貴女に、もう一つ
辺境伯家を辞してから、数日が過ぎていた。
その間、私は一度も、イルゼヴィーネ様のもとを訪ねていなかった。夜会の結果を聞くのが、正直、少し怖かったのかもしれない。
意を決して手紙を出すと、返事は思いのほか早く届いた。「明日、いつも通りに」とだけ、素っ気ない一文が添えられていた。
翌日、応接間に通されると、イルゼヴィーネ様は、いつもと変わらない様子で、扇を弄びながら座っていた。それでも、部屋に入った瞬間、いつもより張り詰めた空気を感じた。
「遅かったわね」
「申し訳ございません。……夜会は、いかがでしたか」
思い切って尋ねると、イルゼヴィーネ様は、扇の陰から、こちらをじっと見た。
「悪くなかったわ。最後まで、しっかり立っていられた」
短い答えだったが、その裏に、何か言葉にしきれない安堵が滲んでいるように感じられた。
「分家の方々の反応は、いかがでしたか」
「……相変わらず、色々と言いたいことはあるようだったけれど」
イルゼヴィーネ様は、一度言葉を切った。
「少なくとも、これ以上、余計な口出しをさせる隙は、与えなかったつもりよ」
派手な逆転劇ではない。それでも、確かな一つの区切りだった。
イルゼヴィーネ様は、しばらく黙って、扇の骨を指先でなぞっていた。何かを言い出しかねているような、そんな間だった。
「……それで、今日呼んだのは、他でもないの」
「はい」
「単刀直入に言うわ」
そう前置きすると、イルゼヴィーネ様は、まっすぐにこちらを見据えた。
「私の"相手探し"を、あなたに頼みたいの」
一瞬、部屋の空気が、変わったように感じた。
「……私に、でしょうか」
「あなた、他家の方の縁談のお力添えをしている、という噂を耳にしたわ」
心臓が跳ねた。ヴィルヘルム様の一件が、もうここまで伝わっているのだろうか。
「畏れながら申し上げますと、公爵家ほどの家のお力があれば、私などより、もっと確かな伝手をお持ちなのではないでしょうか」
「持っているわよ、もちろん」
イルゼヴィーネ様は、扇をぱちりと閉じた。
「けれど、公爵家が動けば、相手は必ず、身構える。公爵家に見初められた、という重圧を背負って、私の前に立つことになる。そんな相手から、本当の人柄なんて、見えるはずがないでしょう」
「……それで、身分の軽い私のような者であれば」
「そう。あなたが訪ねていっても、相手は、大した相手だとは思わない。だからこそ、変に取り繕わず、素のままで話す。あなたなら、その"素"の部分を、見極められるのではないかと思ったの」
まっすぐな物言いだった。高慢さの下に、初めて、明確な理由が見えた気がした。
「……あの、具体的には、どのような方を候補として」
「一から探せ、とは言わないわ。父の方でも、これまでに何人か、名前だけは挙がっている方がいるの」
イルゼヴィーネ様は、懐から一枚の紙を取り出し、こちらへと差し出した。目を通すと、三名分の名前と、簡単な家柄が書き記されている。
一人は、王族に仕える高位の文官。もう一人は、隣国の有力な高位貴族。最後の一人は、国内でも指折りの家柄を持つ、若い侯爵。それぞれ、家柄も人となりも、随分と毛色が違う。
「爵位、資産、家柄。条件だけなら、この通り釣り合う方々よ。それでも、条件だけで選んだ相手が、本当に信頼できる後ろ盾になるとは限らない。だからこそ、あなたに頼みたいの」
「この中から、人柄を見極めてほしい、ということでしょうか」
「そう。ただ――見繕ってほしいのは、条件が良いだけの人形ではないわ」
イルゼヴィーネ様は、一瞬、言葉を選ぶように黙った。
「……この私を相手に、物怖じせず接せられるような。そんな人が、いい」
その一言に、私は小さく息を呑んだ。高慢な態度の裏にある、彼女の本音が、初めて、はっきりと言葉になった瞬間だった。
「それに――この中に、本当に相応しい人物がいなければ、正直に言ってちょうだい。無理に、この中から選べとは言わないから」
「……分かりました。力の及ぶ限り、務めさせていただきます」
そう答えると、イルゼヴィーネ様は、小さく頷いた。
「せいぜい期待しているわ」
その一言は、これまでの、突き放すような物言いとは、少しだけ違って聞こえた。
公爵邸を後にしながら、私は懐に収めた候補者の名簿を、そっと確かめた。
体調の相談から始まった関係が、また一つ、別の形へと進もうとしている。ヴィルヘルム様の件と合わせれば、これで二件、縁談そのものに関わることになる。
それにしても――公爵家ほどの調査網があっても、"人柄"までは見抜けないというのが、少し意外だった。
名簿に記された三つの名前を、私は一つずつ、指でなぞってみる。どれも、聞いたことのない名ではない。それでも、実際にどんな人物なのか、詳しくは知らない相手ばかりだった。
家柄や資産といった、目に見える条件は、公爵家の調査網なら、いくらでも調べがつくのだろう。けれど、"本当の人柄"というのは、そういう記録には残らない。
――でも、私になら、拾える噂があるかもしれない。
これまで、内緒で相談に乗ってきた令嬢たちの顔が、次々と頭に浮かぶ。アンネリーゼ様、マリーカ様、そして名も知らぬ幾人か。彼女たちの間だけで、ひっそりと囁かれている噂話――誰と誰が以前縁談の話があったとか、どんな評判があるとか。そういう、表沙汰にはならない、けれど確かな手がかりが、この人脈の中には眠っているはずだった。
公爵家の調査網には拾えない噂を、私になら拾えるかもしれない。
帰りの馬車に揺られながら、私はそう考えを巡らせていた。
正直、まだ実感が湧かない。それでも、目の前にあることを、一つずつ片付けていくしかなかった。




