線を一本
隣国出身の侍女から聞いた話が、まだ耳に残っている。ヴァレンフォール卿――率直で、使用人にも分け隔てなく接する、という評判の方だ。一度、直接お目にかかりたい。そう思い立ったものの、正直、どう接触すればいいのか、皆目見当がつかなかった。
隣国の高位貴族ともなれば、こちらから気軽に手紙を書いて済む相手ではない。かといって、また誰かに頼るにしても、これ以上、マリーカ様やアンネリーゼ様の手を煩わせるのも、気が引ける。
さて、どうしたものか。頭を抱えていた、その矢先のことだった。
数日後、思いがけず、マリーカ様から手紙が届いた。
「エミーリア様、お耳に入れたいことがございます。ヴァレンフォール卿が、近々、社交目的で、この国にいらっしゃるとのこと。折しも、我が家の商いも、隣国との取引を広げているところで、父が、商談を兼ねた歓迎の席を設けることになりました。よろしければ、ぜひ、ご一緒にいかがでしょうか」
偶然にしては、出来過ぎた話だった。それでも、この機会を逃す手はない。私は、お誘いに、ありがたく応じることにした。
数週間後、その夜会の日がやってきた。マリーカ様の屋敷には、思っていたより、こぢんまりとした人数が集まっていた。派手な社交というより、気の置けない者同士の、内輪の集まりに近い雰囲気だ。
会場に足を踏み入れると、談笑する招待客の輪の中に、ひときわ背が高く、日に焼けた肌の男性が目についた。隣国特有の、彫りの深い顔立ち。声を上げて笑う様子は、この国の貴族らしい、控えめな物腰とは、明らかに毛色が違う。
マリーカ様に紹介され、私は、ようやく、噂の人物と対面した。
「はじめまして。エミーリア・クラインリヒトと申します」
「ああ、あなたが!噂は伺っていますよ。婚活とやらの、力添えをされている方だとか」
――広まってるの?!怖っ。
内心で、密かに冷や汗をかく。自分の知らないところで、評判が一人歩きしていく。いい加減、慣れてもいい頃なのに、そのたびに、心臓に悪い。
ヴァレンフォール卿は、想像していたより、随分と気さくな方だった。身なりこそ立派だが、話し方に、かしこまった気配は薄い。
しばらく、我が国の観劇事情や、王都の名物料理など、他愛のない雑談が続いた。どう切り出すべきか、私は密かに、機会をうかがっていた。あまり性急に本題へ入っては、失礼にあたる。かといって、悠長に構えている時間もない。
そんな内心の葛藤をよそに、ヴァレンフォール卿の方から、思いがけず、水を向けてくれた。
「それで、今日は、単なる社交辞令だけでは、いらっしゃっていないのでは?」
見透かされていた。私は、覚悟を決めて、率直に切り出すことにした。
「実は、とある方から、縁談に関して、内々にご相談を受けておりまして。ヴァレンフォール卿のお噂を伺い、もし、そういったお話に、興味をお持ちいただけるかどうか、それとなく伺えればと」
ヴァレンフォール卿は、少し目を丸くした後、豪快に笑った。
「これは、また、回りくどい探りなど一切なしですね。気持ちのいい方だ。気に入りました」
そう言うと、少し表情を改めた。
「正直に申し上げます。縁談自体は、光栄な話です。ただ――私には、実は、故郷に、心に決めた相手がおります」
思いがけない答えだった。
「まだ、婚約には至っておりませんが。身分の釣り合いが取れず、双方の家が、なかなか首を縦に振らず。ですから、他国との縁も、少し検討してみようか、という話が、家の中で出ていたところでした」
苦笑交じりのその言葉に、私は、何と返せばいいのか、一瞬、言葉に詰まった。
「そう、だったのですね」
「せっかく、こうして声をかけていただいたのに、申し訳ない。ただ、隠して進めるより、正直にお伝えする方が、お互いのためかと思いまして」
「いいえ。正直にお話しいただけて、助かりました」
心から、そう思った。もし、この事実を知らないまま、話を進めていたら、後になって、もっと厄介なことになっていたかもしれない。
「もし、私にできることがあれば、いつでもお声がけください。私も、貴国に、知人が何人かおります。何かの折には、その伝手を、お貸しできるかと」
「ありがたいお申し出です。またの機会に、ぜひ」
夜会の間、マリーカ様は、それとなく、私とヴァレンフォール卿が、ゆっくり話せるよう、気を配ってくれていたようだった。帰り際、目が合うと、小さく笑いかけてくれる。今日という機会を作ってくれたことに、改めて、感謝の気持ちが湧いた。
夜会を辞し、帰りの馬車に揺られながら、私は、懐から名簿を取り出した。ヴァレンフォール卿の名の上に、静かに、線を一本引く。
それでも、これで縁が切れたわけではない。「知人の伝手を貸せる」というヴァレンフォール卿の申し出も、決して社交辞令だけではないはずだ。候補からは外れても、また別の形で、力を貸していただける日が、来るかもしれない。そう思うと、少しだけ、気持ちが軽くなった。
人柄は、申し分なかった。話しぶりも、終始、誠実そのものだった。それでも、縁談というのは、条件や人柄がいくら揃っていても、想いだけでは、どうにもならないことがある。
思えば、これまで調べてきた誰もが、それぞれの事情を抱えていた。カール様には、まだ判然としない、何かしらの引っかかりがあり、ヴァレンフォール卿には、故郷に想う人がいる。名簿の上では、家柄も資産も、条件だけを見れば、申し分のない相手ばかりだった。それでも、一人ひとりに会ってみれば、紙の上には決して表れない、その人なりの人生の重みが、確かにあった。改めて、そのことを、思い知らされた気がした。
残るは、あと一人。王族に仕える、あの物静かな文官。マリーカ様の叔母君からは、「物静かで、本心が読み取りにくい」とだけ聞いている。イルゼヴィーネ様が望む、「物怖じせず接せられる人」に、果たして当てはまる方なのだろうか。
窓の外、暮れかけた空を見上げながら、私は、小さく息を吐いた。次は、あちらの伝手を頼ることになりそうだ。




