半分の本当
当日の朝、イルゼヴィーネ様から短い手紙が届いた。
『付き添いは、あなたにするわ。
屋敷の者は連れていかない』
一行目で、ん? となった。二行目で、理由が分かった。
屋敷の中の誰か、の件だ。今のイルゼヴィーネ様は、自分の侍女さえ連れて歩けない。
――それで、仲人を付き添いに。
前世の結婚相談所なら、仮交際のデートに仲人がついていくなんてまずありえない。
でも、ここは前世ではない。それに、もし断ったとしても、この方が噂のように扇の一振りで私を締め出すとは、もう思えなかった。だからこそ、断る気になれない。この短い手紙を書いた時の顔を想像したら、なおさらだ。
場所は、王都の外れにある茶房の奥の個室にした。窓が大きく、通りから離れていて、話し声が外に漏れにくい。私は部屋の隅の小さな卓に陣取った。付き添いの定位置だ。聞こえるけれど、話には入らない距離。
先に着いたイルゼヴィーネ様は、席につくなり扇を開いた。
「……あなた、そこから口を出さないでしょうね」
「出しません。置物だと思ってください」
「随分としゃべる置物ね」
それきり、イルゼヴィーネ様は窓のほうを向いた。唇が、小さく動いている。耳を澄ますと、かすかに聞こえた。
「……誰が、何を欲しがって……」
――練習してる!
思わず身を乗り出しかけて、慌てて座り直した。
約束の時刻ちょうどに、ヴェルナー様が現れた。小脇に、筒状に巻いた紙を抱えている。
「本日も、お時間をいただきありがとうございます」
深く一礼してから、部屋の隅の私に気づいて、もう一度小さく頭を下げる。
「エミーリア様も、ご一緒でしたか」
「付き添いよ。置物だと思ってちょうだい」
――それ、さっき私が言ったやつ。
紅茶が運ばれて、二人が席についた。給仕が下がると、短い沈黙が落ちる。
それから、二人が同時に口を開いた。
「前回の」
「前回は」
声が重なって、ぴたりと止まる。
「失礼しました。お先にどうぞ」
ヴェルナー様が譲ると、イルゼヴィーネ様は扇を少し下げて、練習どおりの言葉を口にした。
「誰が何を欲しがって、何を諦めたのか。紙の上に残っている、と言っていたわね」
ヴェルナー様は少し目を見開いた。
「……覚えていてくださったのですね」
「たまたまよ」
――さっき、練習してましたけどね。
「実は、私も同じ話をするつもりでした」
ヴェルナー様は、抱えていた紙を卓の上に広げた。黄ばんだ古地図の写しだ。細い線で描かれた川と街道。ところどころに、小さな書き込みがある。
――え、ヴェルナー様も、前回の続きから入る気満々だった。
「前回は、途中になってしまいましたので」
そう言って、指先で地図の一点を示した。
「例えば、この街道です。一度まっすぐ引かれた線を、あとから消して、遠回りに引き直してある。土地を持っていた家が、通行料を取るために道を曲げさせたんです。結局、その家はほどなく没落しましたが」
「欲張ったほうが、負けたのね」
「多くの場合は」
イルゼヴィーネ様は地図から目を離さなかった。消された線を、扇の先でそっとなぞっている。
――いい感じ。すごくいい感じ。
心の中でだけ、拍手した。
「それで」
扇が、ぱちんと閉じた。
「分家のことは、どこで聞いたの」
――はい、来た。でも、三言目は越えた。思ったより持ったほうだ。
ヴェルナー様は地図を巻き直す手を止めなかった。
「お答えしにくいことです」
「答えなさい」
返事はなかった。イルゼヴィーネ様の眉が、きゅっと寄る。このままでは、本当に尋問の席になってしまう。
口を出したい。でも、置物の約束がある。私は唇をぐっと結んだ。
イルゼヴィーネ様が、ちらりとこちらを見た。それから、小さく息を吐いた。
「……私だけ聞くのは、不公平ね」
ヴェルナー様が顔を上げた。
「前に、好きなことを聞かれたわね。剣術だとは言ったけれど、どうして好きなのかは言っていなかったわ」
扇が、膝の上に置かれた。
「最初は、母に言われて始めたの。淑女も、自分の身くらい守れるように、と。好きでも嫌いでもなかったわ」
空いた両手が、膝の上で握られた。
「でも、稽古の相手に、どうしても勝てない子がいたの。何度やっても、一度も。……悔しくて、それで続けた。気づいたら、剣を握るのが好きになっていたわ」
初めて聞く話だった。
以前、運動はお好きかと尋ねた時、イルゼヴィーネ様は「好きでも嫌いでもない」と答えた。あの時は、まだ誰にも話す気がなかったのだろう。それを今、自分から話している。
「その方とは、今も?」
「会っていないわ。それ以上は話さない」
「承知しました」
ヴェルナー様はそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ目元を緩めた。
「お強い理由が、分かりました」
「……当然でしょう」
それから、ヴェルナー様は巻いた地図を卓に置いて、まっすぐイルゼヴィーネ様を見た。
「大切なお話を、ありがとうございます。では、私も。お話しできる範囲で、一つ」
イルゼヴィーネ様が、黙って先を促す。
「風の噂、というのは、半分は本当です。私の仕事場には、聞こうとしなくても色々な話が集まってきます」
「残りの半分は」
「今は、まだお話しできません。いずれ、必ず」
イルゼヴィーネ様はしばらく、ヴェルナー様の顔を見ていた。
「はぐらかされた気分ね」
「嘘をつくよりは、いいかと思いまして」
「……そうね」
扇が、ゆっくりと開いた。その陰で、口元が少しだけ緩んだように見えた。
ヴェルナー様を見送ったあと、イルゼヴィーネ様は扇で顔を半分隠したまま、ぼそりと言った。
「ずるい男ね。こっちが一つ話したら、きっちり一つしか返してこない」
「それが、打ち明け返し、です」
「知っているわよ。あなたが言ったんでしょう」
つんと顔を背けられた。でも、その声はどこか機嫌がよかった。
「それと。さっき、口を出したそうな顔をしていたわね」
「置物でしたので、何も」
「随分と揺れていたわよ、置物」
――バレてた。
顔に出る付き添いなんて、前世なら研修からやり直しだ。
帰りの馬車で、今日のことを思い返す。
作戦は、たぶん成功した。尋問の席にはならなかったし、地図の話は弾んだ。イルゼヴィーネ様は自分のことを一つ話して、ヴェルナー様は嘘をつかずに一つ返した。
ただ、一つだけ、頭から離れない言葉がある。
一度も勝てなかった、稽古の相手。
あのイルゼヴィーネ様が、今でも悔しそうに話す人。
――どんな人なんだろう。




