暁
結局、手土産は焼き菓子にした。薔薇の庭に薔薇のお菓子は、さすがに勝負を挑みすぎだと思ったのだ。庭師さんの分も、別の包みで用意してある。
ライテンベルク家の玄関で出迎えてくれたのは、ヴィルヘルム様だった。
扉が開いた瞬間、目が合って、思わず二度見した。前髪が、前回と違っている。長さはそのままだけれど、片側を小さな留め具でとめてある。片方の目はすっかり見えていて、もう片方は、まだ前髪の陰に半分隠れていた。
見えているほうの、オリーブがかった深い緑の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
合茶の時は、前髪の陰でほとんど見えなかった色だ。もったいない。婚活的には、これは強力な武器になる。……などと考えているうちに、いつの間にか言葉を忘れて、見入ってしまっていた。
「あの……ようこそ、おいでくださいました」
ヴィルヘルム様が、居心地悪そうに視線を逸らす。
「し、失礼しました! お招きありがとうございます」
慌てて頭を下げた。
「いえ。……母上は、急な用事で外出しておりまして」
「そうなんですか。お忙しいんですね。……あの、前髪」
「……試している最中です」
視線が泳ぐ。長年の癖なのだろう。手が前髪を引き下ろそうと動いて、途中で、ぐっと止まった。
「さっそく実践してくださったんですね。とてもいいと思います」
「……ありがとうございます」
ずっと前髪で隠してきた顔を、勇気を出して見せてくれているのだ。耳が真っ赤なのは、顔を見られるのが恥ずかしいからだろう。
私の助言を、こんなに素直に実行してくれるなんて。アドバイザー冥利に尽きる。
庭に出ると、息を呑んだ。
赤い薔薇が、庭いっぱいに咲き誇っていた。濃い紅、午後の光を透かした朱、深い臙脂。ところどころに、まだ蕾のままの薄紅色が顔をのぞかせている。花々が幾重にも重なって、まるで絵画の中に迷い込んだようだ。風が吹くたびに、甘い香りが波のように押し寄せてくる。
「……きれい」
思わず、声がこぼれた。
「こんなに見事な庭は、初めて見ました。香りまで贅沢で、いつまでも眺めていたくなります」
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
ヴィルヘルム様の肩から、少しだけ力が抜けた。
「本当に、赤がいっぱいですね。想像以上でした」
「……父が、赤を好んでいたもので」
ヴィルヘルム様は、一番手前の濃い紅の花を指さした。
「これは父が一番好きだった品種で。咲き始めは濃くて、開くにつれて、縁から少しずつ明るくなるんです」
「グラデーションなんですね。素敵」
花の話になると、言葉が詰まらない。具体的な話題には強い人だ。
ふと、薔薇の奥で枝を整えている老人が目に入った。
――来た。ヨーゼフ様の宿題。
「あの方が、庭師さんですか? ぜひ、ご挨拶させてください」
ヴィルヘルム様が頷いて、老人を手招きしてくれた。
「庭師の、ゲオルクです」
日に焼けた小柄な老人が、無言で帽子を取って頭を下げる。私は背筋を伸ばした。
「素晴らしい庭です。この薔薇の咲き方も、枝の剪定も、見事としか言えません。お手入れが本当に大変だと思います。それに、この香り!」
「……はあ」
「最近、薔薇に話しかけていらっしゃると伺いました。そこまで愛情をかけていらっしゃるから、こんなに咲くんですね」
ゲオルクさんは目をぱちぱちさせて、気まずそうに横をちらりと見た。
「いや、あの、お嬢さん。話しかけとるのは、わしじゃなくて」
「ゲオルク」
ヴィルヘルム様が、聞いたことのない小さな声で遮った。
「え?」
「話しかけているのは、その。……私です」
沈黙。風が薔薇を揺らした。
「ここ一週間ほど、坊ちゃんが朝に晩に、薔薇に向かってぶつぶつと。『エミーリア様に、一番いいところを見ていただくんだ。どうか散らないでくれ』と。花がら摘みも水やりも、自分でやると聞かんもんで」
「ゲオルク!」
ヴィルヘルム様の声が、消え入りそうに小さい。
――え、私に見せるために?!
いやいや。せっかく招いたからには、きちんともてなしたい。そんな責任感の強さからだろう。この人らしい。
私の頭の中で、ヨーゼフ様の声が再生される。「あの男、そういう言葉に飢えていますから」
――あの男って……待って、庭師さんじゃなくて、ヴィルヘルム様のこと?!
「す、すみません! 私、てっきり」
「いえ。……変だと、お思いでしょう。庭師でもないのに、手入れまで自分でして、薔薇に話しかけたりなど」
「変じゃないです! むしろ、すごいです!」
勢い余って、声が裏返った。
「お世話も、ご自分で? 当主代理のお仕事もあるのに、本当に大変ですよね。それでこんなに綺麗に咲かせてるなんて、すごい。すごいです。ヴィルヘルム様、本当にすごいです」
語彙力。さっきから「すごい」しか言っていない自分が、情けない。
けれど、ヴィルヘルム様は固まっていた。口が半分開いて、緑の瞳が大きく見開かれている。慌てて片手で口元を隠したけれど、緩んだ頬は隠しきれていない。耳だけでなく、頬まで真っ赤だ。
「……ありが、とう、ございます」
ゲオルクさんは「では、わしはこれで」と短く言うと、私の持ってきた包みを大事そうに受け取って、奥へ戻っていった。
私たちは、薔薇に囲まれた白いベンチに並んで腰かけた。
「父が」
ヴィルヘルム様は少し間を置いて、話し始めた。
「亡くなる前の年に、この一角に苗を植えたんです。……私は、父のようには何も上手くできない。当主代理になってから、毎日、何かに追われている気がして」
淡々とした声だった。けれど、膝の上で、指が何度も組み直されている。
「父は、薔薇も、領地の人たちも、同じように手をかけて育てる人でした。ここで花がらを摘んでいると、その背中を思い出して。……何のために当主代理をしているのか、見失わずにいられるんです」
婚活相談の席なら、ここで助言を挟むところだ。一人で抱え込みすぎないように、とか、人に頼る練習、とか。
けれど、口を開きかけて閉じた。この人はもう、自分の拠りどころをちゃんと知っている。今は、いらない気がした。
「素敵な時間ですね」
それだけ言って、薔薇を眺めた。ヴィルヘルム様も何も言わず、一緒に眺めていた。
しばらくして、彼がぽつりとこぼした。
「不思議です。この話は、誰にもしたことがないのに。あなたには、変だと思われない気がして」
「全然、変じゃないですよ」
即答すると、横顔が少しだけ緩んだ。風が前髪を揺らして、留め具がきらりと光る。
帰り際、ヴィルヘルム様は庭に戻って、一輪の薔薇を切ってきた。深い紅の、咲き始めたばかりの一輪だった。
「よろしければ、お持ち帰りください」
「いいんですか? ありがとうございます!」
「この花の名は、『暁』といいます。夜明けの空の色に似ていると、父が名付けました。暗い夜のあとに、必ず来る色だから、と」
「暁……素敵な名前ですね」
「……飾っていただければ、嬉しいです」
手土産のお返しだ。さすが礼儀正しい。私は両手で受け取った。
帰宅して花瓶に挿していると、グレーテ姉様が部屋を覗いた。
「あら、素敵な薔薇。どなたから?」
「お仕事のお客様から。お庭に招いていただいて」
「ふうん」
姉様は、私の顔をじっと見た。
「……何よ?」
「いいえ。お仕事のお客様にしては、ずいぶん嬉しそうだったから」
「そう? 薔薇は誰でも嬉しいでしょ」
そう答えながら、私は花瓶の位置を何度も直していた。どこに置けば一番よく見えるだろう、と考えながら。




