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第9話 検証作戦、その一



「合同訓練です」


蒼薔薇騎士団の訓練場で、女騎士が爽やかに言った。

初夏の陽射しが、砂の上に照りつけていた。その中に、アルトは立っていた。

周りを、女騎士たちが囲んでいた。

八人。いや、十人はいる。全員が、訓練用の薄い肌着姿だった。袖はなく、裾は膝の上まで。鍛えた腕と脚が、陽に焼けて光っている。


「騎士団では、夏場はこの格好で訓練するのが決まりでして」


「……そう、なのですね」


(そんな決まり、聞いたことない)


付き添いのヘルガが、訓練場の端の日陰から手を振っていた。片手に、来る途中で買った揚げ菓子の袋を持っていた。


「本日は、男性の護身術の基礎を。組み手を少々」


「組み手」


「ご安心ください。寝技が中心ですので、怪我はいたしません」


(寝技)



この国の法では、女が男に無断で触れることは罪になる。

だから、女騎士は組み手の前に、作法通りに尋ねた。


「お体に、触れてもよろしいでしょうか」


アルトは、少し考えるふりをした。

断れば、それで済む話だった。この国の男なら、誰でもそうする。


「……訓練、ですので」


「感謝いたします」


女騎士が、にっこりと笑った。

次の瞬間、アルトの視界が回転した。

背中が砂についた。上から、温かい重みがのしかかってきた。


「これが、基本の抑え込みです」


耳元で声がした。


「ここから抜け出す方法を、お教えします。まず、腰をこう」


彼女の腰が、アルトの腰の上で動いた。


(……っ)


「膝をこう」


彼女の膝が、アルトの脇腹を締めた。


(……っ、っ)


「そして、腕をこう取られた場合は」


彼女が身を乗り出した。汗と、日向の砂の匂い。

鍛えた太腿が、アルトの首の横を通過した。


(今)


(今、太腿が、首の、横を、通過しました)


(現在、太腿は、首の、真横に、待機中)


(あっ、移動、移動します、反対側へ、ゆっくりと)


「——分かりましたか?」


上から、女騎士が覗き込んでいた。

アルトは砂の上に仰向けのまま、穏やかに答えた。


「……大変、勉強になります」


(素数が、足りない)



二人目も、三人目も、同じだった。

寝技。抑え込み。腕の取り方。足の絡め方。女騎士たちは入れ替わり立ち替わり、アルトを砂の上に転がした。

全員が、近かった。全員が、汗をかいていた。

アルトは三人目のあたりで、素数を数えるのを諦めた。代わりに、王国の歴代国王の名前を暗唱し始めた。それも十代目で尽きた。

訓練場の端で、一人の女騎士が腕を組んで立っていた。

長い黒髪を、きっちりと束ねている。灰色の目が、アルトの一挙手一投足を見ていた。何かを帳面に書きつけながら。


(あの人だけ、組み手に入ってこないな)


その黒髪の騎士は、アルトと一度だけ目が合うと、何事もなかったように帳面へ視線を戻した。



翌日は、王立魔導院だった。


「健康診断です」


白衣の研究員が、無表情に言った。

診察室の椅子に座らされたアルトの胸と手首に、細い管のついた金属片が貼りつけられた。管の先は、壁際の大きな機械に繋がっている。


「心拍計測器です。魔力で拍動を読み取り、こちらの紙に記録します」


機械の上で、ペンがかすかに揺れながら、細長い紙に線を引いていた。規則正しい、小さな波だった。


「三十分ほど、そのまま座っていてください。こちらで、いくつか確認いたしますので」


「確認」


「はい。順番に」


研究員が扉の方へ合図をした。

扉が開いた。

一人目の研究員が入ってきた。

白衣の前を、なぜか大きく開けていた。中は、薄手の夏服だった。

彼女はアルトの前を、ゆっくりと横切った。棚から書類を一枚取って、また、ゆっくりと出ていった。

機械のペンが、ぴくりと跳ねた。

二人目が入ってきた。

髪を下ろしていた。窓際まで歩いて、窓を開けた。風が吹き込んで、彼女の髪が揺れた。甘い香油の匂いが、部屋に広がった。

ペンが、さっきより大きく跳ねた。

三人目。四人目。

全員が、美人だった。全員が、何かしら用事を作っては、アルトの目の前を通っていった。

五人目は、アルトのすぐ前で屈んで、床に落ちた(落とした)ペンを拾った。

機械のペンが、紙の端まで跳ね上がった。


(Oh……)


(Oh, my……)


(This is……so……beautiful……)


(Science……Science is……beautiful……)


「異常はございませんか」


記録係の研究員が、無表情に聞いた。

アルトは椅子の上で、背筋を伸ばした。


「……特に、ありません」


研究員は、機械の紙を見た。

紙の上で、ペンが描いた線は、山脈のようになっていた。


「…………」


研究員は、紙を見て、アルトを見て、もう一度紙を見た。


「機器の故障、でしょうか」


「故障、でしょうね」




診察室を出ると、廊下の向こうから書類の山が歩いてきた。

いや、書類の山を抱えた人だった。

腕いっぱいに紙の束を抱えて、顔がほとんど見えない。その上から、とんでもなく長い灰銀の髪がはみ出していた。手入れをしていないのか、あちこちが跳ねて、書類の端に絡まっている。


「ハーシェル」


さっきの研究員が、書類の山に呼びかけた。


「これも、統計課の分析に回しておいて」


研究員は、心拍計の記録紙を丸めて、書類の山の一番上に乗せた。


「……はい」


書類の山の向こうから、淡々とした声がした。


「機器の故障だと思うから、適当でいいわよ。どうせ手が空いてるでしょう」


「はい」


書類の山は、それ以上何も言わずに、ゆっくりと廊下の奥へ歩いていった。

すれ違いざまに、紙と、インクと、少し焦げたような匂いがした。それから、その奥に、日向で丸くなった猫のような、ほのかに温かい匂い。

アルトは振り返った。

書類の山の後ろ姿から、灰銀の髪が床に届きそうなほど垂れていた。




三日目は、七都商盟だった。


「新商品の、試用会にございます」


商盟の展示室には、長い卓がいくつも並んでいた。その上に、色とりどりの品物が所狭しと置かれている。

香水。装身具。織物。見たこともない形の道具。


「どれも、まだ市場に出ていない品です。殿方のご意見を、ぜひ伺いたく」


案内係の女性が、にこやかに言った。

アルトは卓の間を歩いた。付き添いのヘルガが、後ろから物珍しそうについてくる。


「ねえアルト、これ何?」


ヘルガが、細長い革の道具を手に取った。


「……分かりません」


「こっちは?」


「分かりません」


(分かるけど、分からないことにしておく)


品物の多くは、どうやら女性向けのものらしかった。男の目を惹くための香水。男の警戒を解くための装身具。そういう説明書きが、小さな札に添えられている。


(この世界の女性も、大変なんだな)


アルトは卓の一番端で、足を止めた。

小さな銀の首飾りがあった。

細い鎖の先に、親指の先ほどの小瓶がついている。札には、こう書いてあった。


『香封じの首飾り。身につけた方の香りを、ごく近くでだけ、強く立たせます。離れれば、ほとんど香りません』

その下に、もう一行。


『※殿方には、ご好評をいただけておりません』


(近くでだけ)


アルトは、その首飾りを見つめていた。

遠くでは分からない。近づいたときだけ、その人の匂いが強くなる。

あの小鑑定室で、セラフィナが身を屈めたときの、陽だまりのミルクの匂いを思い出していた。


(……これ、すごくいいのでは)


気がつくと、首飾りを手に取っていた。

小瓶を、灯りにかざしていた。指先で、その細い鎖を、そっとなぞっていた。


(考えた人、天才では)


(ありがとうございます。名前も知らない職人さん、ありがとうございます)


「……あの」


案内係の声で、我に返った。


「お気に召しましたか」

アルトは首飾りを卓に戻した。


「いえ。造りが、珍しかったので」


穏やかに微笑む。いつもの顔だった。


「拝見しただけです」


「左様でございますか」


案内係は、にこやかに頷いた。

アルトは気づかなかった。

展示室の奥、帳の陰に、もう一人の女がいたことに。

赤褐色の髪をきっちりとまとめ、仕立てのいい服を着て、帳簿を手にした女。彼女は、アルトが首飾りを手に取ってから戻すまでを、最初から最後まで見ていた。

数えていた、と言った方が正しかった。

手に取ってから、灯りにかざすまで。かざしてから、鎖をなぞるまで。なぞってから、戻すまで。

インクの染みのついた指先が、帳簿の余白に、小さく書き込んだ。


『香封じ手に取る、十二呼吸』



その夜。

蒼薔薇騎士団の会議室。


「抑え込みの最中、対象は一度も悲鳴を上げなかった」


組み手を担当した女騎士が報告していた。


「男性は、通常なら三秒で泣き出します。十人がかりで、一人も泣かせられませんでした」


「それどころか」


別の騎士が付け加えた。


「三人目あたりから、何か、歴代国王の名前を呟いていました」


長い黒髪の騎士が、帳面を閉じた。


「……やはり」




王立魔導院の会議室。


「心拍計は故障でした」


研究員が報告していた。


「念のため、同じ機器で同じ条件の別の男性を計測しましたが、そちらは正常でした」


「つまり」


「対象の測定時のみ、故障しました」


会議室の全員が、黙った。

院長のドロテアが、眼鏡を押し上げた。


「……故障では、ないわね」


七都商盟の議長室。

マルグリットは、帳簿の余白を指でなぞっていた。


『香封じ手に取る、十二呼吸』


普通の男なら、手に取りもしない。手に取ったとしても、二呼吸で戻す。

十二呼吸。


「……なるほど」


彼女は帳簿を閉じた。

三つの部屋で、三つの勢力が、同じ結論に辿り着いていた。

そしてそれぞれが、こう確信していた。


これに気づいたのは、我々だけだ、と。



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