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第10話 顔に、書いてある


冒険者ギルド王都本部の扉を開けた瞬間、酒場の喧騒が止まった。

昼下がりだった。依頼帰りの冒険者たちが、長卓で麦酒を呷っている時間帯だ。

その全員が、入口を見ていた。

正確には、入口に立つ男を。


「……見学の、お約束で参りました。フェンネルと申します」


アルトが一礼すると、酒場のあちこちで、ひそひそと声が交わされた。


「男だ」

「男が、ギルドに」

「あれが噂の」


付き添いの長姉エルゼが、一歩前に出た。背筋を伸ばし、酒場全体を見回す。笑顔だった。目は笑っていなかった。

囁き声が、すっと引いた。


(エルゼ姉上、強い)


奥の受付から、背の高い女性が歩いてきた。

四十代半ばだろうか。短く刈った灰色の髪に、片眼鏡。腰に剣を佩いているが、手に持っているのは書類の束だった。


「ギルド長のハンナ・クロイツです。ようこそ、フェンネル殿」


「本日は、お招きいただき」


「堅苦しいのはいい。見るものも大してないが、ゆっくりしていってくれ」


ハンナは書類を脇に挟んで、酒場の奥を顎で示した。


「依頼の掲示板と、素材の買取所と、訓練場。それから、うちの看板がいる」


「看板」


「ああ。今日はちょうど、帰ってきてる」



酒場の一番奥の卓に、その女はいた。

一人で、骨付き肉に齧りついていた。

赤い髪を、首のあたりで無造作に短く切っている。日焼けした肌。袖のない革の上衣から伸びる腕は、アルトの太腿より太かった。その腕のあちこちに、白い傷痕が走っている。

椅子の背に、身の丈ほどの大剣が立てかけてあった。


「ロッサ」


ハンナが呼んだ。


「客だ。挨拶しろ」


女は肉を齧ったまま、顔を上げた。

金茶色の目が、アルトを見た。

頭のてっぺんから、つま先まで。ゆっくりと、一度だけ。

それから、骨を皿に置いた。

指についた脂を、ぺろりと舐める。椅子をがたんと引いて、立ち上がった。

大きかった。アルトより、頭一つ分は高かった。

彼女はアルトの目の前まで歩いてきて、見下ろした。

土と、焚き火と、汗の匂いがした。


「お前」


低い、少し掠れた声だった。


「ヤりたいんだろ?」


酒場が、凍りついた。


「顔に書いてある」



誰も、動かなかった。

エルゼが、笑顔のまま固まっていた。ハンナが、片眼鏡の奥で目を閉じていた。長卓の冒険者たちが、麦酒の杯を口元で止めていた。

アルトは、目の前の女を見上げていた。


(……え)


金茶色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。

からかっている目ではなかった。試している目でもなかった。

ただ、見たままを言った。そういう目だった。


(え、待って)


(バレてる)


(いや、バレてるっていうか、言われた)


(初対面で、面と向かって、一言目で)


アルトの頭の中で、十八年かけて築いた建前の城壁が、音を立てて軋んでいた。


(否定、否定しないと)


(いや、でも、この人の目、否定しても無駄な目だ)


(素数……2……3……)


(顔に書いてある、って、どこに、どの辺に)


(5……7……顔のどこに……)


(だめだ、素数が顔に負ける)


最初に動いたのは、酒場の隅の誰かだった。

ぷっ、と吹き出す音がした。

それが合図だった。

酒場中が、爆発したように笑い出した。


「ロッサ、またかよ!」

「男が女を、なんて、あるわけねえだろ!」

「こないだは犬が人の言葉を喋るって言ってたよな!」

「あれは本当に喋ったんだって!」


長卓を叩く音。杯がぶつかる音。誰もが腹を抱えて笑っていた。


「すまない、フェンネル殿」


ハンナが、こめかみを押さえながら言った。


「こいつの言うことは、気にしないでくれ。一割で聞いておけばいい」


「ハンナ、だから一割は本当なんだって」


「その一割がどれか、誰にも分からんのが問題だ」


アルトは、ようやく息をした。

それから、穏やかに微笑んだ。


「……面白い方ですね」


(助かった)


(この人の言うこと、誰も信じないんだ)


エルゼも、ほっとしたように笑った。


「本当に、失礼な冗談だこと。ねえ、アルト」


「ええ、姉上」


酒場の笑い声は、なかなか収まらなかった。

その中で、一人だけ笑っていない人がいた。

ロッサだった。

いや、笑っていた。

ただ、他の連中とは違う笑い方だった。口の端だけを持ち上げて、にやにやと。金茶色の目が、ずっとアルトを見ていた。

アルトは、その目から視線を外した。

外してから、もう一度だけ見てしまった。

ロッサの笑みが、深くなった。


ギルドの見学は、つつがなく終わった。

掲示板の依頼。買取所の素材の山。訓練場で剣を振る冒険者たち。ハンナは説明が短く、要点だけを話す人だった。

帰り際、入口の扉の前で、背後から声がした。


「おい」


振り返ると、ロッサが壁にもたれていた。いつの間に来たのか、足音がまったくしなかった。


「また来いよ」


「……機会があれば」


「あるさ」


ロッサは、にかっと笑った。白い歯が、日焼けした顔の中で光った。


「あたしの勘は、当たるんだ。誰も信じないけどな」


エルゼが、アルトの腕を引いた。


「行きましょう、アルト」


扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返った。

ロッサは、まだ壁にもたれてこちらを見ていた。骨付き肉を、どこからか取り出して、また齧っていた。


三日後。

王宮の小庭園で、茶会が開かれた。

初夏の花が咲き乱れる庭に、白い卓が据えられていた。銀の茶器。焼き菓子の皿。日除けの天幕。

招かれたのは、アルトと母のマルタだった。


「このような席に、うちの子を」


母は朝から緊張しきっていた。王家からの招待など、準男爵家には一生に一度あるかないかの話だった。

卓の周りには、王宮の侍女たちが十人ほど控えていた。

全員が、若く美しかった。全員が、なぜか茶会の給仕にしては着飾りすぎていた。

侍女長のグレタが、恭しく一礼した。


「本日は、王家の小茶会にようこそお越しくださいました。どうぞ、お掛けくださいませ」


アルトが席に着いた瞬間、両側の椅子に侍女が座った。

給仕ではなく、座った。


「お茶を、お注ぎいたしますわ」

右の侍女が、ポットを手に身を寄せた。

肩が、触れそうなほど近い。花の香油の匂いがした。


(……っ)


「焼き菓子は、いかがですか」


左の侍女が、皿を差し出しながら身を寄せた。

髪が、アルトの頬をかすめた。


(……っ、っ)


「あら、袖にくずが」


正面の侍女が、身を乗り出してアルトの袖に手を伸ばした。


「触れても、よろしいかしら」


「……お気遣い、ありがとうございます」


母が、隣の席で目を白黒させていた。


(母上、これが王家の作法だと思ってるな)


(違います母上)


(これは、包囲です)


侍女たちは、入れ替わり立ち替わりアルトの周りを固めた。茶を注ぐ。菓子を勧める。袖を払う。髪を直す。耳元で、天気の話をする。

全部が、誘いの作法だった。

この国の女が男に向けて使う、昔ながらの作法。身を寄せる。耳元で囁く。手に触れる。香りを纏う。

普通の男には効かない。怯えて身を固くするか、逃げ出すか、どちらかだ。

アルトには、全部効いていた。

効いていたが、母が隣にいた。王家の茶会だった。

アルトは、十八年分の演技を総動員して、穏やかな微笑みを顔に貼りつけ続けた。


(2、3、5、7、11)


(13、17、19、23)


(素数って、無限にあるんだよな。ユークリッド、ありがとう)



卓の上座に、一つだけ空いた席があった。

茶碗が置かれ、焼き菓子が取り分けられている。誰も座っていなかった。

茶会が半ばを過ぎた頃、一人の侍女がグレタの耳元で何かを囁いた。

グレタの表情は、変わらなかった。ただ、手にしていた扇が、ほんのわずかに止まった。


「……皆さま」


グレタが、穏やかに告げた。


「本日、第一王女殿下もお見えになる予定でございましたが、急な体調不良のため、ご欠席となりました。大変失礼いたしました」


母が、あわてて頭を下げた。


「まあ、それはお大事に」


アルトは、空いた上座の席を見た。

茶碗の中の茶は、冷めかけていた。取り分けられた焼き菓子に、誰も手をつけていなかった。


(第一王女)


噂には聞いていた。この国の王位継承者。自分と同じ十八歳で、ほとんど人前に出ない人だと。


(体調不良、か)


その席の周りにだけ、なぜか花が一輪も飾られていなかった。


茶会の帰り、馬車の中で、母がぐったりと座席にもたれた。


「王家の茶会って、あんなに賑やかなものなのね……」


「そのようですね」


「侍女の方々が、ずいぶん親切で」


「……ええ。とても」


アルトは窓の外を見ていた。

肩に、まだ花の香油の匂いが残っていた。頬に、侍女の髪の感触が残っていた。


(ギリギリ、耐えた)


(たぶん)


(……つもり)



その夜。

蒼薔薇騎士団、団長室。

ベアトリクスの机の上に、報告書が積み上がっていた。

騎士団の合同訓練。魔導院の健康診断。七都商盟の試用会。冒険者ギルドの見学。王家の茶会。

どこからどう手に入れたのか、五つ全部の記録が、ここに揃っていた。

そして、その全部が、同じことを示していた。

ベアトリクスは、報告書の一番上に置かれた封書を手に取った。

今日の夕方、軍務院から届いたものだった。封蝋は、まだ割っていなかった。

割らなくても、中身の見当はついた。

神殿の祝福が倍になった、という話は、もう王都中に広まっている。軍務院が、それを黙って見ているはずがない。

彼女は封蝋を割った。

文面を読む。一度。それから、もう一度。

それから、扉の外の当番兵に声をかけた。


「副長を、呼べ」



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