
「皆さーん! 運営の分も作ってきました!」
庭の向こうから、エーリヒ様がカードの束を振りながら駆けてきた。令嬢方が話しかけやすいように、運営も名札をつけておこう、ということらしい。
好きなことの欄に、ヨーゼフ様はさらさらと『早朝の市場』。エーリヒ様は『面白い催しを考えること』。ヴィルヘルム様は少し迷ってから、丁寧な字で『薔薇』と書いた。
「エミーリア様は、何にします?」
エーリヒ様に覗き込まれて、私はペンを持ったまま止まった。
好きなこと。令嬢方の分なら、いくらでも一緒に考えられるのに。自分のこととなると、何も出てこない。
前世でも、そうだった。婚活アプリのプロフィールの趣味欄には、『カフェ巡り』と書いていた。嘘ではない……はず。ほかに書けることが思いつかなくて、毎朝、駅前のチェーン店で出勤前にコーヒーを一杯買っていたのを、それっぽく言い換えたつもりだった。
――いや、今思うと、巡ってはなかったな。
休みの日にしていたことといえば、ダイエットの情報と、誰かの体験談を読み漁ることくらい。好きなことを聞かれたら、たぶん今と同じように、ペンが止まっていた。
「えっと……皆様がいらっしゃるまでに、考えておきます!」
ひとまず名前だけを書いて、カードを胸元に留めた。
ふと視線を感じて顔を上げると、ヴィルヘルム様が私の名札を見ていた。目が合うと、ほんの少し眉を下げて、何か言いたそうな顔をする。
けれどその時、門のほうから馬車の音が聞こえてきて、ヴィルヘルム様は小さく会釈をして持ち場へ戻っていった。
――今日の合茶、ちゃんと集中できるかな。




