切り札
五日目の昼。王都の外れの茶房の前に、我が家の馬車が停まった。
扉を開けて先に降りると、続いてイルゼヴィーネ様が、私の手を借りて降りてくる。
「……腰が痛いわ」
「すみません。うちの馬車、座席が薄くて」
「知っているわ。乗った瞬間にわかったもの」
公爵家の馬車は使えない。御者さんも、四人のうちの一人だからだ。今日、イルゼヴィーネ様がここに来ていることは、屋敷の中でもマルタさんしか知らない。
ヴェルナー様への手紙も、公爵家からではなく、私の家から出した。マリーカ様の叔母様を通して、王宮の記録庫に届けてもらったのだ。
奥の個室に通されると、文官のヴェルナー様は、もう席に着いていた。前と同じ、窓の大きな部屋だ。
立ち上がって一礼したヴェルナー様は、顔を上げるなり、イルゼヴィーネ様をじっと見た。
「お体は、もうよろしいのですか」
用件より先に、それだった。
イルゼヴィーネ様が、ほんの一瞬だけ固まる。それから、扇を開いて口元を隠した。
「……見ればわかるでしょう」
「ええ。顔色が良くて、安心しました」
――あ。
あの夜、イルゼヴィーネ様は言っていた。お医者様は「よくあること」としか言わず、お母様は会合に間に合うかどうかばかり気にしていた、と。
用件より先に、体を気遣ってくれる人。ここにも、ちゃんといた。
扇の陰で、イルゼヴィーネ様の耳が、ほんのり色づいている。
――置物、置物。今日も私は置物です。
緩みそうになる頬を引き締めて、私は部屋の隅の椅子に座った。
紅茶が運ばれて、給仕が下がる。イルゼヴィーネ様は扇を閉じて、まっすぐヴェルナー様を見た。
「回りくどいのは嫌いだから、先に言うわ。二日後に、分家との会合がある。分家の者たちが、そこで何を言ってくるつもりなのか。あなたは知っているのでしょう」
ヴェルナー様は、紅茶に手をつけなかった。
「すべてではありません。お話しできるのも、一部だけです」
「それでいいわ」
「分家の方々は、後継の『見直し』を求めるおつもりです。理由は、お体の弱さ。施術ひとつで倒れるような方に、公爵家は任せられない、と」
予想していたとおりだった。それでも、言葉にして聞くと、胸の奥が冷える。
「それから、会合では、後継が一族の前で領地の収支を説明する慣わしがあると伺っています」
「ええ。毎年のことよ」
「分家の方々は、そこで細かな問いを重ねて、お嬢様を言葉に詰まらせるつもりでいるようです。病み上がりで、まともに受け答えもできない、と見せるために」
イルゼヴィーネ様の指先が、扇の骨をきつく握った。
――体を整えるだけじゃ、足りない。
私が立てた計画は、背筋を伸ばして最後まで座っていられること。でも、分家が仕掛けてくるのは、その先だ。
「……それで、あなたは何をしてくれるの」
「一つだけ、お渡しできるものがあります」
ヴェルナー様は、鞄から一枚の紙を取り出して、卓に広げた。
古い書面の写しだった。びっしりと並んだ字の最後に、分家の当主の署名と、封蝋の跡が写し取られている。そして余白には、別の筆跡で、たった一行。
『認めず』
「二十年ほど前、お嬢様がお生まれになる前の、境界の記録です。分家の方々が、本家の領地の一部を、自分たちのものとして届け出ようとした跡が残っています」
「……届け出は、通らなかったのね」
「はい。この一行は、先代の公爵様の御筆です。記録庫の奥に、そのまま眠っていたものです」
ヴェルナー様は、余白の一行を指先でなぞった。
「前に申し上げたとおりです。誰が何を欲しがって、何を諦めたのか。紙の上には、ちゃんと残っている」
イルゼヴィーネ様は、しばらく書面を見つめていた。
「……分家は、会合で何と言うかしら。後継を見直せ、と言う時に」
「おそらく、『公爵家の行く末を案じて』と。一族のため、というお顔をなさるはずです」
「でも、二十年前にも、同じ顔をして本家の土地を欲しがった」
「はい。そして先代の公爵様は、それを『認めず』とされました」
イルゼヴィーネ様が、ゆっくりと顔を上げた。
「家のためなんかじゃない。最初から、欲しいものがあるだけ。……それを一族の前で示せば、見直しの話そのものが、ただの欲に見える」
――そうか。
分家は、イルゼヴィーネ様の体が弱いかどうかで勝負をしかけてくる。でも、この一枚があれば、それを「分家が何を欲しがっているのか」の話にひっくり返せる。
「お使いになるかどうかは、お嬢様がお決めください」
――すごい。
イルゼヴィーネ様が二度目の席で覚えていた、あの古地図の話。紙の上に残るもの。それが今、こんな形で戻ってきた。
「……ずいぶん、うちの家の古い記録に詳しいのね。ただの記録係が」
イルゼヴィーネ様の目が、すっと細くなる。
ヴェルナー様は、少しだけ笑った。
「私の仕事場は、記録庫の、さらに奥にあります。……今お話しできるのは、そこまでです」
「残りの半分は、まだ?」
「はい。いずれ、必ず」
前と同じ答え。けれど、前よりほんの少しだけ、扉が開いた気がした。
席を立とうとした時、ヴェルナー様が「それと」と付け足した。
「もう一つ、耳に入っていることがあります。会合には、分家の方々が立会人を一人お呼びになるそうです」
「立会人?」
「表向きは、公平な第三者として。……ですが、私の耳に入った話では、その方こそが、分家の新しい後ろ盾だと。お名前までは、まだ掴めていません」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
分家が探していた、新しい後ろ盾。それが、公平な顔をして、会合の席に来る。
帰りの馬車の中で、イルゼヴィーネ様は書面の写しを膝の上に広げたまま、ずっと黙っていた。指先が、余白の一行の上で止まっている。
がたん、と車輪が石を踏んで、薄い座席が跳ねる。
「……本当に、硬いわね」
「すみません」
「別に、責めていないわ」
イルゼヴィーネ様は、窓の外に目をやったまま、ぽつりと言った。
「エミーリア。残りの二日で、収支の説明も練習するわよ。付き合いなさい」
「はい!」
――体の次は、言葉の準備だ。会合まで、あと二日。




