前髪
カール様への手紙を出して返事を待っているうちに、ヴィルヘルム様との約束の日がやってきた。
合茶のお礼を直接。そう手紙に書いてきた時のあの律儀さを思い出して、少し笑ってしまう。きっと今日もあの調子なのだろう。道中の窓の外では、乾いた風が街路樹の葉を揺らしていた。
辺境伯家の別邸に着くと、使用人がすぐ応接間へ案内してくれた。そこにはすでに、ヴィルヘルム様とマルグレーテ様が揃っていた。私が入るなり、ヴィルヘルム様ががたん、と音を立てて立ち上がる。
「ほ、本日は、お越しいただきありがとうございます。先日の合茶では大変お世話になりました。エミーリア様の細やかな気配りのおかげで」
そこでぴたりと言葉が止まった。目があらぬ方向を泳いでいる。
「……おかげで、その」
「続きは何と言うつもりだったの?」
マルグレーテ様がにこにこと横から口を挟む。
「昨夜から庭を何周も歩いて練習していたでしょう。お礼の言葉」
「母上!」
「何周も、ですか?」
思わず聞き返すと、ヴィルヘルム様はぐ、と喉を鳴らして俯いてしまった。
――練習するほど真面目な人なんだなあ。
しみじみ感心してしまう。私も前世で取引先への挨拶を鏡の前で練習したことがある。気持ちは痛いほど分かる。
「そこまで考えてくださっていたなんて。ありがとうございます」
そう伝えると、ヴィルヘルム様は観念したようにゆっくり息を吐いた。
「……では、練習の成果は諦めます。どうぞ、お掛けください」
その一言が思いのほか可笑しくて、つい吹き出してしまった。ヴィルヘルム様も困ったように笑う。その拍子に前髪が揺れて、隙間から深い緑の瞳が覗いた。
笑うと、ずいぶん印象が違う。きれいな色の目だな、と素直に思った。そういえばライテンベルク家は、代々、整った容姿で知られているんだった。
――これ、隠してるのもったいないなあ。婚活的にも、絶対こっちが武器になるのに。
席につくと、私はさっそく切り出した。
「合茶のその後を、少しご報告させてください。トーマス様とロッテ様があの後二人で、剣を使った舞台を観に行かれたそうですよ」
「それは本当ですか」
ヴィルヘルム様が身を乗り出した。
「ええ。それとロッテ様が、他のご令嬢にも合茶の話を広めてくださっているようで。参加者の皆様からお礼のお手紙もいただきました」
あの日、輪の端で縮こまっていた人が、自分のことのように顔を綻ばせている。その様子に私まで嬉しくなった。
「ヴィルヘルム様の方はいかがですか? ゾフィー様とずいぶん親しくなられたと、お手紙で」
「あ、はい。お借りした本を先日お返しに伺いまして。そうしたら、次は別の紀行文を貸してくださる、と」
話しながら声がわずかに弾んでいる。
「話が合うので、とても楽しいです」
次もあるんだ。あの小さな棘が、また、ちくりと刺さる。
――はい、それ、聞いてます。便箋三枚のやつ。
顔だけはにこやかに保ちながら、私はすっと聞き役の顔に戻った。
「それは何よりです。楽しく話せるのが、一番ですから。……ところで、一つご提案が」
「はい」
「先ほど笑われた時、前髪の隙間から目元が見えたのですが、ヴィルヘルム様の優しい表情が、しっかり伝わってきたんです。前髪を少し上げるか、短くしてみるのはいかがでしょう。目元が見えると、お話しする相手に安心感を与えますから」
ヴィルヘルム様は一瞬だけ言葉に詰まって、ぽつりと繰り返した。
「……上げる、ですか」
――ちょっと唐突だったかな。
それでも彼は戸惑いながら、おずおずと前髪をかき上げてみせた。
隠れていた顔が、すっかり現れる。オリーブがかった深い緑の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
ここまで真正面から目が合ったのは、初めてだった。しかも、私が言ったことを、その場ですぐ試してくれて。
――おっと。
どきん、と胸が鳴った。
(いや、目が合うのに慣れてないだけ。この人、ずっと下向いてたし)
「……変、でしょうか」
「い、いえ!」
慌てて首を振る。
「印象が全然違うので、驚いただけです。とてもいいと思います。ええと、その、目元が出ると、お話しする相手も安心しますし」
自分でも何を言っているのかよく分からなかった。ヴィルヘルム様は手を下ろしながら「……考えてみます」と小さく答えた。
気を取り直して、あれこれ喋る。
「そうそう、合茶のおかげで私にもお誘いが届きまして。ヨーゼフ様から、お茶でもいかがですか、と」
「……ヨーゼフから、ですか」
「ええ。ヴィルヘルム様と同じように気配りを褒めてくださって。『皆の会話がうまくまとまった時の笑顔が印象的でした』なんて、舞台の台詞みたいで思わず笑ってしまいました。それに、幹事で大変だっただろうから今度はゆっくりお茶でも、と」
かちゃり、とヴィルヘルム様がカップを置いた。やけに大きな音だった。
「ロッテ様たちも噂していたんです。ヨーゼフ様、あのお顔でしょう、って。ご令嬢方がきゃあきゃあ騒いでいらっしゃるそうで」
「……そうですか」
ヴィルヘルム様は窓の外をじっと見ていた。返事がさっきから極端に短い。
――あれ、お疲れかな。それとも、私が一人で喋りすぎて退屈させた?
「すみません、私ばかり喋ってしまって。お疲れではありませんか?」
「あらあら、退屈そうに見える?」
答えたのはマルグレーテ様だった。楽しそうに目を細めている。
「逆よ。この子ね、あなたのお話の時だけ、びっくりするほど楽しそうなのよ。他の話題だと三言で終わるのに」
「母上!!」
本日二度目の「母上」は、一言も詰まらない完璧な発声だった。ヴィルヘルム様は耳まで真っ赤にして、勢いよく立ち上がる。
――さすが、練習の成果。
私は感心してその様子を眺めていた。そうか、合茶の話題なら確かによく喋ってくれたもんね。
帰り際、玄関先までヴィルヘルム様が見送りに来てくれた。
「あの」
「はい?」
「ヨーゼフとのお茶は……いつなのですか」
「来週の予定です。合茶の感想を色々聞ける、いい機会かなと」
「……そうですか」
しばらく沈黙が落ちた。それからヴィルヘルム様は意を決したように早口で言った。
「その、翌日。庭の薔薇が見頃を迎えます。よろしければ、ご覧にいらっしゃいませんか」
薔薇。合茶の自己紹介で彼がぼそりと話していた、あの庭の薔薇だ。赤が一番多いと言っていた。
「いいんですか? 見たいです!」
「では……お待ちしております」
馬車に乗り込みながら、私は首を傾げた。
(薔薇の見頃って短いもんね。親切に日取りまで気にしてくださって)
ありがたいなあ、としみじみ思う。
だから、見送るヴィルヘルム様がいつまでもその場を動かなかったことには、気がつかなかった。




